第57話:父の算盤(ヒューマンドラマ)
父の形見の算盤には、七十一年の刻みが残っている。
陽が射し込む床の間に置かれた古い算盤。黒塗りの枠には無数の傷。珠は手垢で艶を帯び、年輪のように深い色合いを湛えている。
「お前、これを売ってはいけないよ」
父は最期にそう言って、この算盤を私に託した。
「ホームレスから億万長者になったなんて、誰もまだ知らんのだからな」
四十年前、父は渋谷駅の地下道で寝泊まりしていた。昼は立ち食いそばの皿洗い、夜は段ボールの上で算盤をはじいていた。雨の日も、風の日も、珠をはじく音は絶えることがなかった。
「通行人は皆、狂人だと思っとったよ。でもな、この算盤は私の師匠だった」
父は株の動きを全て算盤に打ち込んでいた。値動きのパターン、出来高の変化、需給の関係。数字の海の中から、規則性を見出そうとしていたのだ。
「人間はな、基礎なしには生きられん。この算盤が、私の礎になった」
一年後、父は小さな証券会社に就職。そこから這い上がっていった。二年目で店長、五年目で支店長、十年目で取締役。そして二十年目、一代で大手証券会社を築き上げた。
だが、父は決して派手な暮らしはしなかった。毎日深夜まで算盤をはじき、市況を読み解いていた。重役会議でも、机の上には必ずこの算盤があった。
「デジタルの時代になっても、私は算盤を離さなかった。これがあるから、地に足がついていられる」
父の会社は、リーマンショックも乗り越えた。多くの証券会社が破綻する中、父の会社だけが一人勝ちと言われた。
「算盤は正直者でな。嘘をつかん。パソコンは数字を操作できるが、算盤は打ち手の心をそのまま映す」
今、父の会社は新しい社長の下、全てをデジタル化した。高速取引、AI予測、ビッグデータ解析。社員の机から算盤が消えて久しい。
「礎を忘れた者に、明日は見えん」
父の声が、算盤の珠の隙間から聞こえてくるような気がした。私は算盤を手に取り、おもむろに一珠をはじいてみる。
カチリ。
懐かしい音が部屋に響く。
その時、スマートフォンが震えた。速報が届いている。
『金融市場大暴落。主要証券会社、軒並み損失拡大』
「父さん、もう一度教えてください」
私は算盤に向かい合った。基礎に立ち返る時が来たのだ。
カチリ、カチリ。
夜が明けるまで、古い算盤の音は鳴り続けた。
このお話から「ビックデータ解析」と「ホームレス」を取り出して次につなげます。




