涙の帽子
古道具屋の隅に、妙に古びた中折れ帽があった。
形は悪くないが、縁の裏に小さなシミがいくつもあり、値札も色あせている。
店主に聞くと「戦前のものらしいですよ」と、曖昧に笑った。
半分冗談のつもりでそれを買い、部屋のフックに掛けておいた。
翌朝、外出前にふとその帽子をかぶった。
頭に触れた瞬間、目の奥がつんと痛んだ。
ホコリが入ったかと思い、慌てて外したが、痛みは消えず、なぜか涙が止まらなかった。
その日は仕方なく別の帽子を選び、外出した。
数日後、また同じ帽子を手に取る。
指先が冷たい。まるで夜露を吸った草のような湿り気がある。
かぶると、また涙。
しかも、今度は涙の奥に奇妙な情景が浮かんだ。
知らない町並み。
木造の家々、電線のない空、黒い喪服の人々。
風が吹くと、白い布がたなびく。
その中に、自分によく似た男が立っている。
こちらを見ているようで、しかし視線はどこか遠くを見ていた。
気づけば、玄関の鏡の前に立っていた。
帽子をかぶった自分の姿を確認したかったのだろう。
けれど鏡の中で、男は帽子を脱がなかった。
自分は確かに手を動かしたのに、映像の中の自分は動かない。
顔は陰に沈み、涙の筋だけが光っていた。
その日から、家に帰るたびに家具の配置が少しずつ違っている。
窓の向こうの景色も、見覚えがあるようで、どこかが違う。
それでも「まあ、疲れてるんだろう」と思い込もうとした。
昨日、会社の帰り道、道標に書かれた地名を見て立ち止まった。
そんな町、地図にあっただろうか。
胸がざわつく。
それでも足は勝手に進み、気づけば夜の路地の先に、古道具屋が見えた。
ショーウィンドウの中、同じ帽子がいくつも並んでいた。
全部、濡れていた。
──いま自分がどこに住んでいるのか、もう思い出せない。




