実家
その頃、汐は黙々とその日の任務をこなして、午後には屋敷へと帰っていた。
前夜から関の房という、結界に設けられた出入りを監視する場所の警備に立っていたのだ。
昨夜は何やら、結界内が騒がしく、他の軍神が様子を見に行ったが、王がお出ましになっており、何やら光希の屋敷辺りで話していたという。
螢も居たと聞いたが、確か昨夜は非番のはずだった…。
気になったが、何かあれば話に来るだろうと、あまり気にしないことにした。
梓が相変わらずの美しい様で出迎えた。
「お帰りなさいませ、汐様。」
汐は、頷いて腰の刀を外して渡しながら、言った。
「今帰った。留守中、大事なかったか?」
梓は、微笑んで刀を受け取り、頷いた。
「はい。螢は帰って参りませんでしたが、恐らくはまたあの女のかたの所へ行ったのかと思いますわ。」
そう言って、刀を収めに屋敷内へと歩く。
梓は、他のはぐれの神出身の神の女とは格段に違う品があり、動きも洗練されていた。最初に汐が梓に目をつけたのも、あのような場所で居るにも関わらず、見たこともないほどに美しく見えたからだ。
なので、同じ女には通わなかった汐が、どうしても梓だけは見過ごせなかった。
なので、面倒な、かなり気の強い息子が側に居たのでままならなかったが、隙を見ては通って行ったのだ。
家族、というものを聞いた時、だから真っ先に梓にしよう、と思った。
だからこそ、さらって来たのだ。
それに梓が居れば、他の女などどうでも良かった。
ここへ来るまでは、大切にする、とはどういうことか分からなかったが、こうして梓が自分に微笑みかけるようになったのを見て、こういうことなのだ、と分かった。
なので、何か褒美をと言われたら、いつも梓の着物や簪などをもらって帰るようになったのだった。
居間の椅子に座ると、梓が手際よく茶を淹れて持ってきてくれた。それに口を付けながら、汐はふと、言った。
「…気になっておる事があるのだ。梓、主のことは我は、強引に連れてきてしもうたが、主にはあの折、確か息子が居ったの。螢と同じ年頃の…大層に気の強い。」
梓は、ハッとして袖で口を押さえた。そして、悲しげに下を向く。
汐は、続けた。
「こうして落ち着いた今、我は王に申し上げて、それを探してこちらへ迎えようと思うておるのだ。主も気になっておろう…主を我から守ろうと、必死に抵抗しておった。思わず気弾を放ってしもうたが、殺してはおらぬ。あれなら王もお役に立つだろうと、我の申し出をお受けくださると思うのだ。」
梓は、じっと黙って聞いていたが、目に涙を溜めて顔を上げた。
「…そのようにお気遣い頂いて感謝致しますわ。ですが、あの子は…表に出ては、ならぬ子ですの。」
汐は、驚いた。表に出てはならぬと?
「何か、事情があるのか?」
梓は、控えめに頷いた。
「はい…汐様、我は生まれながらのはぐれの神ではありませぬ。ある宮で、侍女として仕えておりました女。我もあの頃若く、分別もなく、地位のあるそれは美しく華やかな神に、一目で惹かれ申しました。ですが、我など身分もない侍女。どうしても諦め切れず、ただ一夜だけと無理を申して、関係を持ちました。朝を待たずにそれきりになると、取り決めの上でした。そのかたはなので、すぐに発って行かれ、我もそれで思いきるつもりでありましたのに…子が、宿りましてございます。」
汐は、息を飲んでそれを聞いていた。だから、梓は宮を出たのか。
「…ゆえに、さまよっておったと。」
梓は、頷いた。
「腹の子の気は間違いのないあのかたの気。あのままあちらで生んでは事が露見し、約した事を違えることになりまする。ですが、腹の子を殺すことは出来ず…宮の結界を出て、さまよってあの場所にたどり着いたのでございます。」
汐は、呆然と梓を見つめた。ということは、その子はどこかの高位の神の子なのだ。
「しかし…気は隠せぬ。はぐれの神を探している十六夜の、目について露見するのは時間の問題なのではないのか。」
梓は、それに首を振った。
