#5 昔のように
やはり、初めから話すべきなのじゃろうな。少し長くなるが、我慢せい。これはわらわの…故郷の話じゃ。
わらわの故郷は、カロストと呼ばれる大陸にある。この大陸、シンシリアから東へ進み、巨大で塩辛い海という湖を越えて、ようやく見えてくる大陸じゃ。その地では、この大陸よりもはるかに多くの魔法使いが生活しており、その分剣使いが少ない。
わらわはその大陸の、とある国で生まれた。まあ、ここまではよくある普通の話じゃな。人間という生き物は多くの場合、国か町で産まれるものじゃからの。だが、わらわの場合、少し人間とは状況が違った。わらわは産まれたのではなく、生み出されたのじゃ。
生み出された理由については、深く考えられてはおらんかった。ただ、その国では魔獣を生み出すことが流行していたというだけのことじゃ。理由などなかった。愛されるのでもなく、望まれるのでもなく、わらわは生まれた。むしろ、愛され、望まれるために生まれたのかもしれぬ。
その国に住む魔獣は、人間とともに暮らし、力仕事を手伝ったり、子供の遊び相手になっておった。が、多くの場合は、『闘技場』と呼ばれる施設の中で、戦い合っておった。わらわもその中の一匹じゃった。その戦いは見世物として国民に楽しまれた。もちろん本気で戦ったりはしない。魔獣にとっても、戦いはただの遊びじゃ。意味もなく戦っては、それを見た民に喜んでもらう。そんな毎日を送っておった。
別に苦しくはなかった。嫌でもなかった。中には嫌がっていた魔獣もいたが、そのようなものはその国の王に頼めば外に出ることができた。民も魔獣も、不満を言う者はめったにいなかった。
そんな時じゃな。わらわは一人の青年と出会った。その国に古くから住んでいた、真っ赤な髪の一族の出身じゃった。彼はわらわの魔法の腕を褒めて、わらわを『魔法姫』と呼んだのじゃ。彼は魔獣のことをもっとよく知りたいと言って、わらわに質問をした。わらわはそれに答え、代わりに人間のことを教えてもらった。わらわは闘技場での戦いを終えると、その青年の所へ行き、話をしてから眠りについた。そんな日が何日か続いた。
いつからだったか、人間は魔獣を恐れ始めた。確か、子供の相手をしておった魔獣が誤って手を噛んだのが始まりじゃった。だが、話にはやがて尾ひれがついていき、わざと噛んだとか、襲いかかったなどと言う者が現れた。最終的に、子供の手を噛んだ魔獣は処刑された。そんな出来事があってから、闘技場を訪れる者はほとんどいなくなり、魔獣たちが戦い合う理由も無くなった。あの青年も現れなくなった。それどころか、闘技場の外にいた魔獣たちが闘技場に集められるようになったのじゃ。おそらくは、民から恐れられ、居場所を失ってしまったのじゃろうな。
そんな中、生活の中で魔力を使い切って死ぬ者が多く出た。死を恐れた者は他の魔獣からピドルを奪うために戦い合った。わらわはそんな野蛮なことはしなかったが、闘技場は、もう昔のような施設ではなくなっていた。それは、わらわにとって悲しいことじゃった。
そんな日が続いて、わらわは警戒していたのじゃろうな。その日はよく眠れず、遅くまで起きていた。やがて戦い合っていた者も寝静まり、ようやく眠れると思った頃、わらわは気配を感じたのじゃ。久しぶりに感じた、人間の気配じゃった。
人間は二人で、何かコソコソと話をしておった。わらわに近づくうちにその内容が聞こえるようになり、わらわは耳を疑ったのじゃ。
その二人は、魔獣がいかに危険かということについて話をしておった。毎日戦い合っていた魔獣たちは傷だらけで、施設の中には屍が転がっておった。それを見て、彼らは魔獣は危険なのだと言っていたのじゃ。
もちろん、それは違うと言いたかった。戦い合っているのは足りなくなったピドルを補うためで、決して気性が荒いわけではないのだと。そもそも、子供に襲いかかったというのも、間違った話なのだと。だが、それを言うことはできなかった。今わらわが声を出したら、彼らは怯えて逃げてしまうと思い、動くことさえできなかった。
