第32話:満月の夜の約束(百合)
満月が昇る夜だった。冬の澄んだ空気が、白い息となって月に向かって昇っていく。
薫子は、修道院の古びた木造の窓辺に立っていた。二十三歳。見習い修道女として、この小さな修道院で祈りの日々を送っている。本来なら、もう床に就いている時間だ。
「シスター……」
背後から、そっと声がかかった。振り返ると、修道女としてこの場所で十年を過ごした、師であり親代わりでもある聖良の姿があった。四十歳を過ぎた彼女の瞳には、月明かりが深く沈んでいた。
「外は寒いわ。おいで」
聖良は薫子の肩に毛布をかけた。その指が、ほんの少しだけ薫子の首筋に触れる。
二人は、この修道院で出会った。薫子が孤児として引き取られた時、聖良は既に修道女としての道を歩み始めていた。姉のように、母のように、時には厳しく、時には優しく薫子を導いてきた。
いつからだろう。その関係が、微妙に歪み始めたのは。
「シスター。私、おかしいのでしょうか」
「何が?」
「こんな気持ち……神様は、許してくださるのでしょうか」
聖良は長い間、黙っていた。月の光が、二人の影を床に長く伸ばしている。
「私たちは、神の愛を説くの。でも、人の愛を否定してはいけないわ」
聖良の声は、いつもより低く、震えているように聞こえた。
「でも、これは……」
「知っているわ。私にも分かる」
聖良は窓の外を見つめた。その横顔が、まるで聖母マリアの彫像のように美しい。
「私たちには、二つの愛がある。神への愛と……」
言葉が途切れる。
「明日、私は別の修道院に移ることになったわ」
薫子の心臓が、激しく跳ねた。
「どうして!」
「これが、私たちにできる最後の愛の形よ」
聖良は、薫子の頬に優しく手を添えた。その手が冷たいのか、熱いのか、もう分からない。
「愛は、時として離れることでしか証明できないの」
月の光が、二人の間に銀色の線を引いているような錯覚。その線は、これから二人を永遠に隔てる距離の始まりなのかもしれない。
「私は、あなたのことを……」
「言わないで」
聖良は静かに薫子の唇に人差し指を当てた。
「祈りの言葉以外は、もう必要ないわ」
その夜、礼拝堂では二つの祈りが交差した。神への愛を誓う言葉と、決して口にできない想いが、ステンドグラスに映る月の光の中で溶け合っていく。
翌朝、聖良は何も言わずに修道院を去った。残されたのは、十字架と、一輪の白百合。そして、決して語られることのなかった愛の重み。
薫子は、その後も窓辺に立ち続けた。満月の夜には必ず。月の光は、二つの場所を同時に照らすことができる。それが、せめてもの慰めだった。
このお話から「聖母マリアと白百合」を取り出して次につなげます。




