欲望のままに
ガシャンと、耳をつんざくほどの騒音が響く。床には茶杯や茶器などの破片が落ちていた。
「縁談を断っただと!? 阿藤は、何を考えている!」
野太い声が部屋中を走る。声の主はこの男だ。
どうやら家具を落としたのは、この人物のよう。怒りに身を任せながら机をたたき、書などを手で払い落としていた。
しばらくすると八つ当たりが終わり、口を歪める。
「阿藤が断った原因を探れ! 何としてでも、爛 梓豪と結婚させるのだ!」
部屋の壁に声をかけた。すると壁は揺らぎ、すーと、影をなくしていく。
男は歯軋りをたてながら、瞳を必要以上に悪意に染めた。椅子に座り、拳を握る。
「俺は、鬼園の地位を手に入れる! 城主の座は、俺のものだ!」
狂ったように地位という単語を呟き続けた。
やがて声は高笑いへと変わっていった。
□ □ □ ■ ■ ■
全 紫釉は、爛 梓豪に横抱きにされながら牀へと腰かける。そのまま寝かせられ、用意された別の華服を体に被せられた。
「……爛清」
少しだけ血色の戻った自分の唇に触れる。数分前まで、愛しい彼と重ね合わせていた唇だ。それを思い出しただけで顔が火照り、恥ずかしさと嬉しさで心が踊りそうになる。
──ば、爛清が私をす、好きって。私のことを好きって言ってくれた。ずっと片思いで、実ることなんてないと思っていたのに……
これほど嬉しいことがあるのだろうか。
布団代わりにしている華服で顔を隠し、ふふっと微笑んだ。
「阿釉、とりあえずお前は休め。体調悪いままじゃ、どうにもならないだろ?」
彼の優しくて、気遣う声音が耳に届く。そっと顔を出してみれば、爛 梓豪からは、額に暖かな口づけが落とされた。
「……んっ。は、い……」
惚れた弱味というものなのだろうか。全 紫釉はいつもより幾分か素直になった。そして彼の願い通り、すっと両目を閉じる。
──ああ、爛清が、私を好いてくれる。私が欲しいと思った言葉も、く、唇も、してくれる。それだけで幸せだ。でも私は、爛清に気持ちを伝えていない。……まあ、いいか。明日目を覚ましたら、そのときに伝えよう。
ふふっと、浮かれた笑みを華服で隠す。そしてすーすーと、規則正しい寝息をたてた──
そのとき、扉の前で複数人の足音が止まる。コンコンと扉を叩く音がし、全 紫釉は眠ることができなかった。
目を擦りなが「ふみゅう?」と呟く。
「……ったく。誰だよ? 今から阿釉が寝る……って、ひょ……!?」
彼がめんどくさそうに扉を揚げた瞬間、ひとりの女性が中へと入ってきた。その女性は鬼園の現城主で、爛 梓豪の母だ。
彼女は部屋の主でもある爛 梓豪に断る素振りすら見せず、我が物顔で中へと入ってくる。そしてふたりの前でとまり、はあーと盛大なため息をついた。
「あんた、また何かやらかしたんですって?」
「ひょっ……! ちょっ……違うって! 今回ばかりは、俺が率先してやったわけじゃ……」
女性に睨まれた彼は体を震わせる。蛇に睨まれた蛙状態な彼は、横になっている全 紫釉に助けを求めた。
全 紫釉は上半身を起こす。産まれたばかりの小鹿のように震える彼の頭を撫で、嘆息した。
視線を彼から女性へと移し、軽く頭を下げる。
「……申し遅れましたわね。私は、この鬼園の現城主、鬼 伊橋と申します」
名乗りをあげると同時に、全 紫釉の前で跪いた。そばでほうけている爛 梓豪の頭を無理やり下げさせ、丁寧に拱手させる。
「……お、お袋? 何やって……」
「お黙り! この馬鹿息子。あんたは、全 紫釉様の命を危険にさらしたのよ!? 死罪になってもおかしくないことをしたの。わかる!?」
「え? どういうことだ?」
鬼 伊橋を見てから、両目を見開きながら全 紫釉に視線を預けていた。