彼らはこう続けた。魔獣は危険だから、一匹残らず殺してしまうべきだと。そうでなければ、絶対的な力を持つ者に管理させるべきだと。彼らはそれだけ話すとどこかへ行ってしまった。その日は結局眠れなかった。
やがて時は流れ、魔獣の数は多い時と比べて半分以下まで減った。ある時、魔獣は外に出ることを許された。新たに即位した王が、魔獣を王宮に連れてくるように言ったのじゃ。魔獣たちの中には疲れていた者もおったが、おとなしくそれに従い、王宮に連れて行かれた。
そこに連れて行かれてからは、不自由のない暮らしができた。魔力は供給される上に、世話をする者が毎日やってきては、話をしたり食べ物を持ってきたりしていた。わらわはまた人間とともに暮らせる日が来るのじゃと思った。
だが、ある時また、わらわは聞いてしまったのじゃ。人間が、新たな王が、何を考えているのかをな。
魔獣は賢すぎる。そういった声が聞こえたのじゃ。確かに、魔獣は人間と同じ程度の知能を持っておる。それは、人間に生み出されたのじゃから、当然のことじゃ。だが彼らはそれを危険だと言った。国に反乱を起こす前に、魔獣の思考、感情、行動を制限するべきだと言っておった。そして、王はそれをすぐに実行に移した。王は、魔獣の一匹一匹に直接会い、その腕や首に枷をつけて回った。枷は思考を支配するための魔道具で、つけられた者たちは笑うことも怒ることもなくなり、黙って部屋に入って静かにしておった。わらわは王に見つかる前にその国から逃げた。もうその国にわらわの居場所はないのじゃと悟った。そしてここまでたどり着いたのじゃ。
だからわらわは狙われておる。今まで何匹の魔獣に襲われたか分からぬ。人の姿をした者もおった。獣の姿をした者もおった。体のどこかには必ず、枷がはめられておった。わらわは…それを全て殺し、その体からピドルを奪ってこの命を繋いできた。
ーーーーーー
「…頼みがあるのじゃ。本来なら、そなたらに頼むのは良くないことなのじゃが、頼れるのはそなたらしかおらぬ。」
話し終えてから、彼女はそう続けた。
「もし、その国の魔獣に会うことがあれば、どうかその枷を壊してやってほしい。彼らにもう理性は残っていない。それを取り戻してやってほしいのじゃ。あいにく、わらわは魔獣であるがゆえに、その枷に触れることができぬ。人間であるそなたたちならば、その枷を壊せるはずなのじゃ。」
彼女はすがるように二人を見た。その表情から、決してからかっているわけではないと分かる。今話したことは、全て事実なのだろう。
「…魔獣についている枷を壊せばいいんだね?」
特に考えることもなく、無意識のうちにセクエは答えていた。
「そうじゃ。だが、体のどこについているかは分からぬ。首かもしれぬし、体に埋め込まれておる可能性もある。それを、お願いできるか?」
「うん。構わないよ。あなたは助けてくれたんだから、そのくらいのお礼なら、私にもできる。」
「そうか…!」
彼女の目が輝いた。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「バリューガも、それでいいよね?」
「当然だろ?助けてくれたんだから。」
「本当にすまぬ。本来なら、そなたらをなんらかの形で助けてやるべきなのじゃが、それさえせずに頼みごとをするなど、間違っておるというのに…。」
彼女の顔が曇る。
「あんまり気にすんなよ。魔力のことなら、きっとセクエがなんとかするからさ。」
バリューガが言う。なんとも無責任な言葉だ。
「そうか、ありがとう。…では、そろそろ向こうの世界へそなたらを返さねばならぬな。長話をしてすまなかった。…行くぞ。」
「あ、待って!」
