櫛の意味
時空が過去のものとなっていた食堂は全 紫釉が外へ出た瞬間、蛍火となって消えていった。
それを見つめ、粒子を目で追う。
「…………ここは、あなたの術で作り出した食堂だったんですね?」
隣を見れば、黒い帽子に服を着た子供が立っていた。子供の正体は、黒無相という妖怪だ。
その子供は何度も頷いている。
「でも、なぜ? 妖怪のあなたがそこまでして、なぜ、あの子供たちの力になろうと?」
妖怪というものは人間には容赦ない。ときには騙し、最悪殺してしまう。それを平気で行う者が多かった。
白無相や黒無相もその類い。わざわざ、人間の子供を助けようなどという気持ちは持ち合わせていない……はず、だった。
そう、全 紫釉は、この瞬間までそう思っていた。けれど蓋を開けてみれば、黒無相は人間の子供を想う気持ちがある。
──もしかして私は、彼らに偏見を持っていたのだろうか?
もしそうなら申し訳ないなと、心の中で反省した。
「気まぐれ……なのかな?」
考えなしに口にしてしまう。ハッとして、慌てて自身の口を塞いだ。
黒無相を横目に見れば、子供は首を大きく左右にふっている。
「ぼ、ぼくは、姫様を知っているから。だから、あの子たちを助けた、の……」
「え?」
黒無相は口を閉ざした。
残念ながらそれ以上を聞くことができず、全 紫釉は苦笑いだけにとどめる。
□ □ □ ■ ■ ■
一旦、黒無相と別れた彼は、母屋が並ぶ街外れへと向かった。
「…………」
端麗な顔立ちを隠すように、黒い衣を深く被る。言葉を発することなく、ただ、ある母屋を注視していた。
ふと、その母屋の扉が開かれる。そこから現れたのは十歳ぐらいの男の子だ。
男の子は桶を一生懸命両手で持っている。
「……あれ? あんた、あの兄ちゃんのこいびとさん?」
「何を勘違いしているのかは知りませんが、私は爛清の恋人ではありませんよ?」
──恋人、か。そうなれたら、どれだけいいか。……いいや。今、それを考えるのはやめよう。ここへは、私にしかできないことをしに来たのだから。
表情を崩すことなく、子供の姿を目で追った。
「あなたは確か……風乱、でしたよね?」
「うん。そうだよ」
桶の中には汚れた布がたくさん入っている。それをそばにある井戸まで持っていき、水を汲んでは洗っていた。
「……他のふたりはどうしました?」
「王師と、鈴村のこと? あいつらなら、家の中で寝てるよ」
洗い終わったのだろう。桶を持ちながら、立ち上がった。けれど重たいようで、よろけてしまう。
全 紫釉は慌てて子供を支えた。
「……持ちましょうか?」
太陽の光が彼の銀髪を、薄黄色に染める。とても美しく、その顔立ちも相まって、儚さを生んでいた。
子供は一瞬だけドキッとして、顔を赤らめる。けれどすぐに首を横にふって、大丈夫だよと笑顔になった。
「……そう、ですか」
そうこうしていると、子供が家の扉を開ける。小さくて頼りない背中を見つめ、彼はあることを質問した。
「ひとつ、聞いていいですか?」
「ん? ねえちゃん、なに?」
全 紫釉のことを女性と思っているよう。無邪気な笑顔を見せ、家の中へと入っていった。
「……これから、どうするんですか?」
「うーん。俺は、はたらくつもりだよ」
風乱という子は年齢のわりにはしっかりとしているようで、人生設計のようなものをつらつらと話す。
それを聞き終えた彼は、そうですかと微笑む。
「将来の夢、ですか……」
「うん。俺は、母ちゃんみたに、子供たちに好かれる大人になりたい。そのためには、自分の力で生きていけるようにしなきゃって」
母に憧れ、その偉大さを知ったのだと教えてくれた。
けれど所詮は子供。力もなく、やれることは限られている。そんな子供が……子供たちだけで生きていけるほど、この國は甘くなかった。
──唯一の大人であった母親が亡くなったから、自然と長男のこの子がすべてをやらなくてはならない。それはわかっている。でも、本当にそれで生きていけるのだろうか?
