第1話 亡国の姫とその豚
――北のお山には、何でも願いを叶えてくれる賢者様がいるらしい。
「賢者殿……私に力を貸して欲しい」
亡国の姫君は、たった一つの望みのために幾つもの罪を背負うことを決めた。
『亡国の姫君とその豚は、
不殺を誓って国を堕とす。』
雪山の頂には、一帯のどこよりも早く朝が訪れる。旭光を浴びた山肌が白く輝き、冷たい空気が弾いた空の青が、遠くの山に同じ色の影を作っていた。
彼女にとって特別な日の早朝。そこにルティエは居た。
「……」
白い息を吐き、両手を胸に当てると――虚空から滲み出した赤い光がそこに集まっていく。
――18歳の誕生日。生まれて初めて得た力。記憶の中から取り出したような赤。
光の花束を抱えるルティエからは、抑えきれない笑みが溢れていた。
◇◇◇
昼になり、ルティエの傍らで住処の戸締まりを済ませた家主の男は、柔らかく頷いた。
「それじゃあ行きましょうか」
「うん」
慣れた様子で山道を下り始めるルティエは、この地を訪れたばかりの頃を思い出していた。
(山なんて登ったこともなかったのに)
――ルティエは一国の王女だった。過去形なのは、その国が10年前にルティエ一人を残して滅んだからだ。
そんな彼女の隣を歩く魔導士の名はノミュラス。この10年間、ルティエの保護者となってきた――今のルティエにとって唯一の身内とも言える存在だ。
彼らは今、住み慣れた山を離れ旅に出ようとしている。
◇
下山し麓の町へ入ると――数人の住民が二人の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「ルティエちゃんだ!」
「どうされました? この前いらしたばかりなのに」
「ノミュラス様、いつもと違う髪型だね」
普段から知恵や魔法の力を貸しているノミュラスは、この町で大変慕われている。その弟子のような立ち位置にいるルティエも、相応に可愛がられていた。
「暫く留守にします。半年くらいですかね」
「えぇっ、そんなに!? どちらへ!?」
滅多なことでは雪山を離れない賢者の衝撃発言により住民に激震が走る中――ルティエが元気よく答える。
「王都へ!」
――目指すのは、自らの故郷を滅ぼした王国の都。
ルティエの生きる目的は、国を亡くした時から、ただ一つ――“復讐”だった。
◇◇◇
「酷い……」
王都へ向かう途中に寄ったその村は明らかに疲弊しきっており、表には老人と子供の姿しかなかった。働き盛りの人間がいるとすれば、家の中にいるであろう怪我人と病人くらいだと思われた。
「……血の匂いがする」
「魔力の気配も残っています。王国の軍隊が来て間もないようですね」
労働力となる者が軍の手で奴隷として取られていく――王都から離れた土地ではよく見かける光景だった。
「ねぇ、あれ……!」
「う……うぅ……」
ルティエは、建物の影で太腿に火傷を負って動けなくなっている子供を見つけて駆け寄った。その横にノミュラスは跪く。
「傷を治しますね」
手を当てると、柔らかな緑色の光が発生し、みるみるうちに火傷跡が消えていった。
「これ……魔法? お兄ちゃん、王都の偉い人……?」
「違いますよ」
回復魔法によって新しい皮膚が出来た箇所に、ルティエは保護用の布を巻きながら尋ねる。
「どうしたの? こんなに大きな傷……」
「王国の兵士に、魔法でやられた。おれ、戦ったけど……母ちゃんも姉ちゃんも連れていかれた。守れなかった……」
「……っ」
ルティエは唇を噛んで、涙を流す少年を抱き締めた。
「おれも、魔法が使えれば……っ」
王国では古くから支配階級が魔法を独占している。魔法を学ぶことを許されるのは彼らだけだ。
だが、その支配階級の中ですら魔法を使えない者は蔑まれる。
まして魔法を学ぶ機会すら与えられない平民なら、その扱いは推して知るべしだ。
後から侵略された土地の民なら尚更だった。目の前で涙を流す少年のように。
「……ありがとう。お姉ちゃん、もう平気だよ。それで、あの、お兄ちゃん……魔法が使えるならお願いが……」
「分かっていますよ。病気や怪我のある方がいれば診ましょう」
◇
村人から「お礼に」と、宿代わりに借りた空き家の一室で、二人は身体を休めていた。
「野宿せずに済んで良かったですね」
「うん。外に出ても、やることは一緒なんだね」
普段は雪山で暮らしているノミュラスだが、たまに人里に下りては依頼を受け、謝礼として渡される物資や金銭を生活の糧にしている。入り用の際には自作の魔導書を売ることもあるらしいが、それもルティエにとって羨望の対象だった。
「魔法が使えるって良いよね」
「人には過ぎた力ですよ」
――だからこそ、使い方を間違えれば恐ろしいことになる。そう言いたいのだとルティエは解釈した。
「けど、回復魔法を使える人がいれば皆助かるのに」
「ええ。ですが最近は違います。少し魔法が使えるだけで命を狙われることもあるそうです」
「……」
「昔はここまでではなかったのですが……」
ルティエはベッドに腰掛け、ポツリと呟く。
「魔法を使えない者を虐げ、魔法を使う弱い者は消す。大義なんてどこにもないね」
王国は『魔法を一括管理し、王国全体を豊かにする』ことを掲げている。ルティエには隅から隅まで皮肉にしか思えないが――その建前の下で王国は大陸の三分の二を支配している。まるでそれが正義だと示すかのように。
「絶対にあの侵略国家を――王を止めなきゃ」
