小話〜涙のわけ〜
ふと目が覚めて真っ先に視界に入ったのは、切なく苦しげな表情をした秀麗な男性の顔だった。射干玉の髪はいつ頃からか白くなっていたし、顔には幾つもの皺が刻まれていたが、それでもこの男の美しさは生涯変わらなかった。
ああ、これは最期のシーンね。
私は横たわるエミリーの目をとおして、冷静に状況を分析した。
「エミリー。僕をおいていかないでくれ」
そう言って両手で包みこんだエミリーの右手をより一層強く握りしめたアルフォンスは、これ以上ないほど悲壮な表情をしていた。
エミリーがクスリと笑う。
この時、エミリーが見惚れるほど優しい笑顔を浮かべたことを私は知っている。何故なら、この夢が観劇仕様の時に何度も見ているからだ。
「あなたの方が死にそうな顔をしていますよ、アルフォンス」
けれど、いつもアルフォンスの斜め後ろから観劇していた私は、彼がこんなに辛そうな表情をしていたことは知らなかった。
「死ぬなど……縁起でもないことを言わないでくれ。君がいないと僕は生きていけない」
まるで祈るように、懇願するように、年老いて細くなったエミリーの右手を額に押し戴くアルフォンス。その光景はさながら聖女に許しを請う神聖な儀式のようだ。
「あなたに伝えたいことがあるの」
「なんだい?」
エミリーは僅かに残った最後の力で、繋がれた手をほんの僅かに握り返した。
「ありがとう」
エミリーはこの一言に、どれだけの思いを込めたんだろう。
今はもう、エミリーも白けた気持ちでアルフォンスに付き合っていたことを知っている。それでもこの言葉に嘘はなかったんじゃないかな、と私は考えている。でなければ人生の終わりを迎える時に、こんなにも晴れやかに笑うことはできないだろう。
それによくよく考えれば、アルフォンスはエミリーの願いを叶えてくれた。戦争の終わりと国の平和。民の幸せを。
それが簡単には成し得ることができないことぐらい、誰にでも想像がつく。そのとてつもなく大変なことを、アルフォンスはエミリーへの愛のために成し遂げてくれた。感謝のひとつも覚えないようでは、流石に鬼だろう。
『ありがとう』ーーー終戦に導いてくれて。祖国を守ってくれて。平安の世を築いてくれて。そしてもしかしたら、私を愛してくれて。そんな気持ちもあったのかもしれない。
「どうか、最期までこの国を見守ってくださいね」
今は二人の愛する子供が治めるこの国を。
アルフォンスは駄々をこねるように首を振った。
「君がいなければ僕は息さえできない」
仕方のない人。エミリーは微笑みながらそう呟いた。
「命を途中で投げ出すことは罪深いこと。罪を犯した魂は罰を受けなければならない。……生まれ変わってもう一度私と巡り会いたいのなら、どうかあなたの生涯を全うしてくださいね」
私ともう一度会いたいと思ってくれますか。
エミリーのその問いかけに、アルフォンスは
「当たり前だろう」と震える声で答えた。
「それでは、約束ですよ」
そう言うと、エミリーは満足そうに息をついた。
閉じゆくエミリーの瞳が最後に写したのは、初めて見る夫の涙だった。
「今日もきっと素晴らしい一日になるよ。だってエミリー、君がいるんだから!」
カリカリカリカリ。
「……あ。由紀子、シャーペンの芯持ってる?」
今日も今日とて通常運転の木下を無視しながら、私は今朝見た夢を思い出して内心ため息をついた。
こやつが能天気な顔でこの場にいるということは、アルフォンスは自分の寿命を全うしたということなのだろう。エミリーとの約束通り。
(約束か……)
私は思う。
あれって、絶対死んでまで束縛されたくなかったからだよね、と。
エミリーが私の前世であることは、今はもう残念ながら確信している。しかしそうであるならば、前世の私は果たして来世まであの愛の劇場を演じたいと考えたのだろうか。答えは否だ。
ありがとう、そう言った感謝の気持ちは本物だと思う。しかし、あの約束の真意を私はこう考える。
終戦も平和もアルフォンスが頑張ってくれたおかげよ。だからとっても感謝しているわ。だけど私もあなたのヒロイン役を頑張ったの。でももう限界なのよ。まさか黄泉の国までくっついて来ないわよね?ねっ!?