全 紫釉はすでに大人だ。それなのに、子供に何もしてあげれない。そんな歯痒さが、彼の心をチクッと刺していく。
苦虫を噛み潰したような表情になり、黒い衣をより深く被った。
「……あはは。ねえちゃん、気にしなくてもいいよ。俺らは俺らで、ちゃんと生きていけるようにがんばるからさ」
「…………」
風乱は困ったように肩をすくめる。けれどすぐに、子供らしい無邪気な笑顔を浮かべた。
「大丈夫だって! 俺らはもう、歩いていけるんだ。母ちゃんががんばって俺らをそだててくれたように、俺じしんも、生きていくって決めたからさ」
子供の眼差しには、揺らぎなどありはしない。強く、貫くという意思だけが伺えた。
風乱の決意を無下にはできない。そう感じた瞬間だった。
全 紫釉は風乱に、王師と鈴村を呼んできてほしいと懇願する。
少しして、さんにんの子供たちが家の外に現れた。唯一の女の子の鈴村は眠たそうに目をこすっている。
「ねえちゃん、連れてきたけど……」
何をするのかと、子供たちから視線で訴えられた。
全 紫釉は被っていた黒い衣を外す。案の定、子供ちからは驚かれてしまった。
それでも端麗な顔を崩すことなく、長いまつ毛を震わせる。ふうーと軽く深呼吸し、子供たちと向き合った。
「あなたたちは、お母さんにお会いしたいと思いますか?」
「え!?」
突拍子もない質問に、子供たちは互いの顔を見合せる。すると一番下の鈴村が目を潤ませて「おかさんにあいたいよぉー」と、泣きだしてしまった。
風乱と王師は、妹の鈴村をあやそうと必死になる。
そんな子供たちを眺めていた彼は、無言でため息をついた。
「……やっぱり、会いたいですよね?」
透明な水のように儚い声が、さんにんの視線を集める。
「……あなたたちのお母さんが、常に大事にしていた物はありますか?」
「……だいじに? えっと……あっ!」
風乱たちは何かを思い出したようで、急いで家の中へと入って行った。数分もたたないうちに戻ってきた子供たちの手には、薔薇の花がついている簪が握られている。それを彼へと見せた。
「これは?」
腰を曲げて、子供たちと視線を同じ高さにする。
「母ちゃんが言ってた。これは、亡くなった父ちゃんが結婚してほしいって言って、母ちゃんにおくったものだって」
「結婚……ですか?」
恋人ならぬ、夫からの贈り物だったことに少し驚いた。
──贈るのなら、もっと高価な物でもよかったはず。なぜ、これを?
子供たちに聞いても無駄だとわかってはいた。けれど誰かに理由を聞かずにはいられないようで、全 紫釉はついつい口走ってしまう。
すると風乱が、彼の無知さに驚いてしまった。
「え!? ねえちゃん、知らねーの!? 好きないせいに、くしやかんざしをおくることって、結婚してください! っていみなんだぞ?」
子供でも知ってるのにと、さんにん揃ってあきれてしまう。
「……へー。櫛や簪を贈るということには、そんな意味があ……る……」
はたっと、動きを止めた。
微笑みが消え、次第に耳の先まで真っ赤に染まっていく。
──え? ええー!? ちょっ、ちょっと待ってください! わ、私は爛清に櫛を貰いました。そ、それってつまり……
その場にしゃがんでしまった。顔を両手で隠しながら、全身から湯気を出す勢いで混乱してしまう。
──う、嬉しい。あの人にそんなつもりはなかったとしても、そうだとしても……
子供たちの声など、もう耳に届かない。
爛 梓豪という青年を想う、好きという気持ち。そして、そんな彼から貰った物は事実上の恋人宣言だった。