第51話:月下の帰還(ファンタジー)
時計の針が深夜零時を指そうとしていた。飛行機の遅延で予定より三時間も遅れて帰宅した涼子は、玄関の鍵を開けながら溜め息をついた。スーツケースを引きずるように持ち上げ、暗い廊下を進む。
「ただいま」
返事を期待していないその声は、静寂に吸い込まれていった。一人暮らしの部屋に響く独り言。三週間の海外出張から戻ってきた我が家は、どこか懐かしいようで、どこか他人の部屋のようでもあった。
涼子は荷物を置いたまま、まっすぐ寝室へと向かった。そこにある祖母の形見の鏡を確認したくて仕方がなかったのだ。
月明かりだけが射し込む寝室で、涼子は息を呑んだ。ドレッサーの上に鎮座する翡翠色の鏡が、まるで生き物のように月光を浴びて淡く輝いていた。
「よかった……無事だった」
安堵の表情を浮かべながら、涼子は鏡に近づいた。祖母が亡くなる前日、「これだけは大切にしなさい」と言って手渡されたものだ。翡翠を散りばめた古めかしい化粧鏡。骨董品としての価値はさておき、涼子にとってはかけがえのない宝物だった。
鏡に映る自分の顔を見つめていると、ふと違和感を覚えた。いつもと何かが違う。
「あれ?」
涼子は目を凝らした。確かに映っているのは自分の顔なのに、どこか表情が違う。微笑んでいるように見える。しかし、涼子は微笑んでいない。
その時、鏡の中の「涼子」が口を開いた。
「お帰りなさい、私」
涼子は凍りついた。鏡の中の自分が、涼子とは別の意思を持って動いている。
「驚かないで。私はあなた。でも、別のあなた」
鏡の中の涼子は優しく微笑んだ。
「実はね、この鏡には不思議な力があるの。月が満ちる度に、別の世界の自分と出会えるの」
涼子は震える声で尋ねた。
「別の世界って……?」
「そう。私の世界では、祖母はまだ生きているわ。そして、あなたが諦めたあの道を選んでいる」
涼子の胸が締め付けられた。かつて夢見ていたピアニストへの道。家族の反対で諦め、今は商社で働いている。
「でも、祖母は……」
「そうよ。祖母は二つの世界をつなぐ鍵を私たちに託したの。毎月一度、満月の夜に」
鏡の中の涼子は、ピアノを弾く仕草をした。その指の動きは、プロフェッショナルのそれだった。
「あのね、祖母が言っていたの。人生に正解は一つじゃないって。だから、私たちはそれぞれの道を歩んでいる。でも、時々会って、お互いの人生を分かち合えばいい」
涼子は、目頭が熱くなるのを感じた。祖母の最期の言葉の意味が、今になって理解できた。
「次の満月には、演奏会の様子を聴かせてあげる」
鏡の中の涼子はそう言って、静かに消えていった。部屋には月明かりだけが残される。
涼子は鏡に近づき、そっと手を触れた。冷たい感触。けれど、どこか温かいものが心に広がっていく。明日からまた日常が始まる。でも、もう孤独じゃない。どこかで、別の自分が別の夢を生きている。それを知っているだけで、十分だった。
このお話から「私以外の私」を取り出して次につなげます。