セクエは声を出した。
「あなたの名前は?」
女性は驚いたような顔をした。それから、少し考えるような表情になり、言った。
「わらわに名はない。だが、どうしても名前で呼びたいというのなら…フィレヌとでも呼ぶがよい。」
そう言って、女性は消えた。
ーーーーーー
消えた、とセクエは思ったが、すぐに自分たちが元の世界に戻っただけなのだと気付いた。鏡の中の世界とあって、実際の世界とほとんど同じ作りになっていたようだ。
空を見上げ、ほうっと息を吐く。体がわずかに重い。魔力の影響であることはすぐに分かった。これから大変だな、と思っていたところ、セクエは不意に顔を歪め、目を閉じた。
何か、見たことのない光景がまぶたの裏に広がっていた。目の前には知らない男の姿があり、自分は地面に横たわり、苦しみに呻いている…。
ハッとして目を開けた。
(今のは…?ああ、そうか。これは、記憶なんだ…。)
記憶が共有されるとは、こういうことなのか。フィレヌが言っていた通り、確かに恐ろしい記憶だった。今のは、おそらくバリューガが魔力を入れられた時の記憶なのだろう。ということは、目の前にいた男はヒョウということになる。
(まあ、そんなことは考えても仕方ないか…。)
心配になって、近くの木の根元に座ったままのバリューガに目をやった。どんな記憶が共有されたのか、考えるまでもない。バリューガはなんともないように見えた。だが、その体は確かに小刻みに震えていた。
「大丈夫…?」
セクエはバリューガに近づき、声をかけた。バリューガはすぐには答えず、目を閉じ、ゆっくりと大きく息を吐き出してから再び目を開けて答えた。
「ああ。大丈夫だよ。これくらいなら…。」
「嘘でしょ。」
セクエは静かに言った。バリューガは少し唇を噛み、言い訳を考えるようにセクエから視線をそらした。
「嘘じゃ…ねえよ。それに、おまえだって耐えてたんだから、そのくらいオレだって耐えられる。」
「それは違うよ。」
セクエはそう言う。バリューガはセクエに向き合って少し怒ったような口調で言った。
「違うもんか。おまえにできるなら、オレにもできる。魔法は使えないけど…それ以外ならオレだって!」
「そうじゃない。」
セクエは静かに続けた。バリューガはセクエが何を言いたいのか分からず、黙ってしまった。
「バリューガは耐えられなくて当然だよ。だって…私だって耐えられないんだから。」
言っていて、その通りだな、と思う。セクエはあの時の記憶に耐えられない。あの時のことを思い出すと、壊れてしまいそうになる。憎しみと、悲しみと、恐怖で、何も見えなくなる。何も感じなくなる。セクエはただ、思い出さないようにしているだけなのだ。だから、バリューガは耐えられなくて当たり前なのだ。
「だから、記憶が共有されるって、フィレヌが言った時、やめるべきなんじゃないかって思った。そんな重いものを、バリューガに背負わせたくなかったから…。」
バリューガは黙ったままだった。セクエはバリューガの顔を見ることはできず、うつむいていた。彼は今、何を思っているのだろう。
「そんな暗い顔すんなって。」
そう言ったバリューガの声は明るかった。驚いてバリューガを見ると、不思議なことに、バリューガは笑っていた。作り笑いじゃない。本当に楽しそうに、嬉しそうにしていた。
「だったらなおさら大丈夫だろ?おまえだけで耐えられないなら、今度は二人で耐えればいい!普通ならそんなことできないけど、今のオレたちは普通じゃないんだからさ。」
「…どうして、そこまでできるの?辛かったら、逃げたいって思わないの?」
セクエは不思議だった。どうしてバリューガはこんな風に考えられるのだろう。どうしてこんなにも簡単に、解決策を見いだすことができるのだろう。
「思わないさ!オレには夢があるからな!」
「…どんな夢?」
「笑わないって誓ったら教えてやる。」
