私
◆
「珍しい。今日は中庭にいらっしゃるんですね」
彼女と疎遠になって2年が経ったある日。
花が咲き誇る庭園で一人寝そべっていた私に、彼女が唐突に声をかけてきた。
ここ暫くは、私が話しかけても彼女は軽く挨拶だけ残して立ち去るだけだったのに――。
「私がここにいたら問題なのか?」
「いいえ、奇遇だなあと思っただけです」
彼女は爽やかな音色の鼻歌を歌った。いつもより上機嫌のようだった。
(「珍しい」はこっちのセリフだ……)
体を起こし、あえて不機嫌を滲ませる私に彼女は明るい笑い声を返した。
久々に耳にする彼女の無邪気な笑い声に、私の子供じみた反抗心はすぐに鳴りを潜めた。私の耳は魅了されるように彼女の声に聞き入っていた。
彼女は相変わらず黒い覆衣を被っていて、口角からしかその感情を読み取ることは出来ない。
それでも長年の付き合いから、彼女の声から何となく彼女の気分を察せるようになっていた。
彼女は綺麗な所作で私の隣に腰を下ろすと、許可もなく私の肩にもたれ掛かった。
黒い覆衣が首筋を擦り、驚いた拍子に血が激しく巡る。心臓の音が静まるように私は浅く深呼吸した。
一方の彼女は、そんなことなどお構いなしという様子で地面を覆う、一輪の桜を摘まみ上げた。
「カシ様はこの花の名前をご存じですか……?」
突然投げかけられる質問に私の思考が停止する。
(……花?)
私の返答を待つでもなく、彼女はその小さな花を口元にあてがった。
「ハナツメクサと言うそうです」
「知らない名だ……」
その言葉に彼女はなぜかしっとりとした笑い声を返した。
「好きな花なのか?」
「まさか……こんな可愛らしい花を好いているように見えますか?」
「……見える」
私の言葉に、彼女はまた力なく笑って見せた。
今日の彼女の言葉はいつもよりも穏やかだった。けれど、なぜかその様子に不安が消えない。
彼女の声は穏やかだったが、どこか危なっかしくも聞こえた。彼女の心と言葉が、繋がってはいないような――。
冬上がりのひんやりとした冷たい風が吹き、彼女の肩から濃い桃色の三つ編みが落ちた。
ふと視界をよぎるその三つ編みを、私は無意識に手で拾い上げた。
「君の髪、こんなにも濃い色だったか?」
「もっと可愛い色だと思ってました?」
彼女が昔のように挑発的に言葉を返した。私が反応に困って薄ら笑いで返答すると、彼女は何を思ったのか、私の肩に少しだけ頭を擦りつけた。
肩から伝わる彼女の熱がじんわりと体温を上げる。耳元で落とされる声はいつにも増して甘く聞こえた。
地面からせりあがる花の香りが思考を溶かすようだった。
私は気持ちを紛らわすように、隣に放り投げていた書類を取り上げる。そのページをめくっていると、彼女の指がその書類をなぞった。
すらりと細い彼女の指は、ぶ厚い書類の隙間を撫で上げ、特定のページを開いて見せた。
そこには彼女の巻名が載っていた。
――シノブと。
その文字を私の視線が追うのと同時に、彼女が呟くように言葉を出した。
「ハナツメクサ――ハナシノブ科の桜」
彼女は摘まみ上げた一輪の花を私に差し出した。私がその花を受け取ると、彼女は丁寧な手つきで、花弁を一枚一枚摘み始めた。
たった数枚しかなかった花弁はあっという間になくなり、緑の茎だけが私の手に残された。
温かい地面から毒気を吸い上げるように彼女は冷たい声を落とした。
「花言葉は……『わたしを否定しないで』」
じっとりと生暖かい汗が背中を伝った。冬を越した冷たい風が私たちをさらしあげ、背中が揮発した汗で冷たくなっていた。
私は小さく息を吸いこみ、ずっと頭にあった言葉を返した。
「君は君だ……代わりなんていない」
辛うじて喉を通った言葉は酷く滑稽な音を立て、その音に彼女が小さく笑った気がした。
「そうであったらいいですね……」
――彼女はそう言うと、そのまま黙ってしまった。何度か声をかけても全く反応を返さず、暫くすると優しい寝息が聞こえた。
遠くで私を呼ぶ侍従の声が聞こえた気がしたが、私はわざと返事をしなかった。
今日くらいはいいだろう。
それから数か月が経って、私は街の小さな雑貨店で桜を模した小ぶりの指輪を購入した。
これを渡すときに言葉にして伝えよう。そう思っていた――。
◆
――気が付けば冬を迎えていた。
あの指輪を渡そうと思いながら、慌ただしい日々に翻弄され知らぬ間に更に数か月が過ぎていた。
私は今日こそはと思いながら、屋敷の図書室にある窓際の席で、小さな指輪を手の中で転がした。
今日は雪のひどい一日で、窓から見える外の景色は綿の様な純白の雪に覆われていた。
私は外を眺めながら手の中で光る小さな指輪を握りしめる。
少し前まで浮かない表情だった彼女も、ここ暫くは何かが吹っ切れたような陽気さがあった。
(この指輪を見たら喜んでくれるだろうか……)
6枚のハナシノブの花弁をあしらった、淡い桃色の指輪。私はただ何をするでもなく、その指輪をじっと見つめた。
「カシ様。ここは冷えます。あちらに移動になられてはいかがでしょうか」
ふと聞き覚えのある文章が聞こえ、私はとっさに振り返った。けれど、僅かに感じた声の違和感は嫌な予感を増長させる。
振り返った先には見知らぬ女性が立っていた。
「あなたは誰だ……。初めて見る表紙だ」
その言葉に、見知らぬ女性は困ったように笑い返した。
「はい、お初におめにかかります。4番目の司書。『カツラギの巻』と申します」
その女性の花が咲くような笑顔とは裏腹に、私の背筋には悪寒が走った。
「4巻目だと? 『シノブ』がいたはずだ」
「はい。彼女なら『自他の境界を失ったために』削稿されることになりました。数時間後には処理が始まることでしょう」
――彼女の言葉に、気が付けば私は目の前の女性を押しのけて走り出していた。




