魔法の始まり
強い風が建物を揺らしたのだろうか、それとも純粋に置いておく角度が悪かったのか、小林初は本棚から落ちてきた本の衝撃で目を覚ました。
「いっつぅー……」
しかも落ちてきた本は最近読んだ無機化学の本だ。分厚くて重い。初は血が出ていないか手でさすってみるが何も出ていないようだった。おそらく腫れているだけだろう。時計を見ると十五時二十三分。ざっと九時間は寝ていたらしい。
初はまだ寝たい気持ちを押し殺してベッドから転がる様に、というか実際に転がって抜け出した。そのままだったら二度目してしまう初のいつものルーティーンだった。朝食替わりのパンをトースターに入れて焼く。のせるものもいつもと同じ、ハムとチーズだ。同時にマキネッタでモカコーヒーを作る。
机の上にそれぞれ出来上がったものをのせる。片手間にさっき転がってきた本を開く。すぐにシュレディンガーの波動方程式が出てくる。適当に眺めているうちにトーストを食いきってしまった。一枚だと、毎回少し物足りない。
「ん?」
ポロンッという音と共にスマホにメッセージが来た。初にとってはそれ自体は珍しいことじゃなかった。よく分からない広告メールやいつ登録したか分からない会員用のメールなどは毎日送られてくる。初が驚いたのはちらとみた通知のメーラーがいつも使っていないものだったからだ。ここで使っているメールアドレスは大学のミツル教授しか知らないはずだ。
美麻大学の中村研究室教授、中村美鶴。背が高いのに不摂生のせいでガリガリになっていて、遠目で見たら妖怪にも見える。初が二年前まで所属していた研究室の教授だ。初は三年間そこで量子物理学の特に重力子について研究をしていた。
初はメールを開く。
小林 初 様
お久しぶりです。美麻大学の中村です。
この度は初さんとしておりました研究の内容が論文として掲載されることが決定いたしました。
つきましては、論文を添付いたします。かなりインパクトファクターが大きいというより、ノーベル賞も冗談抜きで狙える内容になっております。ハツさんはこの研究に多大に貢献していただきました。なので共同研究先の方々に話して少しだけ名前を上の方にしておきました。
つきましては完成した論文を添付いたします。タイトルから分かるとは思いますが、かなり頭のおかしい論文です。自分でも出来るとは思わなかった理論が完成させることができて、感無量です。
しかし、その内容からすでに国からいくつかの注意点なども頂いております。追って添付しますのでご確認ください。
きっと君のことだからこの理論を色々試してみると思います。その際、何か開発したのならわたしに教えてください。君が個人で論文を出せるように手伝います。
P.S.
くれぐれもヤバいところまで手を伸ばさないように。何かあるなら相談しなさい。
美麻大学理学部物理学科 教授
中村 美鶴
そのメールを見終わって、国から注意点が出るような研究をしていたっけと初は首を傾げた。ハツが研究していたのは素粒子のはずだ。秘密保持とかならまだわかるが、もう論文として発表している時点で問題はないだろう。
とりあえずと、添付された論文を開いた。
その論文のタイトルは「How to use Magic」、本当に嘘みたいな頭のおかしい論文だった。魔法の使い方? まったく心当たりのない論文に再び首を傾げる。しかもまったく聞いたことのないジャーナルだった。
内容はそんな単純なタイトルとは裏腹に複雑多岐なものであった。初の担当していた量子力学に加え、化学・物理学・生物学、そして天文学、それぞれの分野の非常に高いレベルの理論が組み合わさっている超大作であった。読めば読むほどこの論文の異質が浮き彫りになる。自分の見覚えのある部分以外は分からなかったのでページを捲っては調べ、捲っては調べを繰り返すことでなんとか解読を進めた。
すべてのページを読み終わる頃にはすでに夜の二十三時を過ぎていた。あまりにも読み過ぎていた。
内容は簡単に言うとこうだった。この魔法という現象は重力子が別のブレーンにある、別の素粒子(論部ではマギと呼称していた)をこのブレーンに持ってきたことで起こせるようになったらしい。この魔法という現象はその素粒子の特性を実験している際に副次的に確認されたものらしい。
使い方はこうだ。まずは頭の中にある幾何学的なパターン(論文では便宜的に魔方陣としていた)をイメージする。このイメージによって魔法の強さが異なるらしい。そして、特定の空気の振動(論文では詠唱としていた)を起こすことで再現可能な超常現象が起動するということだ。そして、その再現可能な超常現象を魔法と呼称すると。
——これは蒸気機関やAIに並ぶとんでもない開発だ。世界が大きく変わってしまう。
初はとりあえず、例として示されていた風を起こす魔法を検証してみることにした。ベッドから立ち上がって物がが少ないカーテンの方を向く。記載されている魔方陣を見ながらこれまた記載されている詠唱を唱えてみる。特に意味があるかは分からないけれど、アニメや漫画で見るように手も添えてみる。この魔方陣の中に指向性を意味する模様があり、正面に設定されているはずだから本当に意味はない。雰囲気だ。
一回目。
失敗。何も起こらなかった。非常に恥ずかしい。この格好つけて何も起こらない感じはなんだか中学二年生の頃を想起させた。しかも詠唱があまりにも長い。詠唱だけで五分はかかる。
