俺
◆
彼女と出会って4年が経ったある雨の日だった。その日は、大粒の雨が窓を濡らし、ほんのり土の匂いが室内に漂う一日だった。
「珍しい……今日は君がいるんだな」
屋敷の図書室の窓辺に置かれた机の前に、彼女が頬杖を付きながら座っていた。見知った服装に見知った薄桃色の三つ編みの人だ。
俺は早鐘を打つ心臓を紛らわすように、対面に置かれた椅子を引いてわざと音を立てた。
「カシ様は……『司書』とは何だと思いますか?」
彼女は窓の外を眺めながら、湿り気を帯びた声を落とした。
唐突に投げかけられた質問に俺は少し考えた。
何か思い悩んでいる様子の彼女を前に、ありのままの事実を述べることは酷にも思えた。
(欺瞞かもしれない……)
そう思いながらも、冷静に選択された音が言葉となって葉を開いた。
「司書とは、人の『記憶』を渡る者だ。人の記憶と記録を繋ぎ、俺たちに価値のある情報を残す存在……だと思う」
その言葉に、窓辺を見ていた少女が振り向いた。その固く閉ざされた唇がほんのり青みがかっている。
いつもの彼女らしくない雰囲気に、足先が冷えた。
「大丈――」
言いかけた言葉を拒絶する様に彼女は激しく首を振った。驚いて俺が手を引くと、彼女の口にはいつも通りの拙い作り笑いが浮かんでいた。
「いけませんね。こんな調子では。名誉ある司書の名折れです……少し疲れているのかもしれません」
そしてまた彼女の口が固く閉ざされる。他者との境を隔てる様なその仕草に、煮え切らない気持ちが泡を吹いた。
「少しくらい人に相談したらどうだ……」
俺の言葉に一度目を泳がせた彼女は、力なく笑った。伸ばしかけた俺の手を振り払うように、彼女は笑顔で「おやすみなさい」と言って立ち去った。
――しとしとと音を立てて振る雨音は、彼女が置いていった何かを代弁している様にも聞こえた。
その頃から、彼女は言葉を飲み込むようになった。
奥に仕舞い込んだ種子が勝手に芽を出ないように。慎重に言葉を選んでいる様に見えた。
◆
それから数カ月が経った、凍えるような晩秋の宵。
俺は寒い夜を紛らわすように、一人、火が消えかけた暖炉の前で経理の本を読んでいた。
後ろで何かが落ちる物音がして俺はとっさに振り返えった。木造りの大きな机の奥で、小さく蹲る黒い人影が見えた。
室内は暖炉の明りがゆらゆらと揺れる程度で、目を凝らしながら俺はその人影に歩み寄った。
「大丈夫か?」
俺が助け起こそうとすると、その小さな人影は頭を押さえたまま首を振った。白っぽい長い髪を下ろした女性だった。
「体調が悪そうだ。医務室まで連れて行こう」
抱き起そうとしてその人の肩に触れると、その人は驚いたように肩を震わせ身を引いた。
「大丈夫です。少し眩暈がしただけです」
澄んだ女性の声に、俺の心臓が跳ね上がる。
その声は俺の良く知った彼女の物だった。
(髪型と服装が違うだけでこうも印象が変わるのか……)
彼女は珍しく部屋着姿で、彼女の輪郭を包んでいたはずの覆衣が、今日に限って無くなっていた。
けれど皮肉なことに、闇に覆われた室内は暗く、人の顔が視認できるほどの明るさではなかった。
彼女が首を振った拍子に、しっとりと水分を含んだ髪が手に触れ、彼女が風呂上りであると伝えていた。
「やはり、心配だ。医務室まで連れて行く」
俺の言葉に彼女はまた大きく首を振った。彼女の薄桃色の長い髪が闇の中で揺れる。そうして、また崩れるようにその場に一度うずくまると弾かれたように声を上げた。
「いいの!……私に触れないで……」
一瞬、俺を見上げた彼女の声に怒気が滲んだ。その顔に、誰か別の人物の面影がこびりついているようにも見えた。
彼女らしくない口調は、彼女の揺らぎを表明しているようだった。苦痛を滲ませた彼女の声が彼女の不安を代弁しているようだった。
(なぜ……頼ってくれないのか)
言葉に出来ない感情が胸の奥で渦巻いていた。叶うなら、小刻みに震える肩を抱きしめて安心させてやりたかった。
行き場を失った俺の手が宙で止まり、大人しく定位置に戻される。
彼女はまたその場に肩を抱きしめて蹲ると、嗚咽にも似た言葉を漏らした。
「カシ様……私はナニモノですか」
突然の核心的な彼女の言葉に、俺は何も返せなかった。
――ゆらゆらと揺れる暖炉の明りが、彼女の小さな背中を照らしていた。
それから暫く、彼女は俺を避けるようになった。声をかけても愛想笑いを返すだけで、これまでの様な親し気な雰囲気が無くなっていた。




