一刀、七乃に嫉妬される
またダラダラと一週間のルールを越えて延ばしてしまいました。
「この辺で一度、お休みを取りましょうか」
「せやね、ちょうど小川もあることやし」
七乃は後ろに控えていた従者の一人に合図を出し、遥か先をゆく鈴々たちに小休止の提案させにいかせた。
「すいません」
未だに慣れぬ馬を何とか御しつつ、一刀は両隣をゆく七乃と真桜に小さく頭を下げた。実際、表情にこそ出していないものの一刀の下半身の筋肉は既に限界に近かった。
一刀たちは現在、漆喰の材料である消石灰を石灰石から生成するために必要な1100度という高温が出せる鈴々特製の炉を求めて、彼女の本拠地である豊島へ向けての旅路の最中だった。
この旅は平将門の武威を示す目的もあるため、土豪たちの屋敷を経由して、かなりゆっくりとしたペースで進んでいたのだが、それでも馬に乗りなれぬ彼からすれば、日のほとんど馬上で過ごす生活はかなりハードであった。
「気にすることないで、一刀はんは馬に始めて乗ってから一月経ってないんやろ?」
「そうですよ。それに昨日は、鈴々さまがかなり無理させたみたいですしね」
「っていうか、なに、人事みたいに言うてるん?七乃さんかて同罪やろ。前々から言おうと思ってたんやけど、天幕張ってても、声は漏れるんや。凪なんて毎日毎日、真っ赤々になってるんやからね」
真桜はそう言いながら馬から下り、手綱を引いて自分の馬を川へと歩かせた。
七乃もそれにならって馬から下りると、一刀の様子をそれとはなしに窺ったが、多少もたついているだけで問題無さそうだったので、自分も馬に水を飲ませるために川へと向かった。
「真桜さんも、真っ赤になるだけだったんですか?」
「それはちょっと意地悪な質問やと思うやけど」
「鈴々さまは、一刀さんが他の女を抱かれても気分を害したりはしませんよ」
「確かに、大将はそうかもしれへんね。カラっとしたお人やし。けど、他にもう一人、怖い人がおるやん?」
「わたしも別に気にしませんよ。というより一刀さんは、自分の状況からの逃避として女を抱いてるところがありますから、下手に内省的になられるぐらいだったら、他の方に目移りされた方がマシなんですよね」
やっぱり、怖い人やで。七乃の冷静な分析に、真桜は改めてそう思ったが、味方に回ってしまえば、やはり恐怖は半減する。彼女は少しばかり揶揄する口調で会話を続けた。
「そうなんや。飽きもせず毎日毎日やから、よっぽどの好き者なのかと思ってたわ」
「いえ、好き者は好き者だと思いますよ。優しいですしね、一刀さん」
思った以上の直球な返しを喰らって、真桜は黙りこんでしまった。しかし、幸か不幸か、会話が途切れることはなかった。真打が登場したのだ。
「俺がどうかしましたか?」
後ろから遅れて馬を引いてきた一刀に、七乃は顔色一つ変えずに言葉を返した。
「一刀さんだって、真桜さんのことを憎からず思ってるはずだって言ったんですよ」
「な、なに、急に何言ってるんや」
「そりゃ、真桜はいい奴ですから、嫌いじゃないですけどね。けど七乃さん、そういうのを、俺のいた世界ではセクハラって言って、かなり嫌われるんですよ。悪いな、真桜、気にしなくていいから」
「うん?ああ、そうやね」
サラっと流されたことを悲しむべきか、それとも嫌われていないことを喜ぶべきなんやろか。真桜は態度を決めかねて会話がおろそかになった。
一刀はそんな真桜の内心に気づきもせず、会話がかみ合わなかったのは、彼女が馬の世話に気を取られていたためだろうと解釈した。実際、彼は馬がぐびぐびと川の水を飲んで手綱を揺らすたび、心臓がドキドキしていたのである。
「セクハラ、ですか。これまた面妖な響きの言葉ですね」
七乃は割合あっさりと引き下がった。彼女とて一刀に進んで他の女をあてがおうと思っているわけでもないのだ。ただ、真桜たちの母である源護と決定的に対立する前に、一刀が彼女たちへの重しになってくれないものかという欲目も無くは無かったが。
どちらにしても、早いか遅いかの違いなような気はしますけどね。七乃は微苦笑を浮かべながら馬にくくりつけていた荷から青草と塩を取り出すと、それを川から顔を上げた馬の顔先にそっと差し出した。
「そういえば、前から気になってたんですけど、その草って何なんですか?そこら辺に生えてる草じゃないんですよね」
「これですか?これは小麦が実る前の葉を刈り取ったものですね」
「なんや、知らんで食べさせてたん?いくら小麦ちゅうても、関東でわざわざ畑から取れた草を食ませてもらえる贅沢ものは、うちらの大将のとこの馬くらいなんやで」
「へぇ、小麦って粉にする以外にも、そんな使い方があるんだ」
何気ない一刀の感想に、七乃の動きがピタリと止まった。馬はまだ塩を欲しがっていたが、彼女はそんなことに頓着出来る状況ではなかった。
「粉?一刀さん、小麦を粉にするとおっしゃいましたか?」
「えっ、俺なんか変なこと言いました?小麦って普通、粉にしてから食べるものですよね」
「普通、ですか。確かに、西の方では砕いた小麦を水と混ぜて、湯で煮て食べるという方法があるとは聞き及んでいます」