全 紫釉は首を左右にふる。頭を上げてくださいと、彼女に伝えた。
「今回の件は、爛清は何も悪くありません。彼を責めないでください。私が独断でやったことなのですから」
牀から降りる。けれど体が上手く動かなかった。ガクッと膝から崩れ落ちていく。瞬間、爛 梓豪に支えられた。
彼の力を借りて牀の上へと座る。
「……私が、軽率な行動をとったからこうなったんです。自業自得です。それを爛清のせいと紐づけるのは、無理があります」
「寛大なお言葉、ありがとうございます。全 紫釉様のお心遣い、痛みいります」
女性はすっと腰を上げた。拱手したまま頭を下げ、ふうーと深呼吸をしている。
「ならば今回の件、馬鹿息子は不問といたしましょう。けれど……」
鋭い視線が全 紫釉を指した。
その理由を知っている全 紫釉は肩をすくませる。
「ご自身の立場、並びに、地位をお考えなってから行動するとよろしいでしょう。今回のことでお父君がお怒りになられたら、この町はあっという間に沈んでしまいます」
「……気をつけます」
女性からの忠告を耳に入れながら、視線を泳がせた。爛 梓豪と目が合うと、ふたりはヘラっと微笑む。
そんなふたりにありきれるように、女性は盛大なため息をついた。
「……ともかく阿清、あなたは、この方に対する態度には気をつけること。それだけは守りなさい。それから……」
爛 梓豪をひと睨みする。
睨まれた彼は「ひょっ!」と怯え、全 紫釉の後ろに隠れた。
「あんた、阿藤との縁談をなかったことにする気でいるみたいだけど……本当にいいのね?」
鬼の形相とばかりに眉をよせる。
彼は半べそになりながら、素早く何度も頷いた。
「……そう。自分でそう決めたのなら、私は何も言わないわ。元々、私もあまり乗り気ではなかったし」
とうやら橋 鈴藤とのお見合い自体、彼女が心から望んでいたものではなかったよう。
情けなく全 紫釉の後ろで身を縮める彼を見て、「お見合いは早かったようね」と、こめかみを押さえていた。そして爛 梓豪の首根っこを掴み、強引なまでに牀の上から引きずり落とす。
「いいこと? これだけは覚えておきなさい。私は、自分の息子を、政治の道具として使うつもりは一切ないわ」
「…………?」
彼女の言葉に疑問を持って首を傾げたのは、全 紫釉だった。爛 梓豪に肩を借りながら起きて、彼女を凝視する。
「あの……なぜそこで、政治の話が出てくるのでしょう?」
こてんっと、首を傾げた。半乾きだけれど、長くてきれいな銀髪が揺れる。男にしては大きな瞳を瞬きさせ、鬼 伊橋をじっと見つめた。
すると彼女は、ふっと瞳を和らげる。はぁー深いため息をつき、背筋を伸ばした。
「そのままの意味です。我が子を、そう言った意味でしか見ていない親もいるということです。……ただ、勘違いだけはしないでくださいませ。少なくとも私は阿清を。あなた様のお父君は、そんな理由で我が子を差し出すつもりは一切ないのですから」
鬼 伊橋はそこまで言うと、拱手をして出て行ってしまう。
残されたふたりは互いの顔を見合せた。
「……なあ阿釉、今の話を聞くと、もしかして阿藤は……」
「ええ。多分ですが、親に利用されてしまっているのでしょう。今回のお見合いも、乗り気ではなかったと聞きますし」
床に腰を降ろす。
爛 梓豪が持ってきてくれた机を隔てた向かい側にいる彼を、真剣な面持ちで見つめた。
「……ただ、そうまでしてあなたと親戚になりたかったとなると……違う形で、何かしらを仕掛けてくる可能性はありますね」
簡単に諦めるような性格ならば、わざわざ娘を差し出さないのだろう。そこを見越して、ふたりはこれからについての作戦をたてた。




