気
湖へと到着すると、気を失って倒れている薫を、維月が浮いて見下ろしていた。
維心は、その近くへとスーッと寄って行くと、言った。
「維月。」
維月は、こちらを向いた。
その目は真っ赤で、維心は一瞬、誰なのか分からなかった。
しかし、維心を見た瞬間、維月の瞳はいつもの鳶色にスーッと戻って行った。
「…維心様。あの…我を忘れてしまいそうでしたわ。私、やはり陰の月なのですわね。どうしたものか、解放してしまうとそれはのびのびと…本当に、自分が信じられませぬわ。」
維心は、苦笑した。
「良いのだ。それも主であろう。ところで、薫は?」
維月は、首を振った。
「いえ、未だ…。闇は薫の中で意識を失い、薫も意識がありませぬ。だから、この体は倒れておるのですわ。」
維心は頷き、薫の顔を覗き込んだ。
薫は、確かに炎嘉によく似ていた。どうして気付かなかったのか、この華やかな様は、どう考えても鳥の血筋なのだ。
そして、やはりその命には、気を封じる術が掛けられてあった。
「…やはりの。封を解く。」
維心は、手を翳した。
すると、パアッと隠されていた本来の気が現れて、その大きさに、維月は思わず目を白黒させた。
「この気、鳥…?!薫は、鳥でしたの?!」
維月が驚いていると、維心は苦笑して頷いた。
「王族ぞ。恐らくは炎嘉の…」と言ってから、少し顔をしかめた。「炎嘉よな?確かに炎嘉と気の色がそっくりであるし…だが、何か違和感を感じる。闇が混じっておるからか。」
それには、維月は顔をしかめた。
「はい…確かに。闇が入っておりますから、変質して感じるかもしれませぬ。ということは、この子は炎嘉様の御子と?」
維心は、ため息をついて頷いた。
「そうよな。侍女の一人に手を付けておったらしいが、どうやら侍女の方から懇願して、ではひと夜だけ、と約してのことだったらしい。決して漏らしてはならぬという約定であって、本来ならそれで終わりのはずが、その一度で子が宿り…産めぬのだが、女は産みたかった。それで、外へ出てはぐれの神の中に居ったのだ。この子は、そんな場所で育つ子では無かったのに。」
言われて、維月はまじまじと薫の顔を見た。確かに、炎嘉に似ている。炎嘉も、恐らくは寂しさを紛らわせるために、つい誘いに乗ってしまったのだろう。そんなことでまさか子がなどと思わなかっただろうが、こうしてここに、生き証人が居る。
「ならば…きっと今ならば、炎嘉様もお喜びになるのでは。私にお子をと言って来られるぐらいですもの。」
維心は、ため息をついて頷いた。
「確かにの。こうして立派に育っておるのだ…炎嘉に、知らせてやらねば。そうして、これを助けねば。あれの力が要る。知らせをやらねばの。」と、浮き上がった。「義心をやる。維月、これをまた光希の屋敷へ。一応十六夜の結界があるゆえ、それがかすめて痛みを感じるという事は、こやつも今のように消耗しておる間は、出て来ぬだろうし。頼むぞ。」
維月は、頷いて気を失っている薫を気で持ち上げた。
「問題ありませぬ。十六夜も父も見ておってくれておるのでしょう。陰の月の激しい様を見せるのは…実は嫌なのですけれど。」
維心は、フッと笑った。
「主は主であるし我は良い。だが、十六夜は若干ショックを受けておったの。」
維月は、息をついた。
「確かに…まるで闇のような性質ですから、陽の月である十六夜には相容れないものに感じるのですわね。片割れには違いないのですけれど、本来私達は対極であるので。」
維心は、維月の頬を撫でた。
「そのように生まれついておるのだからしようのないことよ。案じるでない、あれも直に慣れる。それにしても…主が寝台で時にあのようになるのは、このせいかと今更に思うた事よ。」
維月は、それを聞いて真っ赤になった。
「まあ維心様…申し訳ありませぬわ。あの、ですが我を忘れておるわけではありませぬので…。」
維月が言い訳のように言うと、維心は笑った。
「案じるでないわ。時に主からあのように攻められると、我も新鮮で良いのだ。次を楽しみにしておる。」