子供の足に巻いた布の残りを手に取って眺めていたルティエに、ノミュラスは微笑みかける。
「同じ思いをする人間をこれ以上作らないように、ですか?」
「単なる復讐だって。ずっとそう言ってるでしょ」
◇◇◇
目的地に到達した時には、出発から1か月が経過していた。
「ここが王都……」
生まれて初めて見る規模の――賑やかな往来と高い城壁に、ルティエは思わずたじろぐ。その様子を見て、地元民であろう少女が近寄って来た。
「お姉さん、王都は初めてでしょ! 王国のことを教えてあげようか?」
「うん。教えてくれる?」
ルティエが愛想よく答えると、少女は咳払いをしてから慣れた様子で教科書通りの定型文を述べ始める。隣でノミュラスが小さく溜め息を漏らしたのに、ルティエは気付かなかった。
「我が王国は200年ほど前に英雄たる初代の王が建国しました。初代王は神より力を授かったと言われており、王の子も、そのまた子も優れていました」
ルティエは頭の中で続きの文をなぞる。
――神の名代たる王家は、愚かな人間より奪われた土地や民を、今に至るまで取り戻し続けてきました。大陸の統一は神の――我が王国の宿願なのです。
何度読んでも「狂っている」という感想しか抱けない駄文だった。昔はどこの国でも「王は神の一柱だった」「神から力を賜った」などの伝説をでっちあげ、支配者を神格化したものだが、ここまで傲慢なのはこの国だけだ。
「ここ王都は、王がおわすのは勿論、国――ひいては大陸全土に繁栄をもたらすべく日夜尽力する行政や軍の中枢機関の集まる、まさに世界の中心とも言える街なのです」
「教えてくれてありがとう」
説明を終えた少女が手のひらを上にして差し出すのを見て、ルティエは困惑する。
「えっと……」
「どうぞ、お嬢さん」
ノミュラスが小さな手に銅貨を乗せると、少女はニッコリ笑って去っていった。
「……なるほど」
「私もこの国の豆知識をお教えして宜しいですか?」
返事を聞く前に「お代は要りません」と断りを入れてから話し始める。
「80年ほど前まではイントルヴァ王国と言ったんですけどね。この世に王国はただ一つという理念から、単純に『王国』と称するようになったようです」
ルティエはスッと差し出されたノミュラスの手のひらをバチンッと叩いた。
「ん゛っ!」
「それも知ってるよ。どれだけこの国について勉強したと思ってるの」
「失礼しました……」と頭を垂れて小刻みに震えるノミュラスから目線を外し、ルティエは遠く王宮の方角を見つめる。
(それに……忘れられる訳がない)
――大陸の内で本当に『王国』が“一つ”になったのは、ルティエの祖国であるカドゥリエ『王国』が滅びた時だった。
◇◇◇
王都で最も栄える大通り――から何本か入った閑静な通り沿いにある宿屋。客二人をジロリと見つめる無愛想な宿屋の主人に物怖じせず、ノミュラスはにこやかにカウンターへと近付いた。
「ひと部屋お借りできますか?」
計画を実行する為の拠点として選ばれたのが、他でもないこの宿だった。選定基準はノミュラス曰く「大した魔力の気配がしないから」とのことだ。
「日数は?」
「とりあえずひと月」
「前払いだよ」
カウンター上に乗せられた金貨の枚数を、宿屋が数える。
「まいど。二階の奥の部屋だ」
鍵を受け取り二階へ上がる。軋む廊下を歩きながら、ルティエは窓の外へ目を向けた。
これから何か月も見ることになるだろう、ありふれた王都の景色が広がっていた。
突き当たりの部屋へ辿り着き、ノミュラスが扉を開く。
「あ〜疲れた〜っ!」
一目散にベッドへと倒れ込むルティエに向け、ノミュラスは立ったまま、淡々と今後の構想について話し始める。
「無事に王都入りは出来ました。これから王下の五省と軍部を落とせば主の悲願――王国の掌握が達成されますね」
「ん」と、主ことルティエは顔をシーツに埋めたまま小さく手を上げた。
復讐の筋書きはこうだ。
『王国の中枢と呼ばれる機関の長を籠絡し、国家運営能力を麻痺させて国を乗っ取る』
単純だが非常に難易度の高い計画――その準備に、ルティエは十年の月日を費やした。
「国の上層部ともなると優秀な人材が揃っています。組織の頂点のみを掌握する以上、不自然な動きに気付く人間も現れるでしょう。時が経つほどに警戒が強まる可能性が高いということです」
間を置いて、ノミュラスは念を押す。
「勘付かれた時に厄介な魔法省と軍部、全ての組織に影響を与えられる財務省――ではなく、本当に外務省が最初で宜しいのですね?」
「計画を立てた時から、最初に落とすのは外務省って決めてたの」
体を起こしてベッドに腰掛け、真っ直ぐな目で言い放つルティエに――ノミュラスは軽く微笑んでから「分かりました」と頷いた。
「では、明日から外務大臣の情報収集を始めましょう」
「よろしく」
「えぇっ! ひょっとして私一人で、ですか!?」
「うん。そういうのは全部任せるから、頑張って」
一方的に決定を伝える主人に対し――食い下がることの無意味さを知っているノミュラスは、諦めつつも唇を尖らせる。
「……分かりました……分かりましたけどぉ」
そして、湿った吐息を漏らしてしゃがみ込んだかと思うと――虚ろな目をしてルティエの脚に縋り付いた。
「主ぃ……王都に着いたら、ご褒美を下さるって約束でしたよねぇ?」
甘ったるい声に応えるかのように、ルティエの目の色と纏う雰囲気が変わる。