うどんのことかな。一刀は、七乃が言っている食べ物についていまいち自信が持てなかったが、おそらく似たものなんだろうと当りをつけた。
「せやけど、あれって祭りのときとかに食べる特別なやつやろ。流石、天の国は、食べ物からして豪勢やね」
もしかして、からかわれてるのかな。七乃と真桜からもたらされた情報のあまりの違いに、一刀は混乱してしまった。一方では人ではなく馬に食わせる糧食であり、一方では祭りのときに食べる貴重品だと教えられたのだから、これは無理もないことではあった。
だが、頭にハテナが浮かび続ける一刀とは対照的に、七乃は最初の時点で、この問題の核心が分かっていた。一刀のいた世界では、小麦は普通、粉になっているものなのだ。それが意味するところは一つしかない。
「一刀さん、つかぬことをお尋ねしますが、そちらでは小麦はどうやって粉にするんですか?」
「えっ、たぶん機械的なもので──そうか、そうだよ。何で今まで忘れてたんだろ。テンプレみたいなものじゃないか。あのですね、七乃さん、俺たちの世界では石臼を水の力で動かすんですよ」
どんだけボケてんだよ、俺。一刀は自嘲と確信が入り混じった表情を浮かべ、少しばかり上擦った声で、水車の存在を七乃たちに伝えた。だが、彼女たちから返ってきた反応は、彼の想像を超えるものだった。
「イシウスというのは、石で出来た臼だと考えてよろしいんでしょうか?」
「言葉の響きからしたら、そうなんやろな。けど一刀はん、あんなもん石で作ってどうするん?餅作るなら、木から削り出したので十分やと思うけど」
えっ、石臼ないの。一刀は思ってもいなかった事実に愕然としながらも、何とか質問を口にした。
「逆に聞きたいんですけど、小麦ってどうやって粉にしてるんですか?」
「くぼんだ容器の底に小麦を入れて棒でついて粉にするはずですけど」
「せや、量をこなそうとしたら大の男でも根を上げる重労働やで」
一刀はクラクラしながらも、彼がぼんやりと知っている限りの石臼の知識を二人に伝達した。意外なことに、七乃と真桜がその全体像を掴んだのは、ほぼ同時で、正確に言うなら真桜の方が少し早いくらいだった。
「つまり、人の力やのうて、石の重みで小麦を砕くわけやね。しかも、臼を回すのも人やなくて川の流れにさせると」
「一刀さんもお人が悪いですね。そんな隠し玉があるなら、もっと早く教えてくださればいいのに」
まあ、農作物については何も知らないという一刀さんの言葉を鵜呑みにした、わたしの失策ということなんでしょうね。軽口を叩きながらも、七乃は一生でも稀にみるほどの速度で思考をめぐらせていた。
七乃は今の今まで最終的に自分たちが敗北するという事実は基本的に疑いようのないものだと考えていた。
その根拠は幾つかあったが、一番大きいのは関東全体で生産できる食料の総量であった。彼女の試算によれば、どう甘く見積もったところで、現在の関東の生産量では、都との争いが本格的なものになったとき、鈴々たちの兵を養えるのは五年が限度であった。
それを越えてしまえば、後は土地の農民との奪い合いしかなく、たとえ鈴々がいかに戦巧者であろうとも、内と外の両方に同時に敵を持てば敗北するのは必定であった。
そして、都は地方での支配こそ綻びが目立ち始めているものの、まだまだ十年や二十年、戦を楽々と継続できるだけの地力が残っているのである。
とはいえ突発的な天変地異でも起これば、分析の基礎が揺らぐわけで、七乃としては出来るだけのことをしながら、それが起こるのを期待せずに待っているという現状だったのだが、一刀が今、平然ともたらしたものは、天変地異など遥かに超えた代物だった。
何せ、小麦というのはろくに他の作物が育たない二流、三流の畑にまく作物であり、七乃たちがそれを青葉の頃に刈らせて馬の餌にするのも、畑に恵まれない農夫への施しという面があるほどなのだ。そんな小麦の畑が、食料の山へと変わるかもしれないのである。
それはつまり、鈴々の夢を七乃ではなく、一刀が、一歩現実に近づけたということを意味していた。
「七乃さん、どうかしましたか?」
「いえ、すると馬には過ぎた代物だったかなと思っただけですよ」
「せやけど、そんなこと言ったって、その青草を人間が食べるわけにもいかんやろ」
七乃は手に残っていた草を無言で口の中に含んで二、三度咀嚼すると、そのまま一刀に近づいていって舌が絡み付くタイプの口づけをした。
「ふふ、どうですか一刀さん、お味の方は?」
「──ひたすらに苦いですけど」
「そうですか。昨日の種馬っぷりなら、案外食べれるんじゃないかと思ったんですけど、あてが外れちゃいましたね」
「冗談きついですよ」
一刀は困ったような笑顔を浮かべた。
このときの冗談が、後にとてつもなく尾を引くことを、彼はまだ知らないのだった。
石臼はいちよう平安の時点で、中国から渡来しており、日本に存在してるのですが、畿内ですら一般化せず、小麦の粉食はハレの日に食べるものを超えることはなかったとネットに書いてあったので、そういうものなんだということにしました。
次は石臼を自作しながら、真桜の人を頂いちゃう話かな。