「人の夢は笑わないよ。鳥になりたいとか、そういうの以外ならね。」
「約束だからな?俺の夢はな…。」
バリューガはニヤッと笑う。子供がいたずらでもするかのようだった。
「家族に会うことだ。」
「家族?」
「そう。俺を産んだ母さんと父さん、それがいなかったら兄弟でも従兄弟でもいい。オレは、オレと血が繋がってる人間に会いたい。だから、そう簡単に諦めるわけにはいかねえんだよ。」
強いな。セクエはそう思った。友達であることが申し訳ないほど、バリューガは強かった。どんな状況でも、バリューガは光を見出すことができる。それはすごいと思ったし、羨ましいとも思った。
「バリューガは、強いね。」
「今さら気づいたか?オレは強いんだよ!覚えとけ。」
バリューガは立ち上がる。
「じゃあ、村に帰るか!きっとみんな心配してるだろうし。」
「そうだね。」
さて、村はどこだろう。探知の魔法を使おうとして、自分の所にいくつか魔力が近づいてきていることに気づいた。
「せ、セクエさーん!」
そう言って飛びついてきたのは、ティレアだった。ティレアはセクエを思い切り抱きしめると、次に驚いていたバリューガに抱きついた。
「心配してたんですよ!本当に、無事で良かった…。」
バリューガから離れると、ティレアはそう言った。
「大丈夫だよ。もうなんともないから。」
「そういうことだな。」
二人は答える。ティレアに遅れてトモダチもやってきた。
(トモダチが遅れるって、ティレアはどれだけ急いでいたんだろう…。)
「ん?それ、なんだ?」
バリューガが不思議そうに首をひねる。
「何?とんがり帽子の小人のこと?」
バリューガはコクリと頷く。
「それって、もしかして、バリューガさんにも私のトモダチが見えるってことですか?」
ティレアが嬉しそうにそう言った。
「ふーん…ってことは、オレもやっとティレアちゃんと友達になれたってことだな!」
バリューガも嬉しそうだった。こう見えて、意外と見えないことを気にしていたのかもしれない。トモダチはバリューガに見られていると気づいたようで、バリューガの周りをぐるぐる回っていた。バリューガもそれを目で追った。やがて飽きてティレアのところに戻り、その肩や頭の上に乗っかると、だいぶ疲れていたようで、すぐに眠ってしまった。
「意外とかわいいんだな。」
バリューガは嬉しそうに言う。やっと友達になれた、とバリューガは言ったが、それは違うとセクエは思う。
ティレアにとって、トモダチが見えるということは、友達以上、つまりは親友ということなのだろう。もし、今まで友達と思っていなかったのなら、二人のために魔道具を作るわけがないのだ。
セクエは、トモダチの疲れ方と、魔道具の効果から、この腕輪型の魔道具はティレアが作ったのだということを見抜いていた。この腕輪には、確かに魔力を繋げるという特殊な効果があるが、その他にもう一つ、効果があった。セクエがつけているものには、時間の経過とともに魔力が大きくなることを制限する効果があり、バリューガのつけているものには、魔力に触れた時の刺激を和らげる効果があるのだ。この効果は、普通の人には必要ない効果で、事情が分かっているティレアかアトケイン以外は作ることはないだろう。ティレアには魔力のことは隠していたつもりなのだが、どうやら気づかれていたらしい。
(まあ、これだけ魔力が大きければ、隠せないのはむしろ当然か。)
つまり、隠すだけ無駄だったということだ。なんだか恥ずかしくなってしまう。
「帰りましょうよ。賢者様が心配していましたよ。」
ティレアがそう言って歩き出す。それを追うように二人も歩き出した。
歩きながら、セクエはそっと腕輪に触れる。もう、死んでもいいなんて考えられない。自分の死は、バリューガの死と直結しているのだから。
(あーあ。ケインになんて言われるかな?なんて説明したらいいんだろう?)