「4週間か……豚にしてはお預けが出来たな」
「もう我慢の限界ですよぉっ! 私、昼間に手を打たれただけで……っ!」
ハァ、ハァと息を荒げる豚――「旅の最中くらいは大人しくしていろ」という命令に従っていたそれが“いつもの豚”に戻ったのを見下ろし、ルティエは僅かに口角を上げた。
「良いだろう。“着けろ”」
「はいっ♡」
♡♡♡
「汚れると替えがないから」と服を脱いだルティエの身体には、本来の姿とは異なる一時的な肉体改変が施されていた。ノミュラスが数百年を掛けて磨き上げた、用途だけが致命的に間違っている高度な魔法の無駄遣いだった。
うわ言のように主人のことを呼ぶ声は、媚びと歓喜に濡れている。普段は人から慕われる大魔導士が、少女の前で進んで家畜に堕ちていく。
「望み通り、可愛がってやる」
「ありがとうございますっ♡」
与えられる罰も、与えられる褒美も、この豚にとっては大した違いを持たない。仕置きすら悦んでしまう相手に、罰として何の意味があるのか――それでもルティエは、手を抜かない。豚にとっての意味がどうあれ、主人が躾けるという行為そのものに意味がある。彼女はそう心得ていた。
♡
「豚に与えられる全ての権利は、主人である私のものだ。努々忘れるなよ」
「はいっ、主っ♡」
やがて魔法が解かれ、与えられた悦びの余韻だけが、豚の全身に残された。
「あっ……はぁ……♡ 最高ですぅ、主ぃ……♡」
蕩けきった声で、豚は今日も主人を讃える。仕える悦びに、これ以上のものはないと言うように。
◇◇◇
「豚、出掛けよう!」
朝の支度を済ませたルティエが、椅子に腰掛けて王都の地図を眺めるノミュラスを誘った。
「主も調査に?」
「お腹が減ったから、ご飯を買いに行きたいだけ」
「ですよね」と肩を落とす自身の豚に、ルティエは眉を寄せる。
「何でそんなに私を働かせたがるの?」
「最初くらいは一緒に行動した方が主の為になると思いますし、どうせ暇なら近くで見ていて下さった方が励みになります」
「どうせ暇……」
冷たい視線――主人の機嫌の悪化を悟り、ノミュラスは「口を滑らせた」と焦った。機嫌を損ねて“お仕置き”して頂けるのであればむしろ望むところであるが、こういう場合に待っているのは大抵“無視”だからだ。
「主、申し訳――」
「“豚に任せた私”を信頼出来ないんだ。豚の忠誠心はその程度なんだね」
「決してそんなことはっ!」
「なら、黙って一人で働いて」
喉から出たのは、唯一許された「はい」という返事だった。
◇
「何を召し上がります?」
賑わう市場をキョロキョロと見渡してから、ルティエは「あれが良い!」と、一つの屋台を指差した。ノミュラスが店主に声を掛けに行く。
「ご婦人、こちらを1つ頂けますか?」
「あら良い男。旅の人? 銀髪なんて珍しいねぇ、久しぶりに見た。よそじゃ知らないけど、王都じゃ王族くらいなんだよ」
示された商品を袋に詰めながら、親しげに話し掛けてくる店主に「はい」「ええ」「そうなんですか」と相槌を打つノミュラスの――脇腹を小突いたルティエの手には、パンが握られていた。
「豚、これも買って」
「あ……では、これもお願いします」
追加で渡されたパンを袋に詰めて、店主は怪訝そうな表情をする。
「豚ぁ? 変わった名前だねぇ」
「ええ、まぁ……」
「はい。銅貨5枚だよ」
言われた通りに代金を払い、屋台を離れた豚は直ぐさま主人に訴える。
「主、外で豚はやめてください」
「豚は豚だよ。豚じゃないの?」
「豚ですが……」
「じゃあ問題ないね」
この先も街中で豚呼ばわりされ続けるのか――自分としては興奮するので構わないが、人の記憶に残ってしまうのは好ましくないな――ノミュラスがそんな風に未来を予見する中、ルティエは「旅の恥はかき捨てって言うし」と、買ったばかりのパンに齧り付いた。
◇
――街中では、すれ違う人々の視線がよくこちらへ向いた。
大半は自分か豚の顔を見ているだけだろうが、中には豚の銀色の髪に気付き、「王族……?」と呟く者もいた。
「想像以上に目立ってるね」
「ですねー。行動中は隠す必要がありそうです」
そう言って軽く触れた銀色の髪が、キラキラと輝く。
「王族って言っても、この国が出来て200年程度なのに豚が王族の訳がないよねぇ」
「この国が出来た頃は、北東で暮らしていましたからね」
「豚の方が、王家の伝説よりもずっと伝説だよ」
ノミュラスは神の血を引く不老長寿の一族で、本人も最低300年は生きていると言う。王が神に選ばれたという建国神話も、本物の神の血を前にすると随分と安っぽく聞こえた。
「……あ。王族が豚の子孫って可能性ならあるのか」
「それは有り得ません。私、女性と交わったことがありませんので」
ルティエは全力で「うわ、聞きたくなかった……気色悪い」という顔をした。
「その目、堪りません……っ! 主、大好きですっ」
◇◇◇
翌日。ゆっくりと起きて宿の一階に下りたルティエは、宿屋の主人に声を掛けられた。
「連れの兄ちゃんは朝早くに出て行ったぞ」
「うん、知ってる。私が命令したから」
迷わず諜報役を一任する程度には、ルティエはノミュラスの能力を信用している。適材適所――面倒事は豚に任せ、自分はドンと構えて要所で動くというのが彼女なりの主人像なのだ。
「……仕事柄詮索しないようにはしてるんだが、差し支えなければ教えて欲しい」
「何?」
ルティエは内心、何を聞かれるのかと気を引き締めた。