もう一度巡り会いたい云々は、前世とはいえ私のことだ、後を追わせないためのていのいい言い訳に違いない。
けれどもその言い訳が、まさか本当に来世にまで引き継がれるとは、当のエミリーも思ってなかっただろう。もはや約束という名の呪いである。そして何より、げに恐ろしきはアルフォンスの執念だ。
「シャーペンの芯だって、木下君」
「はい、エミリー」
ニコニコ笑いながらケースごと差し出してくる木下に、私は無視もかなわず渋々お礼を言った。
「ありがとう」
パァッとさらに表情を明るくする木下を横目に、私は苦々しい気持ちで隣に座る友人を睨んだ。
由紀子よ、あんたはシャーペンの芯一本ケチる女だったのか。それとも木下を使って私で遊んでいるのか。……分かってる。そのニヤニヤ笑い、後者よね。ちくしょう。
「どういたしまして」と爽やかに笑う木下は、優しくて頭が良くて格好良くて、女子の理想を体現したような男だ。しかし。
「エミリーのためならシャーペンの芯一本くらい。世界中の芯を買い集めてプレゼントしたいくらいだよ」
もう、とにかくどうしようもない男なのだ。
そんな大量のシャーペンの芯などもらっても使いきれるわけがない。こいつは私にシャーペンの芯売りというニッチな業者にでもなれと言っているのか。そんな先行き不安定な仕事などお断りだ。
「エミリーに使われるなんて、その芯は幸せだね」
カリカリカリカリ。
救いといえば、今の私はエミリーと違って国も国民も王族の義務も背負っていないと言うことだ。女子高生、万歳!
と言うわけで、私は再び無視という対木下防御態勢に入った。
「日下部さん」
そんな中、穏やかな声に名前を呼ばれた。振り仰ぐと、そこには同じクラスの男子生徒が立っていた。
「森野君」
「これ、昨日話していた本。持ってきたんだ」
そう言って一冊の本を差し出した。
「わ。本当に持ってきてくれたの?ありがとう!」
私は満面の笑みで御礼を言った。昨日たまたま図書室で立ち話をした際、つい最近読み終わった本が面白かったと森野君が言っていたのだ。確かに興味を惹かれていたんだけど、早速持ってきてくれるとは。
森野君は少し照れたように微笑むと、なぜかチラチラと木下の方を気にしながら、私の放課後の予定を尋ねてきた。心なしか耳や頬が赤くなっている。
……なんか、私まで照れる。
「ちょっとだけでいいんだけど。話があって」
な、なんだろう、話って。
思わずドキドキしてしまう。
「ほ、放課後なら空いてるよ」
「あんたさっき木下君に誘われた時、予定があるって言ってたじゃない」
「うるさい」
由紀子の横槍をいなして、森野君と約束をした。森野君は嬉しそうに微笑むと、よろしくね、と言って自分の席に戻っていった。
ああ、そんなすぐに行かなくてもいいのに。
私は森野君の背中を名残惜しげに見つめた。
「……ちょっとエミリー。浮気?」
由紀子が非難がましく、しかし実際は楽しそうに尋ねてきた。性格が悪い。わざわざ私に顔を寄せて口に手を添えているが、木下にもバッチリ聞こえる音量だ。
「な、何言ってんのよ。ていうか誰に対しての浮気よ!」
私は由紀子を睨んで黙らせた。
……そう言ったはいいけれど、実は最近、森野君が気になっている私がおります。はい。
森野君とは以前隣の席だったことがあり、その時からちょくちょく話すようになった。森野君は眼鏡をかけていて一見大人しそうな外見だ。実際に大人しい性格だけど、根暗ではなく、朗らかで穏やかといった感じ。終始木下のキラキラした顔と大袈裟な愛の告白劇を見させられている私としては、森野君の素朴な外見と人柄はホッとするのよね。
そして森野君の最も好感度が高いポイントは、私と木下のことを冷やかしたり無責任に応援したりしないってこと!以前に私がクラスで木下とのことをからかわれていた時も、困ったように微笑んで、「大変だね」と言ってくれた。そんな風に言ってくれたのは森野君が初めてで、私はいたく感動した。おお!同志よここにいたか!と思った。マジで。
それから何となく存在が気になるようになり、目があって微笑まれたりすると、もうキュンキュンだ。彼は私の癒しなのである。
最初はいい人だなーくらいにしか思わなかったけれど。最近は……もしや私、とか、ちょっぴり思ったりも、する。
「ちょっと!絵美里!」
由紀子に肘でガツガツつかれ、なんだ痛いな、と自分の世界から舞い戻ると……。
目の前にそれはそれは悲しそうに微笑んでいる木下がいた。
……その表情、やめれ。なんだかすっごく悪いことをした気分になるじゃないか……。
「な、なによ」
しかし木下は微笑んだままフルフルと頭を振ると、「授業が始まるから、戻るね」と言って私の前の席から立ち上がった。いつもは教師がやってきてから席に戻るのに。
……なんなんだ、この罪悪感は。
「あーあ、傷つけちゃった」
無責任な声音でそう言った由紀子を、本日何度目か分からないが睨みつけておいた。
そして放課後。校舎裏である。
いつもは木下信者ならぬ救世主予備軍に呼び出される定番の場所だけど、今日私を呼び出しているのはクラスメイトの森野君。最近気になる男の子。
ちょっぴりドキドキしながら待っていると、すぐに森野君がやってきた。
「ごめんね!待たせちゃった?」
「ううん!私も今来たところ!」
ああ!これこれ、これですよ!!これぞ健全な高校生男女のやりとり!
