1話 祝言
冬の朝は麓まで凛と伸びていた山の稜線が、春霞にぼやけ始めていた。
(春の空だ)
小田原に来て何度目の春だろう。
薄水色の空にとけていきそうな富士の姿に伊勢氏綱は目を細めた。
「若殿、早いですな」
声を掛けてきたのは、遠山直景だった。まだ若い氏綱の補佐役として、小田原城に父の宗瑞が配置した男だ。
「わしはいつもと変わらぬ。早いのはそちであろう」
「これは失礼致しました。今日は若殿にとって大事な日です故」
直景が大事に力を込めると、氏綱は「やめろ」と畏まった態度を制す。
「大袈裟に致すな」
今日は伊勢家の跡取り氏綱と今川家の縁戚横井相模守の娘こと姫との婚姻の日であった。
とは言え、一年も前から決まっていたこと。出来るだけ平常心で迎えたい。
「今川家の姫はつつがなく来られそうか」
「はっ。道中問題なく、今夕、小田原城に到着予定と聞いております」
「ならば良かった」
懐手に氏綱は西の方角を見やった。雲も掛かっていない、天気の心配なども無さそうだ。
「そちも忙しいであろうが、抜かりないよう頼む」
「はっ」
直景はかしこまって返事をすると、氏綱の元を去る。
祝言の仕切りを一任しているが、卒なくやってくれるだろう。
日はまだ昇り始めたばかりで、城下はうっすらと明るくなり始めている。
(長い一日になりそうだ)
一つ大きく息を吐き出すと、氏綱は富士に背を向け、居室に戻った。
昼を過ぎると、俄然城内が騒然とし始める。
厨は祝言の際の膳の準備に大わらわだし、今川の使者を迎える部屋を整えるのも忙しい。
考えてみれば、伊勢家が小田原城に入って以来の大きな行事だった。
当事者の氏綱は湯浴みを済ませ、あとは着替えくらいしかやることがなくなっていた。ぶらぶらと城内を見回っていると、弟の氏時と菊寿丸が櫓の上から氏綱を手招きしていた。
「何をしている」
下から氏綱が尋ねると、氏時はにやっと笑って言う。
「ここから今川家の行列を拝見しようと思いまして」
氏時達が立つ櫓は、大手門から一番近い。確かにそこからなら、行列が城に入っていく様子が一望に出来る。
「仕方のない奴らだな」
苦笑いしながら、氏綱も櫓へ上がってみて驚いた。
まだ到着は先だと思っていた行列が、既に街道に入っていた。長く厳かな列がゆるゆると、氏綱が見慣れた道を進む。
先頭に今川家の家紋、赤鳥紋の旗がたなびいている。真ん中の白木の輿が恐らく花嫁の乗る輿であろう。その後ろに続く調度類の数も多く、長い列なのに、その運びは一糸乱れることがない。
「流石に今川の行列は華やかですねえ」
氏時は呑気に呟くが、氏綱は焦る。花嫁を迎える支度が整っていない。
「今川の使者に見つからぬようにせよ」
とだけ弟たちに言い置くと、自分は城内に戻る。
婚礼用の白装束を身に纏い、侍烏帽子の紐を顎下でぎゅっと結ぶ。
氏綱の身支度が整ったところに、父の宗瑞が現れた。
「悪くない花婿ぶりじゃ」
と父親らしい発言をした後で、宗瑞は氏綱の耳元に囁く。
「花嫁の姫は、当主氏親殿の養女として我家に輿入れされる。それだけ今川家にとって、我が伊勢家は重要な立場ということ。よいか、家格は向こうが上じゃが、けして下手に出ることはないぞ。女子は最初が肝心じゃ」
逢ってもいない姫の御し方を指南されても、正直困る。
「どのような姫であれ、大切に致す所存ですので、父上にはご心配なきよう」
「そちは本当に面白みが無いのう」
当たり障りのない返事が、宗瑞には気に入らなかったらしい。ぶつぶつ言いながら宴席に向かっていった。
空の色が茜に染まった頃、今川家の一行が城の大手門に到着した。厳かに降ろされた輿から、姫が現れる。
白無垢に身を包み、俯きがちにゆっくりと板の間を進み、氏綱の隣に座る。一連の所作が、優雅で流れるようだった。
氏綱が二十五歳。花嫁のこと姫が二十歳。当時としては双方、遅めの婚姻であった。
三三九度の杯を交わす唇が紅く艶めかしいが、うつむき加減のせいで表情は殆ど見えない。
儀式は滞りなく終わり、顔も見ず言葉も交わさぬまま、氏綱と今川家のこと姫は夫婦となった。
祝言が終わると、顔合わせの宴席が始まる。
食事は進んでいるか、宴席で退屈はしていないか、と氏綱の方はちらちら姫の方を観察していたが、姫の方は特に氏綱を気にしている素振りはなかった。
宴もたけなわとなった頃、直景が酒を持ったまま、氏綱の元に来る。杯を注ぎながら氏綱に低い声で囁く。
「斥候を一人捕らえてございます」
何故こんな日に。いや、こんな日だからか。
酔いが一気に醒める。
舌打ちの一つもしたかったが、極力平静さを保ちながら、直景の満たした盃を飲み干した。
氏綱が横を向くと、初めてこと姫と目が合った。
白磁のような肌に黒い瞳が、不安そうに揺れていた。何か起きたことを、とっくに察知しているのだろう。
「あの」
問いかけようと開きかけた彼女の唇を、氏綱は咄嗟に自身の直垂の袖で、そっと遮るようにして閉ざした。
突然の柔らかな拒絶に、こと姫の黒い瞳が小さく見開かれる。すぐに氏綱は袖を引き、小さく頭を下げ、無礼を詫びる。
心配ないと告げる代わりに、笑みを浮かべた。
「我らは退席と致しましょう」
元々、祝宴の後の花婿花嫁の行く先など、皆知っている。おざなりの挨拶をすると、氏綱はこと姫を伴い、宴席を後にする。
一歩、場を離れると、宴の喧騒は遠くに響き、春の夜の冷気が氏綱とこと姫を包んだ。
寝所までこと姫を案内すると、氏綱は床に平伏して、彼女に告げる。
「城内で厄介なことが起きた。一人にして申し訳ないが、先にお休み頂きたい」
床に視線を落としたまま、彼女の反応を待った。
しばし沈黙が流れ、氏綱は詳細を説明するべきか悩む。続く言葉を発しようとした刹那。
「承知しました」
感情のない声が降ってきて、氏綱はつと顔を上げる。今度はこと姫の方が板目に指をつき、俯いていたため、彼女の表情は見えなかった。
「忝ない」
直景の元に戻りながら、こと姫のことを考える。氏綱の行為は本来あり得ないことなので、怒るか傷つくか、どちらかだと予想していた。
だが、淡々と彼女は氏綱の行為を許容した。
(勘は、良さそうよな)
異変を察していながら、深く追及してこなかったのは、知性なのか性格なのか。
まだ妻の人となりは、氏綱には掴めない。
宗瑞の徹底した倹約主義のせいで、小田原城は夜の灯りが乏しい。それは祝宴の日でも変わらない。
次第に暗くなっていく道を、氏綱は進んでいった。