宿屋の主人は現時点で善良な一般人だが、何かのきっかけで計画の妨げになるようなことがあれば、即座に魔法で記憶を消し、宿を変える手筈になっている。記憶を消す魔法は脳に悪い影響を与えるらしく、豚は「極力避けたいですね」と渋っていた。
が、今回は杞憂に終わった。
――兄妹として見ても、恋人として見ても、会話から読み取れる力関係の辻褄が合わない。様々な人間を見てきた宿屋は、その不可解な関係性に、どうにも興味を抑えられなかったらしい。
「兄ちゃんとはどういう関係なんだ?」
「あ〜。う〜ん……兄、親、師……やっぱり豚だなぁ」
「豚?」
「何て言うんだっけ、下僕? そんな感じ。でも浅ましいから、やっぱり豚」
「……そうか」
宿屋の主人の中で、謎は深まるばかりだった。
◇
「調べが付きました」
夕方になって宿に戻ったノミュラスは、頭を覆っていたフードを外しながら言った。
「所要時間半日とは流石だね」
「勿体ないお言葉です」
ベッドの上に座る主人に軽く礼をしてから、詳細を報告していく。
「外務大臣ですが、慰みに平民の秘書を雇っては辱めて殺しているようです」
「下衆め……」
豚に調べさせた『付け入る隙』の内容に、ルティエは苦虫を噛み潰したような顔をして吐き捨てた。
「しかも、足がつくのを警戒して王都の外から来た女性を好んで採用しているとか」
「反吐が出るほど好都合だね。事務職は平民だろうが外国人だろうが、基準さえ満たせばなれるから。取るべき手段は“潜入”――か」
「そうなるかと」
「よし、早速準備しなくちゃ」
立ち上がろうと腰を浮かすルティエの前で、ノミュラスは何故か立ち尽くしている。
「どうしたの?」
「私、精神魔法は不得手なんです」
「知ってる」
「王国内で精神魔法を使うと、処罰される恐れがあります」
「そうみたいだね」
「精神魔法を使って、外務省の職員二十数名を自白させ情報を集めてきました」
「うん」
「その際、対象者の精神を壊さないように、使用している場面を目撃されないように、痕跡を残さないように、細心の注意を払いました。頑張ったんです」
「何が言いたいの?」
ルティエはベッドに腰掛け直して、足を組んだ。
「ご命令通り調べたので、ご褒美をください」
「本当に浅ましい豚だな。参考までに聞く。何が欲しいんだ?」
「ご褒美を頂きたいです」
「……」
期待に満ちた目で主の反応を見守るノミュラスに向け、ルティエはニコリと微笑む。
「遠回しに主人を操ろうとする根性が気に食わない。事が済むまでお預けだ」
「そんなぁー」
◇◇◇
数日後。ルティエの姿は外務省の庁舎にあった。
「新しく採用された――ルティエさんですね。おめでとうございます」
人の良さそうな事務員から改めて職務内容の説明を受け、制服を受け取る。
書類審査と面接を通り――ルティエは見事、外務大臣付きの秘書になることに成功していた。
制服を広げてサイズを確かめるルティエを見つめて、事務員は小さく笑った。
「お見かけした時から受かると思ってました」
「面接の内容も聞いてないのに?」
「秘書は綺麗な方しか採用されないんですよ。恥ずかしながら、私は面接で落ちて一般事務に回った口なので、よく分かるんです」
「貴女だって可愛いのに」
慣れない褒め言葉に照れて笑った後、事務員は心配そうな表情に変わって言う。
「ただ……大臣が癖の強い方なので、皆さんすぐに辞められてしまうんです」
「私は大丈夫」
言い切るルティエに「凄い自信ですね」と感心した様子の事務員は「遅くなりましたが」と名乗る。
「私は事務のケンティカです。ルティエさんとは同じ部署になります。今度、昼食でもご一緒しましょう」
◇
「初めまして。ルティエと申します」
着替えを済ませてから訪れた職場。執務机の向こうで人当たりの良い笑みをたたえているのが、今回の標的――外務大臣ガディールだ。十を超える国の占領に外交官として関わり、その功績から4年前に外務大臣へ抜擢された男。あまりに巧みな弁舌から、“無限の舌を持つ”と評されることもあった。
穏やかに細められたその目を、ルティエは正面から受け止める。柔和で、誠実で、人好きのする笑み。――かつて幾人もの人間が、信じて欺かれてきたであろう笑み。
「どうも、初めまして。聞いていた通りの美人で嬉しいよ」
「こちらこそ……私のような平民が中央で働けるなんて夢のようで嬉しいです!」
「平民だなんて卑下しないでくれ。能力があれば生まれなど関係ない。期待しているよ」
「はい、頑張ります!」
込み上げかけた何かを、ルティエは笑顔の下へそっと押し戻す。今はまだ、無害で従順な平民の娘でいればいい。牙を剥くのは、もう少し先の話だ。
そんな彼女を眺めるガディールもまた、その笑顔の裏で舌なめずりをしていた。世間知らずの小娘が、また一匹、向こうから罠に飛び込んできたのだ。たっぷり手懐けて油断させ、存分に弄んだ末に始末してやる――いつもの“愉しみ”を思えば、自然と頬が緩んだ。
二人は笑い合う。どちらも相手を獲物だと思いながら。
◇◇◇
「お帰りなさい、主。仕事服もお似合いですねぇ」
「……」
制服のまま帰ったルティエは、脇目も振らずに椅子へと向かい、ドカッと座って脚を伸ばす。
「勤めというやつは疲れる」
本当に秘書として雇われていると信用させるためか、それなりに通常の業務もさせられ――ルティエは口調を作るのも億劫に感じる程にくたびれていた。