ちらりと前を歩く二人に目をやった。バリューガは、鏡の中とは打って変わり、元気そうだった。ティレアは肩の上のトモダチを優しく撫でていた。それを見ていると、自然とセクエも明るい気持ちになれた。
ーーーーーー
ナダレは、少し離れた場所で、三人の様子を見ていた。三人が歩き出したところで、ナダレはふと物悲しい気持ちになった。
(死後もなおこの世に残り続ける未練がましい奴…か。)
なぜ。なぜ自分はここにいるのだろう。何をしたいのだろう。何を伝えたいのだろう。
(結局、何も分からんままだな。)
ナダレは歩き出した三人を追わず、その場に留まった。ナダレはうつむいていた。地面に生える草がそよそよと風になびいている。
(我はこの世界にいても、何にも触ることができず、何者にも見られず、声を届けることさえできない。)
ならばいっそ、このまま消えてしまってもいいのではないか。たとえすべきことを見つけたとしても、今の自分にそれができるかは分からないのだ。
「…ナダレか?今までどこにいたんだ?ずいぶん長い間見なかったが…。」
横から声をかけられて、ナダレは首をそちらに向けた。
「…メト。」
「何かあったのか?…まぁ、言いたくないなら無理に話をしなくてもいいがな。」
ナダレは、別に何もない、と言ってメトから視線をそらした。だが、その時、ナダレは大きな失敗をしてしまった。
まず、視線をそらす際、再びセクエを見てしまったということだ。もちろん、セクエに見られたというわけではないが、これでは、さっきまで自分が何をしていたのか、視線をたどれば分かってしまう。さらに、セクエからまた視線をそらせば良かったのだが、ナダレはそれをじっと見つめてしまったのだ。
はっと気づいてメトに視線を戻した時には遅かった。メトは去っていく三人を見ながら、現実が信じられないような顔をしていた。
「メト…?」
声をかけてみたが、反応が無い。
(やはり、思い出してしまったのだろうか?)
当然だ。メトにとってナダレは数多く生み出した神という魂の一つに過ぎない。だが、セクエは違う。メトはセクエの魂を最も重要な生贄としてこの世に生み出し、さらにメトを殺したのも彼女なのだ。記憶にはっきり残っているだろう。
「ああ…そうか…私は…。」
メトが呟く。そしてゆっくりと目を閉じた。ナダレは、これからこの男が何をするのか想像できず、身構えた。しかし、その口からこぼれたのは、思いもよらない言葉だった。
「やはり私は、あなたたちにひどいことをした。」
その声に力は無かった。
「メト…。」
「私のことを話したがらないのも当然だな。私がしたことを思えば、話し相手になっていただけでもありえないことだった。それだけでもむしろ感謝すべきことだった。」
メトは目を開き、ナダレに向き直って言った。
「私は、あなたから何もかも、家族も、家も、肉体までもを奪ってしまった。その他にも罪のない多くの命を傷つけた。ほんの一瞬の怒りで、私は自分自身を完全に見失ってしまった…!」
メトはその場にひざまずき、ナダレに謝った。
「すまなかった。謝って済むことではないが、それでも私は、あなたになんと…なんという酷いことを…!」
ナダレは驚いていた。メトがそんなことを言うとは思っていなかったのだ。ナダレは、おそらく自分に何かしらの攻撃をしてくると思っていた。謝られるなんてことはありえないと思っていたのだ。だが、やはりナダレは心のどこかで安心していた。メトがこんな男であることが、前からわかっていたような気がする。
「メト。顔を上げろ。」
ナダレはそう言っていた。メトは、なぜナダレがそんなことを言うのか分からず、不思議そうな顔をしていた。
「不思議なことだな。我はもう、お前を憎むことができない。」
ナダレは力なく笑う。記憶を取り戻す前のメトと話すうちに、ナダレはいつの間にかそのことを諦めてしまっていたのだ。
