31話 野分立つ
江戸城の軒に吊るされた風鈴が風に揺れて、チリンと清涼な音を奏でた。けれど、その音に気づいたのは浅葱だけだ。
資高の目は一心に、氏綱からの書に向いている。
読み終えた途端、資高は大きく溜息をつき、額に手を置いた。久しぶりに見た主の顔は、少しやつれたように見えた。
苦悩する主人に浅葱は心の底から同情する。
書状の内容を浅葱は具に知らないが、浅葱が伊勢氏綱から下された命はこうだ。
「祭礼の日に、太田資高殿をこの神社にお招きしたい。――連れて来られるか」
無理難題にも程がある。
「――小田原城の鬼門に位置する神社で対面願いたい、とある。なかなか難題吹っかけてきた」
苦笑いしながら、資高は書状を文机に置いた。
「伊勢家二代目当主の元、小田原の街は変わろうとしています。一度、様子を窺い、伊勢氏綱という男に会ってみるのも一興かと存じます」
「それは氏綱から言われた口上か?」
「いえ。これは、梓の勝手な見解です」
きっぱり言うと、資高は意外そうに眉を上げた。
「氏綱嫌いだ苦手だと言ってた割には、随分と変わったな。お前を小田原に長く置きすぎたか」
「いえ。苦手に変わりはありません。此度のことも何を考えているか梓には計り知れません」
正直にきっぱり言うと、資高は何処か安心したようにふっと笑った。
「それでもそなたは主に敵地に赴けと言うか」
資高の警戒はもっともだ。けれど、浅葱も簡単に引けなかった。これは氏綱から下された命じゃない。何より浅葱自身の願いが籠もっている。
「――氏綱はこうも申しておりました。伊勢家は太田家との誼を願っている。太田殿の立場は氏綱より窮屈だ。簡単には決められぬだろうが、会えば分かり合える気がしている」
浅葱の必死の訴えを、資高は無言で聞き入っていた。目に感情はない。届いているのか、わからなかった。
「⋯⋯そうか」
間をおいてから、資高は静かに言った。
「まだ時はある。ゆっくり考える故、そなたは休め。すぐに返事を持ってこいなどと言われてるわけではなかろう」
「はい」
資高は書を手にしたまま奥に引っ込んでしまった。
一人残された室内に風鈴の音がまた響き、浅葱の耳朶を震わせた。
夜、自室にて資高は改めて氏綱からの書を開いた。全くふざけた書状だった。
――太田殿よりお預かりしているものについて、お話したい。ついては、小田原城の鬼門に位置する神社で対面願いたい。
梓のことを指しているのは明白で、その他内応のことなど一切触れてない。
(何を話すと言うのだ)
行かなければいい。行く意味は無い。そもそも梓は今、ここに帰ってきている。
資高が決断しなければ、この「糸」はそのまま切れる。
何事も無かったかのように、梓は今まで通り、江戸城にて資高の近辺に侍し、資高は朝興に仕えるだけだ。
(その未来が見えぬから、梓を小田原に行かせたのではないのか)
幾ら書状を見つめていても答えが出るはずもない。
「資高」
どたどたと忙しない足音が響いて、資高は慌てて氏綱からの文を経箱の一番下に隠す。
資高が朝興を待つ姿勢を整えたところで、朝興はちょうど部屋に入ってきた。
「某の方からお伺いいたしますのに、お越し頂き申し訳ござりませぬ」
「同じ城内じゃ。それほど畏まることもあるまい」
江戸城には現在、曲輪が三つあり、それぞれに作られた建物が回廊で繋がっている。中央の曲輪に朝興が、一番海側の曲輪に資高は居住している。
「しばらくまた河越の方に行ってようと思ってな。留守をそちに頼みたい」
「留守は構いませぬが⋯⋯あちらで何かございましたか」
「いや。何かと言うわけではないのだ」
朝興は言葉を濁す。そういえば、河越に朝興の愛妾がいて、近頃娘が生まれたらしい。会って、しばらく傍にいたいのだろう。
「⋯⋯かしこまりました」
発した声の冷ややかさに自分でも驚く程だったが、朝興は特に気にした様子もない。
「そちがいるから、わしは安心して江戸を離れられる」
上機嫌で百程の兵を引き連れ、河越城に向かっていった。
朝興を見送り、資高は自室に戻り、床に身体を投げ出した。
天井の欄間に彫られた桔梗の紋が目に入る。
太田家は始祖以来ずっと扇谷上杉家と共にあった。
伯父の道灌は扇谷上杉家を支え、そして最後には、その主家に殺された。
父は一時、山内上杉に従属し、その後再び扇谷上杉に従っている。
戻った理由の詳細は知らぬが、連綿と続く太田家の血が、資高の思考も行動も縛っているように思えた。
資高が心を決められぬまま、日は過ぎてゆく。
嵐の前兆のような強い風が吹きつけている。窓に吊るした風鈴が騒がしい。