「外務大臣は、如何でしたか?」
「平民の私にも優しくて、素敵な方だったよ」
「侵略が上手く行っているのか忙しそうだったなぁ」とボヤく主に、豚は調べ上げた成果を報告する。
「直近15人の平均勤続日数は10日ですね」
「短いとは聞いていたが、10日か……。よく調べたな。さすが豚だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「さて、いつ化けの皮が剥がれるかな」
静かに口角を上げたルティエは、溜まった疲れを癒すべく――スルスルと靴下を脱ぎ、いつものご褒美を豚に申し付ける。
「舐めろ」
「喜んで♡」
「しかし……そうか。早ければ10日以内に外務大臣の間抜けな姿を拝めるのか。楽しみだな」
部屋の中が、豚の媚びた鳴き声と主人の笑い声で満たされていった。
◇◇◇
ルティエが勤め始めてから1週間後。殆どの窓から明かりが消えた外務省庁舎の大臣室。
秘書であるルティエは、職務中に豹変した上司から逃れようとして、部屋の隅に追いやられていた。
「やめてくださいっ!」
「ヒヒッ、想像通りの良い顔だなぁ!」
外務大臣は追い詰めたルティエの肩を強く掴んで、そのまま近くのソファーの上に押し倒した。
「どうして……っ、あんなに親切にしてくださったのに……っ」
「ヒャハッ……ヒャハハッ! 俺は信じていた人間に裏切られる瞬間のっ! 女の顔を見るのが大好きなんだよォっ!」
「〜〜っ!」
まるで大臣の望みを叶えるかのように、ルティエの顔は引き攣る。
「ヒヒッ、本当に下民の女って犬猫と変わらねぇよなぁ。高貴な俺にちょっと優しくされりゃ、どいつもこいつも馬鹿面で擦り寄ってくるんだから」
「……身分が違っても、同じ人間です」
「ハァ? 同じ訳がねぇだろ。血だけじゃなくて脳も腐ってるのか? お前らの使い道なんて高貴な人間の玩具になることくらいだろうが」
「……」
「ま、1週間も夢を見せてやったんだから、お礼に良い悲鳴を聞かせてくれよ」
自分の制服に手を掛けようとする仮初めの上司を、ルティエは感情のない目で見ていた。
「豚。芝居はヤメだ」
「ハァ?」
《キィーーーーッン!!》
一瞬で部屋全体が氷に包まれる。
「ぐっ!?」
「私の主に手を触れないで頂けますか?」
ほぼ同時に発生した突風に煽られ、大臣は尻餅をついた。服が氷に絡め取られ、動きを封じられたと気付くのに時間は掛からなかった。
「それはそうと主、素晴らしい演技でした!」
「練習した甲斐があったな」
豚の後ろに移動したルティエは、髪と着衣の乱れを整えて、肩のホコリを払った。
「な、何だ……? 貴様、一体どこから……」
「ずっと部屋の中で見ていましたよ。魔法で貴方からの認識は外していましたが」
混乱する外務大臣に、「主に止められていなければ、うっかり息の根を止めているところでしたよ」と早口で言う。
「嘘だっ! 俺だって魔法は使える。魔力の気配なんてしなかった!」
「嘘じゃありませんよ。感知出来ないだなんて、幼年学校でしたっけ? そこからやり直した方が良いんじゃないですか?」
感知出来る人間がこの国に何人いるか分からないほどの緻密な魔力制御をしておきながら、ノミュラスは煽った。
「……っ、氷なんて……こんな高度な魔法の使い手が何人もいるものじゃない……貴様は何者だ!」
「私はただの豚です」
「豚……暗号名か? どこかの組織の……」
溜め息を吐いたノミュラスは、外務大臣を氷よりも冷たく見下ろす。
「あのー私、気付いてますからね、貴方が時間稼ぎをしていること。装置までの距離と貴方の魔力量なら発動まで残り1分半ってところですか。続けられるようでしたら相応に痛い思いをして頂くことになりますが――宜しいですか?」
天井に数十本ぶら下がる鋭利な氷柱が、「いつでも全身を針山に出来る」と言わんばかりに震わされた。
「……っ」
高難度の魔法を容易く使い、魔力の流れも読む――そんな芸当が出来る人間が、並の魔法使いである筈がない。
増援を呼んでも結果は変わらないことを悟った外務大臣は、通報用の魔法装置を起動するのを諦めた。
「何が狙いだ。俺をどうする気だ!」
「貴方に用があるのは私でなく、私の主です」
「そうだ、秘書の女……っ! ハメやがったな!」
ノミュラスが下がり、代わってルティエが大臣の前に出る。
「下民の分際でよくも俺を脅そうなどと思ったなっ! 何を考えているか知らないが、お前に待っているのは破滅だっ!」
吼える外務大臣に、豚が動こうとするのを止めてからルティエは口だけで微笑む。
「“外務大臣”殿。先日お会いした時に一つ嘘を吐きました。――“お久し振りです”」
「ハァ? お前なんて知らな――」
「あの頃は子供だったから無理もないですね。私の名を聞いて思い出して頂ければ良いのですが……」
スゥ……と息を吸い、滅多なことでは使わなくなった真の名前を、美しい声で歌うように発する。
「――ルティエ・ミェ・カドゥリエ」
「カドゥリエ……?――まさか!」
「覚えていてくださいましたか。至極光栄です」
「あの時のガキ……生きてたのかっ!」
「ええ。“外交官”殿のご慈悲のお陰で」
外務大臣ガディール――かつて祖国・カドゥリエ王国を担当する外交官だった男は、ルティエにとって直接の仇だ。
王である父を騙し、裏切り、必要もないのに一族を殺し弄んだのが彼の裁量の内だったことは、既に知るところだった。