「立て。会わせたい奴がいる。互いに会いたいと思っているかどうかは別の話だがな。」
そう言ってナダレは歩き出した。メトを振り返ることはしなかった。無理についてきてほしいとは思わない。ついてこないならそれでいい。ナダレは歩いた。
ーーーーーー
ナダレは地下の部屋に入り、そこにあの時のまま立っている老人に声をかけた。
「久しいな。ゲイウェル。」
「ほう。ここに戻ってきおったか。それも…ずいぶん懐かしい客を連れてきたようじゃのう。」
ゲイウェルのその視線の先には、メトがいるのだろう。ナダレは後ろを見ないでそう思った。メトはナダレの前に出て、ゲイウェルと向き合った。
「なぜ…あなたがここに…?」
ナダレの前に立ち、ゲイウェルと向き合っているので、メトの表情は分からなかった。だが、口調だけで動揺していることが分かる。
「こうしてまた会うのに、ずいぶんと長い時間がかかってしまったな、メトよ。わしはずっと…お前に謝りたかった…。」
ゲイウェルは今まで見たことがないような表情を見せていた。優しい顔をしたこの老人がここまで悲しそうな目をするのかと驚くほどだった。思わず目をそらしたくなるほど、その目には強い後悔と悲しみが渦を巻いていたのだ。
「わしがあの時、もう少しお前の思いに気づいていれば…もう少し、村人の頼みを断る勇気があったなら、お前をここまで深く傷つけることもなかった…。」
そう言って、ゲイウェルは一歩、メトに近づいた。二人の距離は、何も変わっていないように見えたが、しかし親しい二人にとっては、それだけで大きな差があったのだろう。
「わしは、お前を封印してからずっと、ここにいた。お前から自由を奪い、閉じ込めたわしが、村で悠々と生活を続けるなど、できるわけもなかった。すぐにこの地下牢へと入り、昔から使っていた日記に自らの魂を封じ込め、自らを封印した。やがてお前の封印が解かれ、外の世界へと飛び出した時、お前にまた会えたら、という淡い期待を込めて。…本当に、申し訳なかった。お前はわしのただ一人の、親友だったというのに。」
ゲイウェルは目を閉じ、わずかに顔を下に向けた。その表情には、フォフォフォと楽しそうに笑う老人の面影はなかった。
「何を言うんだ、ゲイウェル。あなたは正しいことをした。悪いのは私の方だったのだ。私は私利私欲のためにしか動いていなかったのだから。そんな私に、なぜあなたが謝る?あの時、私がもう少し村の民たちを許せていれば、こんなことにはならなかったのだ。いや、せめて封印されている間に、自分の過ちに気づくことができてさえいれば…。本当に愚かだったのは…許しを乞うべきなのは私なのだ!」
「ならば、お前はわしを許してくれるというのか?」
ゲイウェルは目を開け、メトに尋ねた。疑っているような口調だった。メトの言葉を信じられないだけなのかもしれない。
「ああ。当然だ。そもそも、私はもうあなたに怒りは感じていない。あるのは深い後悔だけだ。」
そう言ってから、だが、もし…とメトはためらいがちに付け加えた。
「もし…あなたが私の行いを許すというのなら、私は再び、あなたと世界を回りたい。失われた時間を取り戻すわけではないが、あなたとの旅は、この上なく楽しかった。」
ゲイウェルは一瞬驚いた表情になり、それから嬉しそうに顔をほころばせた。
「願っても無いことじゃ。お前がそれを望んでくれるのなら、わしはどこまでも共に行こう。」
そう言って、ゲイウェルはナダレに視線を戻し、言った。
「ありがとう。彼をここまで連れてきてくれたこと、心から感謝する。これでわしもようやく、封印から解放される。」
「…感謝される覚えはない。我は我のしたいことをしただけだ。」
ナダレはそっけなく答えた。自分のしたことの意味が分からなかった。自分は何か大きなことをしたようなのだが、ナダレにその自覚がないのだ。たまたま拾った石が、友がなくしていたと思っていた宝物だったような、そんな気分だ。