一旦外そうと資高は軒先に手をのべた。空には黒い雲がかかり、今にも雨が落ちて来そうだ。
江戸城中の板戸を閉め切らせ、嵐に備える。風の通り道がなくなり、停滞した不快な空気が江戸城内に満ちた。
晩夏の嵐は秋を連れてくる。氏綱に言われた対面の日が迫っていた。
「梓、梓はいるか」
薄暗い城内で親しんだ名を呼ぶと、梓はすぐに資高の前に現れた。
「ひとつ聞きたい」
「はっ」
「氏綱が指定してきた日時、何故この日なんだ」
「祭礼があると申してました」
「祭礼⋯⋯」
人が集まる。街が賑わう。そのどさくさに、自分を招き、何をしたいのか。何を見せたいのか――。
「決断力のない男だと呆れてるか」
いつまでも答えを出さぬ自分を梓はどう見ているのか。自嘲しながら資高は言う。
「いいえ」
梓は即座に否定した。資高は梓を見つめた。
「氏綱はこうも言ってました。芽を摘まぬように、糸を切らぬようにしているだけだ。手探りなのはみな同じじゃ、と」
(手探りなのはみな同じ。戦乱の世で何が正しいかわからないから、糸を切らない)
それは判断の甘さではなく、可能性を潰さぬための戦略。
「だからお前を生きて返してきたのか⋯⋯」
何年も前の氏綱の行動の理由がやっと理解できた。
「はい。なので此度も殿自ら、糸を切らぬようお願いしたいのです」
わけがわからぬ男と言いながら、確信を持った目で言う梓が面白い。
遠く雷が鳴った。嵐はもう来ている。
「糸を切るな、か⋯⋯逃げてばかりもおれぬな」
「はい」
梓の目は資高に注がれたままだ。昔と変わらぬ資高を信じ切った目。
何が変わるかわからない。だが、会わなければ何も変わらない。
「――氏綱に会ってみるか」
二カ月ぶりの小田原は浅葱の目には少し変わったように映った。
(道が整備されてる⋯⋯)
身分を忍んでの道行となる。資高の装いも、直垂には家紋もなく、生地も木綿で質素なものだ。
「明るい街だな」
資高が呟く。資高につられるように、浅葱も改めて小田原の街の景観を眺めた。
相模湾に並行するように整えられた街道。箱根山地の山裾に広がる足柄平野。頭上に広がる空は、広く明るい。
「⋯⋯」
明日の準備なのか侍たちが多く沿道にいて、浅葱はついきょろきょろしてしまう。
「どうした」
「いえ、あの、その辺に氏綱いそうな気がして。会いたくないなと」
「いるわけないだろう」
杞憂だと資高は笑う。
東海道を少し逸れた寺院に泊まるよう氏綱から指示があったので、そこに宿を取る。飾り気のない質素な宿坊だった。
「落ち着かんな」
案内された部屋の真ん中に座り込み、資高は居心地悪そうだ。
「仕掛けとか、伏兵とかいないと思います。が、寺見回ってみますか」
「度量の小さい男に思われるからやめろ。ここまで来たら、信じるしかないだろ」
苦笑いで制されて、浅葱は浮かしかけた腰を落とした。
部屋の戸は明け放たれ、小さな庭が見える。
白い玉砂利が敷き詰められ、石の手水鉢に鹿威しが時を奏でるように水を落とす。庭の石灯籠に火が灯された頃、ヨネが現れた。
ヨネが資高の前に侍る際、一瞬だけ、ヨネとは浅葱を見たような気がした。
「ご無事の到着祝着にございます」
ヨネは相変わらず淡々と感情を籠めない声で言い、明日の対面の時刻を伝える。
「御苦労」
資高の言葉を合図に、ヨネは即立ち去る。浅葱は反射的にヨネの背中を追いかけていた。
「ヨネさん」
寺の境内の石畳の上で、ヨネは立ち止まり浅葱を振り返る。
「ヨネでいい」
無表情でそう言われ、風魔での日々を思い出す。話す言葉も決めぬまま、反射的にヨネを追っていた。
「あの夜。あんな形で出て行って⋯⋯」
悔いはない。けれど、ヨネへの申し訳なさは常に心の隅にあった。水に沈んだ石のように、自然には流れて行ってはくれない。
「――悪かった」
謝罪を口にした浅葱を、ヨネはしばらく梓を見ていた。
「お前の忠義はそれなんだな」
独り言のように言うと、浅葱の反応を待たずに、ヨネは今度こそ行ってしまった。
「忠義⋯⋯?」
浅葱は一人、ヨネの言葉を反芻してみる。
許されたとは思えなかった。けれど、胸の淀みに沈んでいた石は、言の葉に押し流されたように消えていた。
いつの間にか日は落ちて、海の上には弓張月が浮かんでいた。
何がどうなれば、資高にとっていいことなのか浅葱にはわからない。けれど、だからこそ願いたい。資高の進むべき道が、少しでも平らかであるように。
(手探りなのは、みな同じ)
本堂の釈迦如来に祈りを捧げ、浅葱は資高の元に戻った。