二回目。
失敗。またも何も起こらない。
三回目。
カーテンが揺れた。論文にはそよ風が吹く程度ど書いてあったので間違いなく成功だった。
もう一度唱えてみる。またカーテンが揺れた。初は面白くなってまた使った。三回魔法を使ってみたが全て威力が違う。どうやら詠唱をどれだけ正確に踏襲できるかどうかで威力が変わっているらしい。発動するにも閾値があるのだろう。試しに魔方陣を見ず、記憶を頼りにイメージしてもう一度魔法を使ってみる。
魔法は発動したが、今回は風が初の方へきた。もう一度やってみる。次は発動しなかった。
——本当に魔法なんて想像のものが使えるなんて! 熱力学の第一法則はどうなっているんだろう。でも面白いな。
「あっ!」
あまりにも熱中していたのか、初が気づいた時にはもう時刻は二時半、バイトの時間が迫っていた。初は慌てていつもの雑な服に着替える。準備を終えた後、香水を一振りうなじにふる。財布と保険証が入った鞄を肩にかけて靴を履いて外へ出る。
「いってきます」
誰に言うでもなく呟いた。これも初のルーティーンの一つだった。
外は夜だというのに服が肌に張り付くほどムシムシとした暑さをしていた。鍵を閉めて初は自分の原チャに跨った。もうこの原チャも八年目で所々ボロが出ていた。前はウィンカーが接触不良で付かなくなったし、さらに前には信号で止まったとたん、いきなりエンジンが止まったこともあった。もうかなりぼろいバイクだ。ヘルメットも年季が入っていて中綿が飛び出ている部分もあった。それでもまだ使えるので使っている。クッションだけ売っていた気もしなくはないが、初は面倒くさくて調べていなかった。
アクセルを回して進み始めるとその暑さはマシになった。
——風が気持ちいい。魔法を使うことができればもっと涼しくできるんじゃないか? でも詠唱が長いし
魔方陣をずっと思い浮かべるのも面倒くさいしなー。どうにかしてもっと楽にできないかな。
「おはようございまーす」
初がそう言うとすぐに二三人から同じように挨拶が返ってくる。この建物の中には七人ぐらいいるというのに。初は気にせずタイムカードを切ってから自分が担当の新聞が重なっているところへ行く。
パパッと慣れた手つきで届ける建物別に分ける。大学院の修士課程を卒業してからすぐにここでバイトし始めたのでもう三ヶ月になる。最初は配達に二時間かかっていたがもう一時間半で届けることができるようになった。
——この仕訳も配達も全部魔法で出来たらなー。必要なのはどんな条件だろう。まずは正確な指向性と長距離での永続使用、あとは正確な座標入力、というかそれだけできれば後は動かずに金が手に入るんじゃない? なんてすばらしい技術なんだ! もっと快適にするなら詠唱は減らしたい。あとずっと魔方陣を思い浮かべているのは面倒くさい。ここも改善点だな。
初はそんなことを考えながら配達用の車に乗り込んだ。
配達はいつも通り一時間半強かかった。初にとってはやりがいなんてない仕事でもこれがなければ生活ができない。バイトしか稼ぎ元がない初にとっては無くてはいけないものだった。
汗を拭いながらまた原チャに跨って帰る。初は配達の練習をするために新聞を一部、余ったものを格安で買った。もちろん魔法の練習をするとは一言も言わなかった。実際のところ、今の情報規制がどうなっているか初には分からなかったが、まだ論文が世に出ていない以上は話さない方がいいと判断した。言って信じるかどうかはおいといてだ。
家に帰ってからも同じように、しかし別の魔法を試そうと再び論文を開いた。様々な検証を行ったのだろう、載っている魔法は多岐にわたっていた。最初に見た風を起こす魔法、水の温度を上げる魔法、遠くを見る魔法、声を大きくする魔法、それぞれ原理まで研究されている。そのすべてが粒子に何かしらの外力を与えてそのエネルギーを利用するもので、既存のニュートン力学、量子力学などの理論と統合されている。例えば遠くを見る魔法は量子もつれを利用しているらしい。具体的な数式とかはまだ理解しきれていないが式の意味合いはなんとか分かった。この魔法は遠くを見る、というより遠くの情報を知ると言った方が確からしい。ちなみに今の技術ではまだ座標の指定ができないとある。
初はとりあえず書いてある通りに発動してみた。今回の詠唱は風を起こす魔法よりも短く、大体二分半ほどで詠唱し終わった。それと同時にキレイなやけに星の多い星空の情報が頭に入ってくる。初にとってそれは初めて体験する変な感覚だった。目の前の部屋の景色と星空の景色が重なっている。混ざらないように目を閉じてみると瞼の裏に先ほどの景色が映る。
——どこだろう。地球のどこかという話なら分かるが、星しか見えない。やけに澄んでるし星も多すぎる。そして何より星が大きい。この大きさだと、惑星だとか衛星だと称した方が適切だと思う。もしかしてこれは宇宙の景色なのか? ランダムでマギがある空間の情報が送られると考えたらそれは一番占有率が高い宇宙が選ばれるのは必然なんだろう。改めてとんでもない技術だ。どうにか見る場所を指定できないだろうか。せめて地球内の景色がみたいな。
心にとめどなく好奇心が溢れてくる。一を知る度に百も千も万も知りたくなる。
初は寝食も忘れてその新しい技術・理論に没頭した。