「……そうか、なるほどな」
一連の行動の意図を察し、外務大臣は逆境の中で却って冷静さを取り戻した。――地べたから亡国の姫を嘲笑う。
「目的は復讐か」
「ええ」
「呆れるほどに陳腐だな」
その言葉に、ルティエは笑いを堪えきれない。
「ワハハハッ! そうでしょう。そうですよね。“よくあること”です。今でも忘れませんよ。和平を条件に降伏したその日の内に王族を皆殺し――国民は奴隷にするか嬲り殺すか。どこまでが貴殿の指示でしょう。鮮やかなお手並みでしたねぇ!」
心底可笑しそうなルティエに、大臣は表情こそ崩さなかったが、背筋に冷たいものを感じていた。
「我が祖国を陥落させた功績で出世なさったんですって? それから十年と経たぬ内に大臣職にまで上り詰めて……私にはその足元にかつての国民の屍が見えるようですよ」
「だからどうした。俺が関わらずとも似たような結末を迎えていた国だ」
「かも知れませんね。だからこれは個人的な憂さ晴らしです。――貴殿なんかどうだって良い。私の復讐の矛先はもっと上だ」
「……王に牙を剥くつもりか!」
ルティエは答える代わりに鼻で笑った。
国家反逆を狙う――手練の魔法使いと、自らが弄んで根絶やしにした一族の生き残り。
これから受ける仕打ちを想像して、外務大臣はブルッと震えた。その様子を見てルティエは目を細める。
「豚。ガディール閣下が寒がられている。氷を消せ」
「承知しました」
ノミュラスが手のひらを返すと、部屋中を覆った氷が一瞬で蒸発し、ぬるい風に変わった。外務大臣への抑止力として、頭上には新たに氷の槍が生成される。
「さて……」
「待て! 復讐など何も生みやしないっ!」
外務大臣の発言に、ルティエの眉がピクリと動く。
「俺は外交官として、復讐に身を費やし破滅する人間を幾人も見てきた! 今なら見逃してやる、悪いことは言わないから王都を去れっ!」
「……忠告、感謝する」
それだけ言うと、ルティエは全力で大臣の鳩尾を蹴り上げた。
「ガッ!!………ハッ!?」
「王国の外務大臣とは思えない程に交渉下手だな。安全圏にいないと力を発揮出来ないのか?」
前のめりに倒れ――呼吸困難になりうずくまる大臣の前で、ルティエは取り出したナイフをくるりと弄ぶ。
「……っ、はっ……やめ、ろ……何を……」
「動くと傷が付くぞ。それも一興だがな」
「豚、準備しろ」という命令を受けたノミュラスが大臣の腰の辺りに手をかざし、無駄に高度な魔法で、主人の望む準備を済ませる。――経験したことのない不快な感覚に、外務大臣は身を震わせ、くぐもった声を出した。
「貴殿が改心していなくて助かるよ。この復讐くらいは、気持ち良く完遂したかったからな」
そう言って、ルティエはゆっくりと歩み寄った。逃げ場を失った大臣の喉から、引き攣れた音が漏れる。
――そこから先に行われたことを、ガディールは生涯、言葉にすることはなかった。
諸国を弄んだ高官が、声を失い、誇りを失い、最後には自分が何者だったのかさえ失っていく。
そういう時間だったとだけ記しておく。
「古い回復魔法というのは、中毒性があるんですよ。ご存知でした?」
癒しては、また。終わりの見えない繰り返しの中で、ガディールは痛みと屈辱の区別さえつかなくなっていった。ノミュラスが生成した氷の鏡が、見たくもない己の姿を否応なく映し出す。そこに、かつての“無限の舌を持つ外務大臣”の面影は、もうどこにもなかった。
「あ……あぁ……」
「最後に一つ教えてやる」
ルティエは、この復讐のためだけに手に入れた力の正体を、静かに明かしていく。
「私には魔法の才がない。故にたった一つの魔法を……厳しい制約を幾つも背負わなければ習得出来なかった。制約は『18歳の誕生日から半年の行使期限』『自らの手で対象の尊厳を奪い、屈服させること』。種類は服従魔法。名は――」
――『思考拘束』
血のように真っ赤な光が大臣の身を包み、炎のように揺らめいて消える。
「貴殿も私の新しい豚だ」
「……光栄ですっ、ルティエ様」
締まりのない顔で返事をする新たな豚を見下ろし、主人は満足げに微笑んだ。とうに屈服していた心と体が、服従魔法を完全な形で成立させていた。
「外務省の方針として、侵略行為は止めさせろ。理由は適当でいい」
「了解しましたっ」
「それから、秘書を新しく雇う必要はない。私が引き続き務めてやる」
「ありがとうございますっ!」
ルティエは制服のジャケットを肩に掛け、
「……期待しているよ」
と一言だけ呟いて、大臣室を後にした。
◇
廊下に出ると、夜気がひやりと頬を撫でた。明かりの落ちた庁舎は静まり返り、ルティエの靴音だけが、やけに大きく響いている。
主の背を見つめる豚は思う――仇を、彼女から何もかもを奪った当の男を、自らの手で堕とした直後だ。この経験が主にどう影響するのか、案じずにはいられなかった。
「主、お見事でした」
声をかけると、ルティエは振り向きもせず鼻を鳴らす。
「当然だ。下準備を整えたのは誰だと思っている」
「……」
「何だ? 『私です』とでも言いたげだな」
「そんなことは思ってません!」
いつも通りの軽口。その横顔に、変わった様子はない。
――今は、大丈夫そうだ。ノミュラスは胸を撫で下ろした。
「外務省はこれで私のものだ。……次に取り掛かるぞ」
「はいっ」
夜闇に沈む庁舎を背に、亡国の王女は次の標的へと足を向けた。その半歩後ろを、豚は静かに付き従った。
