異世界転生、条件:満腹
龍満楼のチャーハンは、大盛りを頼むとなぜか赤いどんぶりで出てくる。その日も仕事帰りに暖簾をくぐって、カウンターの端でレンゲを動かしていた。七割ほど食べたあたりで手が止まった。正直、もう入らない。でも店主のおばちゃんが厨房からこっちを見ている気がして、残す勇気が出なかった。
意地で底までさらったら、どんぶりの底が光った。
油が照明を反射したんだろうと思って顔を上げると、石造りの天井があった。
「勇者様! 勇者様が召喚されました!」
白いローブの女の子が、俺の顔を見るなり叫んだ。周りでは鎧を着た男たちが拍手している。ネットで百回は読んだ導入だ。俺はレンゲを握ったままだった。
目の前に半透明の板が浮かんで、文字が並んだ。【無限満腹】。腹が減らなくなり、食べた量に応じて能力が上がるらしい。その下に【胃袋拡張EX】、【満腹オーラ】と続いて、スクロールしても終わらない。食べ物関係のスキルしかなく、剣や魔法の項目は一つも見当たらなかった。
さっきまで苦しかった腹は、きれいに楽になっていた。それだけは助かった。
最初の実戦は、王都の外れの森でのゴブリン退治だった。同行した剣士のエルマーは十九歳で、出発してからずっと剣の柄を握りしめていた。茂みが揺れて緑色の小鬼が六、七匹飛び出してきたとき、俺は支給された干し肉を袋から出して噛んだ。他にやれることがなかった。
「え、いま食べます?」
エルマーの声が裏返った。言い返そうとした瞬間、腹の底から何かが膨らんで、俺を中心に生ぬるい風が広がった。焼肉屋を出た直後みたいな匂いがした。ゴブリンたちは棍棒を落とし、腹をさすりながらその場に座り込んだ。一匹は横になって目を閉じた。満腹オーラとは、敵を満腹にして戦う気をなくさせるものらしかった。
「何をしたんですか」
「……間食」
エルマーはしばらく黙っていたが、やがて剣を鞘に戻した。
それからの旅は、ほとんど食事の記録だった。魔獣の丸焼きを半分食べた日は矢が刺さらなかったし、ドラゴンのステーキを食べた翌朝には前の晩の切り傷がふさがっていた。魔王城には正門から入らず、裏の搬入口から厨房に入って、仕込み中のシチューを鍋ごと平らげた。夕飯がないと知った城の兵士は、その夜のうちに半分ほどいなくなった。
玉座の間の魔王は、思っていたより痩せていた。
「勇者よ。貴様の力の源は何だ」
少し考えて、正直に答えた。
「荒川区の町中華と、出されたものを残せない性格です」
魔王は眉間にしわを寄せ、何か言い返そうとして、結局何も言わなかった。勝負はそのあと十分ほどでついた。向こうは朝から何も食べていなかったらしい。
気がつくと、龍満楼のカウンターに座っていた。
どんぶりは空で、レンゲが中に転がっている。壁の時計は七時十二分で、店に入ってから二十分も経っていなかった。
「お兄さん、よく食べたねえ」
おばちゃんが水を注ぎ足しながら言った。
「次も大盛りでいい? サービスするよ」
いや、次は普通で、と言いかけてやめた。腹はまだ、少しも苦しくなかった。