「…恩返しというわけではないが、おぬしが分からないというなら、教えてやろうか。おぬしの中にある二つの名前の意味を。」
ナダレは驚いた。名前のことは話したことがない。だが、ゲイウェルからしてみれば、それは分かって当然だと思っているらしく、優しい顔つきのまま表情を変えなかった。
(さすがは、セクエの恩師。そんなことまで分かってしまうとは。)
「…いや、それは断らせてもらおう。我は…忘れたわけではないのだ。」
「…そうか。ではくれぐれも気をつけての。セクエを頼む。おぬしも知っておる通り、あの子は…可哀想な奴なのじゃ。」
ナダレは無言で頷く。それと同時に、二人の姿が薄れ始めた。その姿を呆然と見ていると、メトが振り返った。その口が動く。だが、もうその声はナダレには届かなかった。なんの音にもならないのだ。何か必死に言葉を投げかけてくるが、ナダレには口の動きからそれを察するしかない。
「さらばだ。メト、ゲイウェル。再びまた会える時を、楽しみにするとしよう。」
ナダレがそう呟いた時、二人の姿は消えた。取り残されたナダレは、地下から出ようともせずにしばらくそこに立ち尽くした。
(…言われるまでもない。我が、あの二つの名を忘れることなど、ありえんことだ。)
ナダレはそう思っていた。二つの名とは、言うまでもなくフィレヌとテタムのことである。
(だが、我は思い出してはならんのだ。二人のことをはっきりと思い出してしまえば、我はこの世には留まれない。…フィレヌ、テタム。我がかつて愛した者よ。今しばらくこの世に留まり続けることを、どうか許してくれ。)
ナダレは目を閉じる。まぶたの裏に二人の人影が映った。ナダレはそれを振り払うように首を横に振った。思い出してはいけない。思い出せば、あの世へ行きたくなってしまう。そうなれば、自分はこの世に残した未練も、セクエのことも、何もかも忘れてしまうだろう。それだけは嫌だった。
「それにしても…なぜなのだろうな。メトがあれほどまでに変わってしまったのは…。」
セクエを作り出した時のメトと、さっきまでのメトは、まるで別人のようだった。人格とは、そんなにも大きく変わってしまえるものなのだろうか。
「わらわが思うに、それは、『魔力の増加に伴う人格の変化』ではないか?」
背後で声がして、ナダレは驚いて振り返った。
「お前…!いつからいた?」
「お前と呼ぶな。そなたが名付けたのじゃろう?だったら責任を持ってその名で呼べ。使わぬ名を名付けるな。」
そう言ってあからさまに嫌そうな顔をしたのは、フィレヌだった。
「…フィレヌ、いつからいたんだ?」
「ついさっきじゃ。そなたの気配がしたのでな。話をしに来てやったのじゃ。」
ナダレは苦笑した。フィレヌは自分の名を呼べと言うくせに、ナダレの名を呼ばない。さらにかなりの上から目線だ。だが、そう意見したところで、適当にはぐらかされるだけだろうから、ここは耐えることにしよう。
「で、さっき言った、魔力がどうこうというのは何だ?」
「知らぬのか?魔力が大きくなりすぎると、魔法使いは人格が変わるのじゃよ。」
ナダレは眉をひそめた。
「…詳しく教えてもらえるか?」
「魔力とはもともと、それなりに危険な力なのじゃよ。確かに魔法を使う上では便利じゃが、あまりにも多くの魔力が体内に溜まりすぎれば、その魔法使いは死んでしまうのじゃ。と言っても、人間の体はそう簡単には死にはしない。体は命の危険を感じると、無理矢理にでも魔力を体外に放出しようとする。…そこで一つ問題じゃ。最も多くの魔力を消費する行動は何だと思う?」
ナダレは少し迷ったが、それでもすぐに答えた。そもそも魔法には詳しくないので、正解を答えられるとは思っていない。
「浮遊魔法か?」
「違う。答えは…戦闘行為じゃ。」
「つまり…戦うということか。」