維月は、ブンブンと首を振った。
「お、お忘れくださいませ!もう致しませぬから!」
しかし維心は声を立てて笑うと、宮の方へと飛んで行った。
維月は、赤い顔のまま、薫を気で引きずって、光希の屋敷へと向かったのだった。
炎託は、将維の客間でホッと息をついた。左手の袖を上げる…見えた腕には、ここに来る前には無かった、炎のような形の痣が出来ていた。
この痣は、鳥族全般、鷲も鷹も、死期が近付くと例外なく出るもので、炎託はそれで、もう自分の命が長くはない事を知った。
人型はまだ、老いてはいない。だが、そろそろ出て来るはずだった。現に将維は平気そうにあちこち飛び回るが、自分はついていくのがやっとの体力だ。
元々将維よりは200歳も年上なので、先に自分に老いが来るのは分かっていたが、こうして目の前にすると、さすがにショックだった。
とはいえ、覚悟は出来ている。
後は、何とか自分亡き後炎嘉が困らぬように、出来ることはやっておきたいということだけだった。
碧黎には恐らく見えていて、時にちらりと視線が流れて来るのは感じていた。十六夜も見ようと思えば見えるはずだが、今はそれどころではないらしい。炎託は早くこれの方を付けて、さっさと鳥の宮へ帰りたかった。しかし、今この状態では帰るとも言えなかった。それに、月の浄化の気のお陰で、老いの速度が緩やかなのも感じていた。帰れば恐らく、一気に加速する。何かする暇も、もしかしたら無いのかもしれない。
炎託は、息をついた。せめてもうしばらく時をもらえたのなら…。
寝台に横になり、とにかくは体を休めた。そうして明日の朝になったなら、恐らくはもっと老いているのかもしれない。だがそうする他に、今の炎託に出来ることは無かった。
次の日の朝、目覚めて重い体を起こし、鏡に己の姿を映すと、まだそう見た目は変わらなかった。
ホッとした炎託は、侍女を呼んで着替えを済ませた。ここは呼ばねば侍女が来ないので、本来勝手に着替えるのだが、どうにも腕を上げるのが辛くてならない。
居間へと出て来ると、もう将維が、スッキリとした出で立ちで座っていた。
「炎託、えらくゆっくりだったの。昨日はあれから、闇を屋敷へ映して管理しておる。それに、主にすれば嬉しい驚きであろうが、炎嘉殿の子が見つかったぞ。」
炎託は、目を見開いた。父上の?!
「どこに…どこに居る!」
それが居たなら、もう我は思い残すことはない。
炎託があまりに必死なので将維は驚いたようだったが、すぐに微笑んだ。
「安堵したであろう。父上が確認して参った。炎嘉殿は今朝からすぐに来ると言うておったので、そろそろ着いておるのではないかの。だがしかし…それが、薫なのだ。」
炎託は、息を飲んだ。自分はまだはっきりと見て居らぬが、闇に憑かれたと言うあのはぐれの神の軍神か。
「…父上が、はぐれの神の女を相手にされたと?」
炎託には、どうも解せなかった。前世ならいざ知らず、今生の炎嘉は大変に謹厳だ。維月一人を守り、そこらの女になど目もくれない。
しかし将維は、首を振った。
「侍女であった女ぞ。己から懇願し、その夜だけと決めてということらしい。本来ならその子は生むことは許されなんだが、女は宮を出て隠れて生んだ。それが、薫なのだ。いや、それは蒼が付けた名で、その女が付けた名は炎耀というらしい。」
「…炎耀…。」
ならば、どうあっても助けねばならぬ。
炎託は、身を乗り出した。
「では、父上が闇から逃れるために手をお貸しくださるのだな?父上ならば、並の精神力ではない故、間違いなく退けることができようの。」
そう、あの父ならば。
炎託は、心の中を安堵感が満たしていくのを感じた。これで鳥は、安泰。あの父の子が、よう生きて見つかってくれたもの…。
「炎託?!」
将維の声が、慌てたように言うのが聞こえる。
だが、炎託はもう、立っている力も、無かった。
そうして意識が喪失していく中で、将維の声だけが聞こえて来た。
「炎託…!主、いつからこれが…!」
腕の痣の事を言っているのだ。
そうか、見つかったか。
そこで炎託の意識は途絶えた。