◇◇◇
「外務省の力だけでどこまで侵略を食い止められますかね」
魔法で温風を発生させるノミュラスは、ベッドに腰掛けるルティエの髪を乾かしつつ独り言のように呟いた。
二人は外務省の庁舎から宿に戻り、寝る前の支度をしているところだった。
「んー? 王と他省の意向もあるから完全には難しいだろうけど、侵攻速度を遅らせるくらいは出来るんじゃない? そもそも“そっち”はあんまり期待してないよ」
そう言ってルティエは壁に掛けた制服を示す。彼女が秘書として外務省に留まったのは、外務大臣を使って他省や軍の動きを探るためだった。
「軍は外務省の方針に合わせて動くから、外務大臣が“変”なのに最初に気付くのは軍かもね。それはそれで好都合か……」
ノミュラスの偵察によると――軍と魔法省の施設は機密保全の関係で結界が堅固かつ身分確認が厳格で、こちらから攻めるのは難しいとのことだった。つまり軍総司令官と魔法大臣を落とすには、外に誘い出す必要がある。ルティエは、彼らに関しては計画の変更を柔軟に行おうと決めていた。
「豚。もう良いよ、ありがとう」
髪を乾かし終わったルティエは、豚に微笑みかける。
「今回は良い働きだったよ。ご褒美をあげないとね」
「ありがとうございますっ! あんなのを見せられたから、もう疼いて仕方ないですよぉ」
焦点の合わない目で口元を緩める豚を見て、ルティエは「外務大臣もそんな目で見られていたとは心外だろうな」と思った。そして、ご褒美の内容をいくつか考えてから――すぐには乗り気になれない自分に気付く。
「相手してあげたいのは山々なんだけど……今日は疲れたから、明日以降にしてくれる?」
「もちろんです! それまで床で待っていた方が良いですか?」
「普通にして」
「了解しました!」と良い返事をする豚を横目に、主人は布団に潜る。
「主、お休みなさい」
「うん。お休み……」
目を閉じ、ルティエはどこまでも深い眠りに落ちていった。
◆
◆◆
◆◆◆
あの日――鼻を通る鉄の匂い。口から漏れるうめき声の原因は、兵士の脇に雑に抱えられた痛みと苦しさだった。目隠しをされる前に聞こえていた家族の悲鳴の代わりに、今は知らない悲鳴があちこちから聞こえる。
(どこへ連れて行かれるのだろう……)
――怖い。嫌な予感がする。身体の震えが止まらない。鉄に混じった土と草の香り。空気が外のものに変わった。不意に地面に下ろされる。
「ようやくお姫様のご到着か。ヒヒッ、見てみろ」
――前方からしたのは、よく知っている声で話される“王国”の言葉。
目隠しを外されて飛び込んできた光景は、想像を絶するものだった。何も聞こえなくなるほどの耳鳴りがして、前後不覚になるほどの目眩がする。
「〜〜〜〜ッ!」
木の板の上に並べられた私以外の王族の首――その下に座らされた胴体。
まるで生きたまま晒されているような、逆に生きていないことを知らしめているような、吐き気を催すほど悪趣味な趣向だった。
「ヒャハハハハッ!! 良い顔だぁっ!」
私を敢えて生かし――この光景を見せて嘲笑う悪魔のような男は、王国の外交官だ。何度も城を訪れ、真摯に和平を勧めてきた彼を、父はきっと最期まで信じていた。
――私だって信じていた。優秀で高潔な青年だと、憧れてさえいた。だが、会う度に撫でてくれた手も、あの優しげな笑顔も、平和を望む言葉も全て嘘だったのだ。
「子供の頃に本で読んで、一度やってみたかったんだよ。どうだ? 感想は?」
「……うっ……あ……あぁ、あぁ………ッ!! っ……ぁ……おえ゛ぇ……っ」
耐え切れず、胃の中のものが全て出る。未消化の食物のせいで朝の和やかな食事風景を思い出し、吐き気が増した。
その様子を見て、外交官は一段と楽しげに笑う。
「ヒャーハッハッ! おい、こっちを見ろ」
抵抗の意思も含めて無視をする。俯いて生理的に溢れた涙を拭った。
「見ろと言っているだろうがっ!」
苛立ちを隠さない外交官の手で髪を掴まれ引っ張り上げられ――受けたことのない痛みに叫び出しそうになる。
「痛ぁっ、い……っ」
「ヒヒヒ……本当に良い顔だなぁ。末娘だもんなぁ。今の今まで苦労なんて知らずに生きてきたんだろうなぁ。それが今じゃこの絶望面ッ! 堪んねぇなぁ!」
そのまま地面に叩き付けられ、半身に擦り傷が出来た。
「ぐっ、ゔぅっ!」
「よし、充分楽しんだし王都に帰るぞ」
上機嫌の外交官に、護衛の男の一人が尋ねる。
「放置して宜しいのですか?」
「あー、時間が足りなくなった。予定より早くアイツの軍団が到着したらしくてな。……顔を合わせたくない」
今度は軍による土地の制圧――蹂躙、略奪が始まろうとしていた。
「なーに、心配するな。温室育ちで魔法も使えないガキなんざ、放っておいても野垂れ死ぬ。見なくても分かるモンには興味がねぇんだ俺は」
――悔しいが、その通りになるだろう。ここから逃げたところで周りは荒野。生き抜く術など教わったことも考えたこともなかった。
既に興味を失った私には目もくれず、外交官は護衛相手に愚痴を言いながら馬で走り去った。
「父上、母上…………姉上」
死の間際は苦しかっただろう、悲しかっただろう、悔しかっただろうに――今は目を閉じ、安らかな顔にされているのを救いと感じる。
――何故、この人たちが傷付かなくてはならなかったのか。強大な軍事力を持たないから? 魔法が使えない人間ばかりの国だから?