「あの子には、生まれた時より気の戒めの術を掛けておりまする。あれが解けぬ限り、本来の気の色は見えず、気の大きさも押さえられまする。生まれた時よりの事なので、本人は知りませぬ。術を解くか我が死なぬ限り、あの子の気は隠されまする。生まれの事など…知らぬ方があの子も幸福なのですわ。」
汐は、しかしそれを聞いて、反論した。
「幸福とはなんぞ。梓、あのような場所ではぐれの神に紛れて必死に生きるのが、幸福なのか。確かに生まれは、主にとって隠したいことなのかもしれぬ。だが、あの子には関係のないことぞ。本来、恵まれた場所で敬われて育つはずであったのに、そのような戯れのために、あれはあのような場所で身を落として暮らしておるのだぞ。主はこうして、今月に守られて生活しておるのだ。ならば、せめてここへ迎えて穏やかに暮らさせてやるのが、あの子の幸福なのではないのか。気の戒めがあるのなら、露見することもなかろう。我が、王にお許しをもらって探して参るゆえ。主も、一度きちんとあれを向き合って話を。己がどこから来たのか分からぬのがどれほどに心に重いことなのか…我が一番、知っておる。」
はぐれの神は、誰もそうなのだ。
梓は、それを聞いて、涙を流しながら頷いた。自分の子が、心配でなかったわけではない。だが、どこかあの血に流れる強い力で、生き残って幸福に生きているのだと信じていたかったのだ。
汐は、王に目通り出来るようにと、まずは嘉韻に話を通しに行くことにしたのだった。
蒼は、また居間で座っていた。
目の前には、十六夜、将維、炎託、義心、嘉韻、紫翠が居る。維心は、維月を避難させると今朝方すぐに龍の宮へと飛び立って、義心が代わりにこの議論に参加することになったのだ。
十六夜が、言った。
「オレは、さっき言った通り回りで何か騒ぐか、気になるようなことを話して、そうして静音に出て来るようにして、一気に浄化しようと考えている。他に何か意見があったら言ってくれ。」
すると、紫翠が控えめに言った。
「十六夜、しかしあれは狡猾で大変に面倒な性質ぞ。出て来たとしても、半分だけを出て、半分は腹の子に置いているということも考えられるのだ。昨夜も探っておったが、静音に話し掛けてある程度コントロールすることが出来ている。元々、人や神の弱い所を探ってそれに付け入るのが上手いあやつのこと、出て来ずとも静音を使って見て、それを語らせることで充分に回りを理解することが出来る。今は、月の結界に封じられている状態なのを、あれはもう知っておる。」
十六夜は、う、と黙り込んだ。蒼は、ため息をついた。
「そもそも、闇相手に命を消費するなと言う方がおかしいのかもしれないんだ。炎嘉様だってお命を落とし掛けたほど、あれの力は大きい。十六夜とはタメなんだぞ。こっちが向こうを消し去る力を放てるだけで。」
十六夜は、唸った。
「じゃあお前は、やっぱりこのまま静音を殺しちまう方向で考えてるってのか?」
蒼は、もう諦めたように頷いた。
「前世、十六夜と母さんが死んでいった時のことを忘れたわけじゃない。数百年前とはいえ、まだ記憶に新しいよ。今度は碧黎様だってもう、十六夜たちを転生させられないと言ってらっしゃるし。簡単に死ぬとかいう危険を冒さない方向で考えなきゃいけないんだよ。分かるだろ?そもそも母さんが死んじゃったら、十六夜どころか維心様も碧黎様も死んでしまうぞ。月は絶対に、ここで闇に倒れちゃいけないんだ。」
それを聞いて、十六夜は黙り込んだ。将維が言った。
「どちらにしろ、あのようなものを長く結界内で飼うわけには行かぬだろうが。さっさと殺してしまうのが良いのだ。出来ぬと申すなら我が斬って参っても良い。これ以上面倒を抱え続けるでない。」
炎託も同じ考えなのか、横でじっと黙って蒼を見ている。蒼は、頷いた。
「分かってるよ。やると決めたらオレだってやる。だけど、なかなか踏ん切りがつかないだけで。」
嘉韻が、気遣うように言った。
「お命じ頂きましたらなら我が始末して参りまするが。王のお手を煩わせることはありませぬゆえ。」