「そうじゃ。戦う時、魔法使いは最も多くの魔力を消費する。相手を倒すための魔法、自分の身を守るための魔法、それから傷口から流れる血による魔力の流出。これほどまでに短時間に、効率的に魔力を消費できる行為は他にないのじゃ。」
「それでは、魔力を体外に放出しようとするとき、魔法使いは自然と戦いを始めるということか?」
フィレヌは大きく頷いた。
「その通り。そのような魔法使いの中では、絶えず壊したい、傷つけたいという欲求が渦を巻くことになるじゃろうな。その欲に従ううちに、やがて好戦的な人格へと変わってしまうというわけじゃ。」
「それは暴走することとは違うのか?」
「本質は同じじゃ。だが少し違う。暴走というのは、自分の中に生まれた破壊の欲求を無視し、押さえつけてしまう時に起こる。魔力をこれ以上体内に溜めることがないように、体が最終手段に移るということじゃな。体が本人の意思とは無関係に魔法を使うようになってしまうことを言うのじゃ。まあ、あくまでこれは魔法使いの話であって、あの剣使いの少年には何が起こるか分からぬがな。」
ナダレは険しい顔つきのままその話を聞いていた。そう言えばセクエは、メトが何かの魔法によって魔力を増加させたと言っていた。つまりは、その魔力によって、メトの人格は変わってしまったということなのだろう。となると、その魔力を取り込んだセクエには、一体どれほどの負荷がかかっているのだろう…。
「それにしても、いくら魔法使いの少ない土地とはいえ、ここまで知識を持たぬとは知らなかったのう。セクエも、暴走の意味を二つあるうちの後者しか知らぬようじゃ。まったく、これほどの少ない知識で、なぜ平然と魔法を使っていられるのか、わらわには不思議でならぬ。わらわならば恐ろしくて魔法など使えぬわ。」
フィレヌはブツブツと愚痴をこぼしている。
「おお、そうじゃった。わらわはそなたに話があって来たのじゃ。忘れぬうちに本題を話させてもらうぞ。」
「ああ。なんだ。」
「そなた、たまにはわらわの世界に来い。」
「…は?」
「わらわは追われておる身。外の世界にずっといるわけにはいかぬ。だから、そなたが来い。そしてわらわの名を呼べ。そうしなければ名前など、いつかは意味もなくなり、消えてしまうものじゃ。」
ナダレはフィレヌに気づかれないよう密かにため息をついた。
(なんと面倒なのだ。こんなことになるなら、呼び名などつけるべきではなかったな…。)
「で、どうやって行けばいいのだ?我は方法など知らんぞ。」
「簡単じゃ。鏡を使え。鏡に映らぬそなたなら、通り抜けてわらわの世界に来ることも可能じゃろう。ではな。そなたが来るのを待っておる。」
それだけ言うと、フィレヌは転移魔法で消えた。ナダレはここぞとばかりに大きくため息をつく。
「まったく面倒な。なぜ我がそのようなことを…。」
言いかけて、やめた。ものは考えようだ。少しはマシな考え方をしてみよう。ナダレは顎に手を当てて考えた。
(そうだな…。メトもいなくなった今、我には話し相手もいなくなった。フィレヌが話し相手になってくれると言うなら、それはそれでいいのではないか?それに、名を呼ばれたがっているということは、名を喜んでいるという考え方もできる…。)
まあ、それならそれでいいだろう。これも名付け親の責任というものだ。受け入れるしかない。
(とりあえず、外に出るか。ここは息苦しい。)
ナダレは外に飛び出す。実体のないナダレの体を風が通り抜けていく。少し不快だったが、地下にいた時と比べればよほど心地よかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。このシリーズはもう少し続けたいと思っています。次の作品ではカロストに舞台を移したいなーと思っていますが、案がまだ出来ていないので、かなり間が空くと思います。気長に待ってもらえたら嬉しいです。