僕
◆
出会いは春先のまだ寒さが残る季節だった。
その子は、僕の屋敷で司書として働く数少ない使用人の一人で、その中でも僕と同じ歳という最年少の司書だった。
「カシ様……ここは少し冷えます。反対側の縁側ならもう少し温かいと思いますが」
広い図書室の窓枠で、足をぶらぶらと揺らしていた僕の耳元に鮮やかな少女の声が覗き込んだ。
初めて見る服装の子で、顔は司書らしく黒い覆衣で覆っている。
覆衣の下からちらつく薄桃色の小ぶりなおさげがその子の色を特徴づけている様だった。
僕は昔から、顔を覆う覆衣のせいで表情が見えない司書という存在が苦手だった。
それはまるで「他者と自分」を隔てている様だった。
「どこにいようが僕の勝手だ。……それより君は誰だ? 初めて見る表紙だ」
噛みつくような僕の声をその子は笑って一蹴した。
「すみません。自己紹介がまだでしたね。本日付でこの図書室の5巻目の司書となりました。『シノブの巻』と申します」
初めて聞く巻名に、僕はつい首を傾げた。
「5巻目だと? 父上は4巻で十分だと言っていたが」
その言葉に、少女の口元が苦々しく歪んだ。一度出かけた言葉を飲み込んだ様にも見えた。
「はい。旦那様は、近々削稿すると申しておりました。いずれはまた4巻に戻ると思います」
――そう言った少女の声はか細く、窓から入り込む夕日が少女の震える右腕を照らしていた。
それから数日が経って、少女が言っていたように一人の司書が姿を消した。
使用人曰く、失ったために、教会に削稿されたのだそうだ。僕はあまり興味が無くて「そう言えばそんな事を、司書の一人が言っていたな……」くらいにしか思わなかった。
◆
「カシ様はこの図書室がお好きなんでしょうか?」
その日は日差しが強く、萌葱色の広葉樹の葉が風に揺れる天気の良い一日だった。
僕が紫丁香花が植えられた屋敷の庭に座っていると、聞き覚えのある声が耳に入った。
振り向けばそこには薄桃色の三つ編みを垂らした女の子が立っていた。
(確か巻名は、『シノブの巻』だっただろうか……)
記憶の隙間を縫うように、数日前の出来事を思い返す。
目の前の少女は、相変わらず顔を黒い覆衣で覆っていて、確かな表情は分からない。けれど、覆衣の下から覗く少女の少し上がった口角が、彼女がご機嫌であることを伺わせていた。
その子は僕の膝の上に置かれた書物を眺めながら、ふわりと僕の隣に腰を下ろした。
「今日は何の本をお持ちなんですか?」
その子の指が書籍のページをめくり、古びたカビの匂いが宙を舞った。
その子は自然な動作で距離を詰めると、その書物の中身を覗いた。その拍子に、桃色の小ぶりな三つ編みが肩をかすめ、僕は思わず身を引いた。
強い日差しに肌が焦げ、体温を上げるようだった。
「なるほどこれは――経済書ですか。随分真面目ですね」
その子は訳知り顔で横からこちらを覗きこんだ。覆衣の下から覗く桃色の口元が、挑戦的に僕に言葉をぶつける。
むせ返るような草木の香りに、例えようのない煮え切らなさと苛立ちがふつふつと沸き起った。
「真面目で悪いか……僕はこの家を背負って立つ。責任も教養も僕には必要な物だ。君みたいにふらふら好きなことが出来るわけじゃない」
「好きな事……ですか」
その子は一瞬困ったように喉を鳴らすと、気を悪くしたのか、口を尖らせ俯いた。それから暫く考え込むと、ゆっくりと視線を前方にずらして淡い桃色の唇を動かした。
「カシ様には『好きな事』がおありですか?」
返答に困っている僕を見て、少女は口元に憂い気な笑みを浮かべた。
「司書として生まれた私には、それ自体がとても眩しいことでございます」
覆衣の奥に隠れたその子の瞳が一瞬だけ陰ったようにも思えた。
その子は一度パンパンと態とらしく音を鳴らして土を払うと、洗練された所作で立ち上がる。
音もなく踵を返し、円を描くような流麗なお辞儀を披露した。拙い作り笑いを口元に浮かべて背を向けた。
(気を悪くさせただろうか……)
――きっと日差しの熱さに耐えかねたのだろう。頭が脈打つのを感じた。喉が酷く乾いて水が欲しい気分だった。
それから僕は、その子の後姿を敷地内で見かける度にその子に声をかけるようになっていた。
小さな彼女の後姿にじれったさを感じ始めたのはこの頃からだったと思う。




