後悔
炎嘉が将維の対へと飛び込んで客間の方へと、炎託の気配を探って向かうと、一番大きな客間の奥に、炎託が居るのが分かった。
居間を抜けて奥へと入ると、将維が、もはや起き上がって寝台に座っている、炎託と共に居た。近くには、治癒の者達が居て、炎嘉を見て慌てて頭を下げた。将維は、振り返って言った。
「炎嘉殿。確認はお済みか。」
炎嘉は、黙って頷いて炎託へと足を進めた。そうして、左腕を掴むと、その腕にしっかりと出ている小さな炎の形の痣を見て、言った。
「…いつからぞ。」
炎託は、淡々と答えた。
「こちらへ来て、しばし経った頃からでございます。正確には、五日ほど前でございますな。その日、突然に現れて、すぐに気の消耗が激しくなり…長く行動出来ぬようになり申した。」
将維は、驚いた。炎託の外見は、まだそれほどに変わっていない。だからこそ、疲れたと言っていても、そんなものかぐらいにしか思っていなかった。
炎嘉は、頷いた。
「ならば月の宮に来ておらねば主はもう老人ぞ。」炎嘉は、どう思っているのか分からない無表情で言った。「主の命は長くない。我は前世、鳥の宮でひと月粘ったが、かなりきつかった。ここに居れば恐らく同じぐらいは楽に生きられよう。これよりは、主、ここに滞在するが良い。」
炎託は、驚いたように身を乗り出した。
「我には鳥の宮へ帰るなと?」
炎嘉は、首を振った。
「ここに居ればそれだけ時間があるということぞ。あちらへ帰れば、主はひと月も命は持たぬ。前世の我でもきつかったと申したであろうが。主は、残りの時間、己の息子と過ごすが良い。」
それを聞いた、将維と炎託は、息を飲んだ。
もしかして…。
「…そうか、あの折の」将維が、思い当たることがあったと視線を動かした。侍女とのひと夜と聞いて、何か覚えがあると思ったのは、炎託のことだった。「炎託、あったではないか。ひと夜だけでいいというからつい、と。旧龍南の宮の時のことぞ。侍女が主から離れぬで、そんなに言うならまあ良いかと思うたからとかあの後聞いた。あの女ではないのか。」
炎託は、ハッとした顔をした。そういえば…あの時一度だけそんなことがあった。
「…だが、子が出来ても産まぬはず。産めぬのだ、我の血は強いゆえすぐに誰の子か発覚するし、それが面倒だからと断っておったのに、あの侍女は足元に縋って離れずで。そういう約定の元にあったことであるからの。」
炎嘉が、真顔で言った。
「わかっておったならやめておったら良かったのよ。隠れて産んではぐれの神の中で育ったのだぞその子は。主、己の血筋の子をそんな風に扱われて憤らぬのか。とはいうて、もう居るものは仕方ないことよ。女も他の男に嫁いでここでやっておる。しかし、子だけはなんとかせねば。主のお陰で我が疑われてしもうたのだぞ?さっさと行って、確認して参れ。面倒なことをしおってからに。」
将維は、慌てて言った。
「だが炎嘉殿、炎託は倒れたばかりであるし…」
炎嘉は、炎託に背を向けながら、言った。
「老いが来たぐらいでなんぞ。そんなもの姿もまだそう変わっておらぬのに序の口ぞ。病いではないのだ。貧血でも起こしただけではないのか。月の浄化の結界の中なのだから、主は恵まれておるわ。行って参れ。残りの生を寝ておるだけならもう、鳥の宮へ帰るが良い。ほんの数日で老人の姿になって寝台から動けぬようになるわ。」
そう言ってから、炎嘉は出て行った。
維心は、その様子を戸の外から伺っていたが、炎嘉が出て来るのを感じて、声を掛けずにそっと、その場を離れて蒼の居間へと向かった。
将維は、戸惑いがちに言った。