弱いことは悪いことなのだろうか。弱くても優しくて、幸せな国だったのに。
(私もここで、皆の傍で朽ちるのが幸せなのだろうか……)
いつものように答えを求めて、母の顔を見る。何でも教えてくれる、優しく聡明な母上。今は血の気が引いた母上の首。
ふと、その唇からかつて紡がれた言葉を思い出す。
――北のお山には、何でも願いを叶えてくれる賢者様がいるらしい。
北方を見る。遠く、高く雪の積もる山――ルシェイザナ神山。
(願い……。私が生き残った意味が、まだあるのかも知れない)
どこからか沢山の悲鳴が聞こえてきた。王国の軍隊が到着したらしい。もう、ここに長くは居られない。
(父上、母上、姉上、兄上、叔父上、叔母上、みんな……弔うことが出来ずに申し訳ございません)
「――行ってまいります」
一族の亡骸に礼をしてから、背を向ける。
途中で拾ったカバンに、入れられる限りの食糧を詰めて目指すのは――唯一の道標――ルシェイザナ神山。
◆
この時のルティエは知らないが、険しい山岳が連なる大陸北部は、古来よりどの国も領有を望まない空白地帯だった。だからこそ、そこは王国の法の手が及ばない、絶対的な安全圏でもあった。
◆
「……っ」
何時間も走り、歩き続けた先で、一度だけ振り返った祖国の方角が赤く燃えているのを見て、初めて涙を流す。
――怒り、悔しさ、憎しみ。
心の内に初めて芽生えた感情は、ひたすら赤くて、血の臭いと味がした。
◆◆◆
行き場のない想いと、道中で手に入れた食料と水を頼りに、休まず1週間ほど進み――運が良かったのか悪かったのか。ルティエは故郷の遥か北にそびえていた、手のひらで覆える大きさでしか見たことのない雪山の麓に到達した。身体はボロボロで、既に手足の感覚はない。吐く息の白さが瞬く間に掻き消されるほどの厳しい銀世界が、そこには広がる。
《ビュオォォォォォ……》
その日は、ルシェイザナでも珍しい猛吹雪の日だった。大粒の雪が、肌を裂かんばかりに打ち付ける中――ルティエは姿の見えない山頂を見上げる。
「……」
自然の恐ろしさを知っていれば、あるいは正常な判断能力があれば飛び込まなかったかも知れない。
けれどその時の彼女には、吹雪の中を進む以外の選択肢は存在しなかった。
――舞い上がる氷の礫がぶつかって痛い。冷えた身体は、感覚がなくなっている部分が多い。
それでも進まなくてはならない。希望はこの吹雪の向こうにしかないのだから。
◇◇◇
◇◇
◇
光量を絞ったランプによる薄明かりの下――額に汗を浮かべて魘されている主人を、豚は心配そうに見守っていた。
「……ぅ……っ」
――仇と対峙した直後だ。悪い夢を見ていることは想像に難くない。
自分の元を訪れて間もない頃は、何度も叫びながら目覚める彼女を落ち着かせたものだった。
「〜〜っ!……ハッ!」
飛び起きたルティエに、脇からコップが差し出される。
「どうぞ」
「あ……ありがとう」
顔色のすぐれない主人が水を飲み干すのを見届けてから、ノミュラスは尋ねる。
「主、約束した褒美を今いただけますか?」
「……何?」
――後にしろと言ったはず。
意図を汲みかねて眉をひそめるルティエに、豚は微笑む。
「一晩だけ、こうさせてください。昔みたいに」
返答する前に抱き締められ、コップが手から落ちそうになった。
張り詰めていた肩から、ふっと力が抜けていく。
――昔みたいに。悪夢に魘される夜ごとに、豚はこうして何も言わず抱き締めてくれた。冷えた指先も、止まらない震えも、いつの間にかこの腕の中で溶けていった。
「……いいの? ご褒美の分なのに」
「また頑張ります」
主人はフッと笑い、片手を豚の背中側から伸ばして頭を撫でる。
「豚は良い子だね」
返事の代わりに、少し腕に力を込められた。
「豚……あの時からありがとう。もう少しだけ付き合ってね」
◆
◆◆
◆◆◆
ルシェイザナ神山の中腹に建つ小屋。そこに住む魔導士は、自身が張った結界内に人間が入り込んだのを感知した。
(こんな吹雪の日に……自殺志願者か?)
魔導士は、魔法で雪と風を除けながら、山の麓の方まで様子を見に行くことにした。
(ここで気配が途切れた。既に事切れているかも知れないな)
人が埋まっているであろう周辺の雪を溶かすと――そこには指先や鼻先を紫色にし、ぐったりとして動かない少女の姿があった。
「子供……!?」
◆◆◆
「……ここは」
「もう少しで死ぬか、四肢を失うところだったんですよ! 何という無茶をっ!」
暖かい部屋の中で目を覚ましたルティエは、前置きなしで激怒する魔法使い風の男を見て、安堵したような表情を見せた。
「賢者殿……私に力を貸して欲しい」
齢八つの少女は、衰弱した身体を奮い立たせ、伝える。
自分が然る国の姫であったこと、父である王が和平を選んだにも関わらず国を滅ぼされたこと、一族を悲惨な目に遭わされたこと、自分は魔法が使えないこと。そして――
「王国に復讐したい。そうでなければ家族が、民が浮かばれない」
「……」
黙って話を聞いていた魔導士は「復讐」という単語を聞いた時だけ僅かに顔をしかめた。
――全てを失ったばかりの子供の考えることだ。窘めるのも大人の役割だろう。
そう思い、説得しようと言葉を選び出した矢先――
「ただ、私は誰の血も流したくない」
「――っ!」
付け足された願望に、魔導士は激しく動揺する。
「あんなのは間違ってる。悲しみは悲しみを、憎しみは憎しみを生むだけだ。そんなのは私で終わらせる」
「貴女は……」
――甘い、甘過ぎる。人の世でそんな綺麗事が通るなら、彼女自身がこんな目に遭っていない。しかし――
全てを聞き終えた時、魔導士は自然と跪いていた。
「賢者殿?」
「命令してください。望みがあるのでしょう?」
賢者から見つめられ、亡国の姫君は戸惑いながらも言われた通りに望みを言い換える。
「――私の復讐を手伝え」
「はい、我が主」
靴に口付けをされ、思いがけず下僕を得たルティエは更に困惑した。
「主……?」
「何か召し上がりますか? 飲み物もありますよ」
「あ……」
立ち上がった男に助けて貰った礼を述べようとして、「賢者」以外の呼び名を知らないことに気付く。
「その……名前を聞いていなかった。貴殿の名は?」
「私の名はノミュラス。今日からは貴女の豚です」
「ぶ、豚……?」
天地の全てを覆い隠す吹雪の中で、一人の少女の赤く清らかな夢が芽吹いた。
野村のキャラがイケるなら最終話まで読んで損はさせません。