喜びを噛みしめていると、森野君は私の前で立ち止まった。そして少しの逡巡の後、照れたような顔で、やや緊張気味に話しだした。
「あの、ね。日下部さんは、木下君のことをどう思ってるのかな?」
ドキッ。
な、なんでそんなこと聞くの?や、やっぱり……。
「い、いつも言ってるけど、私、木下のことなんて」
「エミリー!!」
私を呼ぶ声に返事を遮られる。声がした背後をバッと振り返ると、木下が珍しく焦った様子でこちらに走ってくる。そしてその勢いのまま、私をガバリと抱きしめた。
「やっぱり、黙って見守ってるなんてできない!」
そして私をぎゅうぎゅうと抱きしめたまま、「愛してるんだ!」と叫んだ。
私は木下の腕の中で、プルプルと怒りに震えた。
「……こんな時までしゃしゃり出てくるなんて、もういい加減にしてよ!!」
私は木下の胸を押して腕の中から抜け出そうともがいた。その時。
ポタリ。
頬に水滴が当たり、咄嗟に雨かと顔を上げると、青い瞳からポタポタと涙を流している木下がいた。
「……え?」
私は驚きに目を見開いた。雷に打たれたように体が硬直する。木下の涙は、それほど衝撃的だった。
前王である父の死も、臣下の裏切りも、どんな苦難の道でも涙を流さなかったアルフォンス。そんな彼が涙を流したのは一度だけ。それは愛するエミリーの死に際だけだった。
そんなアルフォンスと同じ青い瞳から、涙が流れている。
木下は涙など気にした素振りも見せず、私の頬に両手を添えると、コツンとおでことおでこをくっつけた。
「エミリー。君は僕の全てだ」
木下の涙とその言葉に、私は自分でも驚くほど激しく心を揺さぶられた。溢れるように湧き上がったどうしようもない焦燥感と罪悪感に、咄嗟に頬に添えられている木下の手に自分の手を重ねた。
ああ、きっと最期の時、エミリーもこんな気持ちだったに違いない。切なくて、どうしようもなくて……。
「日下部さん……」
あ……!
横から聞こえてきた声に、この場に森野君がいたことを思い出す。一瞬その存在を忘れていた。
「……日下部さんの気持ちなんて、聞くまでもなかったね。二人の間に入る隙間なんて、やっぱり初めからなかったんだ」
森野君は自嘲気味に笑った。
「森野君……」
森野君は一度ぎゅっと目を瞑ると、次に目を開いたときにはいつも通り穏やかな、けれど芯の強さを感じさせる表情で私達を真っ直ぐに見た。
「それでも、迷惑かもしれないけど、僕の気持ちを伝えさせてほしい」
森野君は私を抱きしめたままの木下に向き直った。
「木下君。君が好きだ!」
「え。そっち」
思わず出た私のツッコミが聞こえなかったのか、森野君はほっぺたをリンゴみたいに真っ赤にしながら一生懸命木下を見つめている。
「男同士なんて気持ち悪いって分かってる!でも、どうしても気持ちを抑えることができなくて……!」
森野君が苦しげな表情で胸を押さえると、頭上から、まるで天からのお告げのように静かで穏やかな声がした。
「気持ち悪くなんかないよ」
森野君がハッと再び木下を見る。
私も腕の中から木下の表情を伺うと、奴はまるで慈悲深い聖者のごとき微笑みを浮かべていた。細めた瞳に溜まったままの涙が、まるで宝石のように輝いた。
「気持ち悪くなんかない。君の気持ちを嬉しく思うよ。でもゴメン。僕の唯一愛する人は、このエミリーだけなんだ」
そう言って、私を抱く腕に力を込めた。
「木下君……」
森野君は感動したように木下を見つめると、今度は私に向き直り、ガバッと頭を下げた。
「日下部さん、ごめん!君がいつも木下君を迷惑そうにしてるから、もしかして本当に木下君を好きじゃないんじゃないかと……。もし木下君を迷惑がってるんなら、男の僕でも、君は協力してくれるんじゃないかって……。でも、僕が臆病で浅はかだった!日下部さんは、ただ照れ隠しをしていただけだったんだね!!」
「違うから」
私の即座の否定に、森野君は笑って首を振った。
「僕の前では、もう素直になっていいんだよ!だって、ついさっきの君、あんなに切なそうな、愛おしそうな顔で木下君を見つめていたじゃないか!」
「愛おしそうな顔なんてしてないですけど」
「今だって、そんなに熱く抱き合って!」
「……」
私は無言で木下の腕から離れた。
「クス。日下部さんは本当に照れ屋なんだね!でも君の気持ちは分かったから!僕の気持ちに真摯に応えてくれた木下君のためにも、僕はこれから二人を全力で応援するからね!!」
……なんで。
……なんでそうなるんじゃボケェ!!!
呆然とする私を尻目に、スッキリした様子で「じゃぁ、後はお二人で!」とどこぞの仲人ような台詞を残し、森野君ーーーもうこんな奴は呼び捨てでいいかーーー森野はさっそうと校舎裏から去っていった。
「エミリー」
木下は立ち尽くす私の両肩をそっとつかむと、目の前に立って腰を屈めた。
「話している途中、すごく大きなゴミが目に入って、もう痛くて痛くて。涙が止まらないよ。ゴミ、取ってくれないかな?」
「……」
私は無言のまま渾身の一撃を木下の脳天にお見舞いした。
木下信者、一丁上がり。