「…己の子だと疑われたのが余程腹が立ったのかの、炎嘉殿は。主とて疑わしいような顔をしておったぐらいであるから、炎嘉殿は本当に今生、禁欲的に生きておるのだろうし。」
炎託は、ハアとため息をつきながら、寝台から脚を床へと下ろした。
「父上には申し訳なく思うが、我だって思いもせなんだのだし。だが、ほんに簡単に誘いにのるべきではないの。身に沁みたとはいえ、もう死ぬのだしそんな元気もない。せめて将維、主は気を付けよ。」
将維は、炎託が普通に立ち上がるのを見て、少しホッとしたように頷いた。
「だから主は知っておろう。我はそのような事、興味はない。」
昔から変わらぬのだから。
炎託はそう思ったが、将維と共に、光希の屋敷へと向かった。
炎嘉が言った通り、特にどこかが悪いというわけでもなく、ただ体が重くて気が消耗しているだけのような感じで、これが老いなのか、と炎託は思っていた。
炎嘉は、将維の対を出て蒼の居間へと向かいながら、眉根を寄せてずっと気難しい顔をしていた。
蒼の居間へと着いて、先に着いて座っていた維心の横へと勧められるままに座ると、蒼が開口一番、頭を下げて言った。
「申し訳ありませんでした。あまりに炎嘉様にそっくりな様でありましたので、間違っておりました。炎託は、炎耀の確認ができそうでしょうか。」
炎嘉は、真顔のまま頷いた。
「確認に参らせた。老いが始まったとて、病いではない。ましてこの月の浄化の結界の中に居て、早々死なぬわ。ひと月は時があるだろう。あれには、それまでここで己の息子を見てやるように申した。なのですまぬが、あれを頼んだぞ。」
蒼は、困惑した顔をした。
「それは構いませんが…鳥の宮へ、帰さなくても良いのですか?」
皇子が己の宮を離れたままで死ぬなど、普通ではあり得ないだろう。炎嘉は、答えた。
「この結界を出たらすぐよ。恐らくは数日であろうな。しかしここに居ればひと月。子が見つかったのだ、あれのためにも少しは時が欲しいであろうて。ゆえ、そう思うたのだ。」
維心は、黙ってそれを聞いている。蒼は、頷いた。
「ならば、こちらで。何があればお知らせいたします。」
炎嘉は、少し安堵したように、頷き返した。
「頼んだぞ。」
しかし、蒼はため息をついて言った。
「そうなって来ると…あの、炎耀の中の闇を何とかせねばなりません。炎嘉様にやって頂けるから、こちらでは炎嘉様の御子なら良かったと思うておったところだったのです。炎託は、確かに前までなら心強かったのですが、死斑が出てしもうては…。」
そんな無理をさせるわけにはいかない。
蒼がそう思って頭を抱えていると、炎嘉は言った。
「何を言うておる。我とて孫はかわいいわ。案じずとも、炎託に出来ぬなら我が。あれには、生きて鳥の再興を手伝ってもらわねばならぬ。炎託の命が尽きるとなると余計にぞ。一族のことが掛かっておるゆえ、並大抵の心ではないぞ?我に任せよ。」
蒼は、心底ホッとして、炎嘉に頭を下げた。
「ありがとうございます。これで、闇を何とかする道筋が見えて参りました。では…早速ではございますが、光希の屋敷へ。十六夜と維月が見張っておりますが、闇が何を考えておるのか。紫翠が面倒が起こりそうなら知らせてくれると言うておるので、あれも呼んであちらへ来させましょう。」
炎嘉は、眉を寄せた。
「紫翠?なぜにあれが関わって来るのだ。」
蒼は、それを話していなかったと、慌てて説明した。
「紫翠は、前世維月が取り込まれた、あの闇の生まれ変わりであるのです。ですので、闇の意思を読むことが出来、あちらのことも事細かに教えてくれております。だからこそ、このやり方も分かった次第で。」
炎嘉は、それには見る見る表情を変えた。あの、前世の維月と十六夜を殺した輩が、転生と?!
