プロローグ
自分はふと思い出した。時々思い出し、そしてすぐに忘れてしまう記憶。ずっと昔の記憶を。
あの日、自分は家に入った。自分の家だ。妻と、一人の幼い息子がいる。たしか、裕福だった気もする。いつもなら、息子が帰ってくる自分を元気に出迎えて、遅れて妻がやってくる。幸せな毎日だ。
だが、その日は誰も出迎えに来なかった。自分は不思議に思う。そして、何かあったのではないかと、慌てて居間へ行く。そこは家族が集まる空間で、普段は団らんの場として明るい雰囲気の部屋だ。だが、そこにも誰もいない。自分の中で不安だけが大きく膨れ上がる。
廊下を抜けて寝室に入ると、そこに妻と息子がいた。だが、自分は安心などできなかった。息子はぐったりと床に横たわって動かず、妻は怯えきって震えていたからだ。だが、自分はその二人に声をかけることができなかった。その部屋には、もう一人、知らない人物が立っていたからだ。後ろ姿で顔は見えなかったが、それは男のように見えた。
「お前も違う…。」
男はそう言うと妻を指差した。すると妻の体の震えがピタリと止まり、そして床に崩れ落ちた。自分は声も出せずにその光景を見ていた。倒れたままの妻の唇が、逃げて、と動くのが見えたが、自分は動けなかった。やがて男が振り返る。その顔はずいぶんと若いように見えた。まだ自分は動けなかった。
男はニヤリと笑って自分に言った。
「お前か。私が感じ取った存在は。」
この男が、自分の何を感じ取ったのか、自分には分からなかった。だが、男が自分に何かをしようとしていることだけは分かった。自分はようやく体を動かした。といっても、恐怖で足がすくんでいたため、後ろに数歩あとずさっただけだっただろう。男は自分の頭に手を伸ばし、しっかりと掴むと、その手にぐっと力を込めた。そして、自分は体がスッと軽くなったのを感じた。異常だった。服の重さだけでなく、自分の体重までもが無くなってしまったかのようだった。体がふわふわと浮かび上がりそうで怖かった。
そして、体重が無くなったというのは事実だった。男が手を離し、自分が反射的に下を見ると、そこには『自分の体』が倒れていたのだ。その時自分を見ていた髪の白いその男は、ニヤリと笑ったその顔を変えなかった。その表情が恐ろしかった。
それからしばらく記憶は途切れ、気がつくと、一人の少女のそばにいた。その後、いろいろあって、今に至る。
ああ、ようやく思い出した。自分はそのことになぜか少し安心した。だが、それをもう一度思い出そうとすると、なぜか何も思い出せなかった。また忘れてしまったようだ。だが、またいつか思い出すのだろう。そしてすぐに忘れる。自分が今に至る原因となるその記憶は、ただひたすらにそれを繰り返すだけで、決して自分の中には留まってくれない。