いつもそうなのだが、蒼はこうして回りから気遣われている。そうしなければならないような気にさせるのが蒼なのだ。
しかし、蒼は言った。
「いつも軍神達にばかり頼ってるし。オレだって手を下さなきゃならない時はやるよ。すまないな、嘉韻。」
嘉韻は、黙って頭を下げる。蒼は、額に手を置いて目を閉じた。どうしたらいい…十六夜が言うことを試してみてもいいかと、思ってしまってもいる。だが、紫翠が言うように闇は狡猾なのだ。そう簡単には行かないだろう。
議論に行き詰り、蒼が黙り込んだまま重苦しい雰囲気の中でただ座っていると、侍女の声がした。
「王。明蓮様がお越しになられました。」
皆が、戸の方を見た。そうだった、紫翠をここに置くのは明蓮と共にここへ来ると翠明に知らせを送るからと言ったので、明蓮はこちらへ来る必要があったのだ。
「…ああ、入るが良い。」
皆が見ている前で扉が開き、スラリと高い背に成長した、瑠維に似ているので維心とよく似た雰囲気の、明蓮が入って来た。そうして、もう高位の軍神であるかのように、頭を下げた。
「蒼様。お呼びであると聞き参じましてございます。」
蒼は、頷いた。
「座るが良い。主も聞いておるだろうが、闇の始末のことで話をしておるところであったのだ。」
明蓮は、将維や炎託にも深々と頭を下げ、義心や嘉韻にも会釈程度に頭を下げると、後ろの椅子へと座った。
「はい。紫翠様から聞いておりまする。出て来る前、王からも事の次第をお話頂きまして、大体の事は。」
公の場では、普段からため口で話している紫翠のことも、こうして敬わねばならない。明蓮は、そういうところもしっかりと弁えていた。
「紫翠が闇の意識を読めるので、それを使って静音に出て来たところを気取り、一気に浄化をと十六夜が申しておるのだが、紫翠は闇は狡猾でそう簡単には行かぬと申す。主、どう思う。」
明蓮は、皆の視線を受けて落ち着かないようだったが、答えた。
「は…確かに、無理があるかと思いまするな。我が書で知っておるのが闇だとすると、月との攻防の中で、かなりの知恵を付けて来ておるのだと思いまする。そう簡単には、引っ掛からぬかと。」
蒼は、確かに、と思った。
その昔の闇は、ツクヨミに降りた十六夜に封じられる時、そう賢い感じではなかった印象だ。それが、蒼が消し去る時には、結構なことを話していたように思う。そのうちに、次に出た時には他の神を利用して己を蘇らせようと画策していた。この間の闇は、新月の中に長く潜んで待つことまで覚え、段々に成長しつつある…。
十六夜が、顔をしかめた。
「そう言われてみたら確かにな。あいつはその昔は単純だったように思う。だが、学んでいやがる。段々めんどくさい奴になって来た。今回はどうだった?直接精神攻撃を受けたのは、紫翠と公明、明蓮だっただろう。あいつは馬鹿だったか?昔は確かに馬鹿だったが。」
その言い方に苦笑したが、明蓮は答えた。
「それは…確かに短気ではあると思うたが、こちらを攻める方向性は間違ってはおらなんだ。我は母や妹を何よりも守らねばならぬ大切なものだと思うておったのだが、それをいち早く察知して最初はそこを攻めて参った。だが、我は紫翠様や律から言われたことを頭に置いておったので、難を逃れた。普通の子ならば、さっさと取り込まれておったであろうな。」
紫翠は、苦笑した。
「主は普通の子では無かったゆえな。とは申して、公明もようやっておった…我は、闇の意識から主らの様も気取ることが出来たが、公明は口が上手いゆえの。」
明蓮は、頷く。
「本人から聞いており申した。公明様は闇を…」
そこまで言って、明蓮は、ふと黙った。十六夜が、怪訝な顔をする。
「…なんだよ。公明がなんだって?」
明蓮は、しばし黙ってから、顔を上げた。
「十六夜。」そうして、蒼を見た。「蒼様。もしかしてでありますが、手があるかもしれませぬ。」
皆が、目を見開く。
明蓮は、じっと真剣な顔で蒼を真っ直ぐに見つめていた。