「そのような…そんな者の言うことを、信じて良いのか!また維月に何かあったら…こやつも居らぬようになるし、神世は大変なことになる!我はもう龍ではないし、鳥の面倒を見るだけで精一杯であるのに!」
指を差された維心は、ため息をついてその指を避けた。
「炎嘉、案ずるな。そのようなことにならぬよう、此度はいろいろと対策を。それに、紫翠は維月や十六夜すら同情したほど、性質の良い意識であった。たまたま闇に生まれただけで。だからこそ、転生して来ることも出来た。今対抗しておる闇は、蒼や維月も前世でかなり手こずって面倒な思いをさせられたものぞ。そうそう同情もせぬし、維月が取り込まれることもない。そのような懸念がなくなるよう、主だってさっさとあれを消したいだろうが。参ろうぞ。」
炎嘉は、フッと肩の力を抜いて、諦めたように維心を見た。
「主はすぐに後を追って参ったゆえ、遺された我らの気持ちなど分からぬわ。まあ良い、ならばさっさと消してしまおうぞ。我とて暇ではない。」
鳥の宮をほったらかしで来てしまっているのだ。
維心は頷いて、立ち上がった。
「では、参ろうか。蒼、主は紫翠を連れて参れ。我は炎嘉と共に先に参っておる。」
蒼は、維心に頭を下げた。
「はい。では、またあちらで。」
蒼はそう言うと、居間を出て行った。残された炎嘉に、維心は頷きかけた。
「さ、行くぞ。」
炎嘉は、また無表情に窓へと向かう。維心は、窓枠に手をついて飛び上がり、炎嘉がそれに従って飛んで来るのを見下ろしながら、その不機嫌な顔に向かって、言った。
「…無理をするでないわ。炎託が死ぬのを、見るのが嫌なのだろうが。」
炎嘉は、フンと横を向いた。
「うるさいわ。我は炎翔をあの戦いの折、己の手で黄泉へと送った。今さらに皇子が死のうと、そこまで感情は動かぬ。」
さっさと飛んで行こうとする炎嘉に、維心は言った。
「それも、己がよう育てもせずに先に逝ったせいだと悔やんでおるのだろう。炎翔は、王の器ではなかった。それを知っておったのに、間違いなく王の器である炎託が幼かったのもあって、己の命が尽きるのが早過ぎて跡継ぎの指名も替えられなかった。鳥が滅んだのはそのせいだと、主は未だに思うておるだろう。あのような最期になった息子が哀れで、せめて龍の我ではなく、主が送ろうと思うたゆえではないのか。我には分かっておるぞ。」
炎嘉は、プルプルと拳を震わせていたが、くるりと振り返って、叫んだ。
「うるさいと申しておろうが!ああそうよ、主は知っておるわな。我亡き後炎翔の暴走を止めるには、殺すよりなかった。鳥を滅ぼすより他、神世の安定などなかったのだ。我がそれを知っていたことも、主は知っておる。だからああして、あっさりと鳥と獅子をたった二日ほどで滅ぼしてしもうたのだ。炎翔が愚かでさえ無ければ、鳥は死なずに済んだ。大勢の軍神達が、炎翔に従って死んで逝った。我が皇子達もぞ。あんなものを王に据えて逝った、我の責よ!分かっておるわ!」
炎嘉は、そこまで言って、ぜいぜいと肩で息を継いだ。維心は、黙ってそれを聞いていたが、首を振った。
「…炎嘉。そうではないのだ。あれは運命であった。それでも、主が王にしたいと思っていた、炎託は生き残った。主の近しい軍神達は、先に炎翔が間違っているのだと判断し、宮を出ておった。判断の間違っていなかったもの達は、それでも生き残って主が戻るのを待っておったのだ。鳥の宮は、そうしてまた主の下に戻って参ったではないか。やり直すことなど、普通は出来ぬ。それなのに、主はやり直すことが出来るのだ。今度こそ、間違えずに跡を残すのだ。…炎嘉、我は…約したことを、成そうと思う。」
炎嘉は、黙ってそれを聞いていたが、最後の数言で、目を見開いた。約したことを成す…?
「主、まさか…、」と、一度言葉を失ってから、続けた。「まさか、維月か…?」
維心は、それこそ頷きたくないようだったが、それでも、渋々と言った風で、頷いた。
「維月が良いのなら、もう我は何も言わぬ。それが正しいのかは分からぬが、しかし主が、どうしても後悔せずでこれからの生を全うするためには、確かに主の子が要るのだろう。我はそれを理解しておる。ただ…分かりたくなかっただけで。」
炎嘉は、黙り込んだ。維心が、それを何よりも嫌がることを、知っていたからだ。だからこそ、ああは言っていたが、成せる時が来るとは、想像してはいなかった。ただ己だけ幸福で安定した位置に居て、ああして龍族を事も無げに治めている維心を、少しは困らせてやろうと思っただけなのだ。
本当に鳥のことを思うなら、炎嘉も維月だけを守るなどと言わず、前世やっていたように、愛しても居らぬ妃を、山ほど娶って置いておけばそれで良かった。気が向いた時に通っておけば、そのうち誰かが自分の子を産むだろう。前世だってそうだった。愛情など、知らなかった。表面上だけ繕うことなど、炎嘉には雑作なかったからだ。ただ、維月を知って、愛している女と共に居る、その幸福を知ってしまっただけで…。
炎嘉が黙り込んだので、維心は困ったように笑うと、先に飛んだ。
「さ、早う行かねば。まずは主の孫を救うことぞ。あれも一応、王の候補として育てるのだろう?もしかして、拾い物かもしれぬぞ。」
そう言って先に飛ぶ維心の背を追いながら、炎嘉はその長年の友のことを思い、知らず涙が浮かんで来るのを感じていた。