孤独な夜会
エルに一人で行くと言ってしまったフランチェスカは、会場が近づくにつれて後悔していた。馬車から見える招待客は、いずれも同伴者がいる。フランチェスカのように一人で乗り込もうとする者は皆無だった。
「でもあんなこと言っちゃったし……」
「お嬢様、今ならまだ引き返せますよ」
御者がフランチェスカに優しい声で言う。フランチェスカが物心つく前から公爵家に仕えている男は、出発前にも同じことを言っていた。
「いえ、ここまで来た以上は元に戻れません。いつも通りにするだけです」
「……そう仰るなら」
渋々、御者は馬を操って王城への道を進んだ。
王城で待ち構えていた案内人に従って馬車を停め、フランチェスカは外に出た。
「いってらっしゃいませ」
「ええ。早めに帰るから、そのつもりでね」
御者に見送られたフランチェスカは扇子を握りしめて会場へと向かった。彼女を発見した全ての者から驚きと好奇の目で見られたが、想定内だ。
会場に入ると視線は増え、誰もがフランチェスカを見ている。全員から注目されるという経験は、なかなか貴重で面白い。声をあげて笑いだしたい気持ちを抑え、目的の第一王子を探す。
アロルドはすぐに見つかった。会場の端で例の男爵令嬢や側近たちと楽しげに談笑している。一人で現れたフランチェスカのことは、一度だけ視線をよこしただけで、見えないふりを続けていた。
失望した。
フランチェスカは扇子で口元を覆った。婚約者が一人で来ていると知りながら、仲間と高みの見物をしているところが腹立たしい。本人はフランチェスカを見ていなくても、周りにいる者から報告させていることは明白だ。
――どうして、あんな最低な男だと見抜けなかったんだろう。
もうこのまま帰ってしまおうか。
いい加減、我慢の限界だったフランチェスカの前に、仮面をつけた奇妙な男が近づいてきた。
「よろしければ、私と踊っていただけませんか?」
誰だと尋ねる前に、仮面の男はフランチェスカに手を差し出した。
いつの間にかダンスの曲が流れている。招待客はフランチェスカから興味を失ったかのように、それぞれの相手と踊っていた。
「……エル?」
「正解」
顔を隠していても、仕草には見覚えがあった。フランチェスカは心を許せる知り合いに会えたことで、安堵して手を重ねた。
「ずっと、フランと踊りたいと思っていた。練習じゃなくて、こんな場所で」
曲に合わせてリードし始めたエルが耳元で囁いた。
「その言葉は、あなたの大切な人に言ってあげて」
少しだけ心が痛んだ。幼馴染でもあるエルの素性を尋ねたことはない。けれど兄と対等に接していたことから、彼も貴族の一員だろう。どんなに清い間柄だったとしても、男女の友情が長続きすることはない。醜聞を恐れて手紙すら出せなくなる日が来る。
フランチェスカとエルは手紙すらやりとりしたことがない。彼は兄の親友だ。リベリオと親しくしているついでに、フランチェスカと交流しているだけだ。その証拠に、屋敷の外で会ったのはアロルドの浮気現場を見つけた時だけだった。
二人で踊っていると、次第に周囲の視線は気にならなくなっていた。アロルドと踊った時とは違う。相手を信頼して体を動かせることが楽しい。義務から解放されたのだと自覚したフランチェスカは、会場に入ってから初めて自然に笑えるようになっていた。
曲が終わりに近づいた頃、招待客の間を縫ってアロルドが近づいてきた。
「なんだその男は。フランチェスカ、君は婚約者がいるにも関わらず、得体の知れない奴と踊る女だったのか」
何を言っているのか分からなかった。どうしてこの男は怒っているのだろうか。先にフランチェスカを突き放したのは、アロルドの方だというのに。
婚約者を一人にして嘲笑っておきながら、誰かとダンスをしただけで文句を言う。フランチェスカを娯楽の道具にしか思っていないのだろうか。
相手が王族だということを思い出したフランチェスカは、失礼にならないよう軽く膝を折って挨拶をした。他人行儀な振る舞いだが、今日初めて会ったのだから間違ってはいない。
アロルドの後ろには、不安そうなエミリアが従っている。まるで彼女が婚約者のようだ。笑いそうになったフランチェスカは、扇子で口元を隠して誤魔化した。
「あら、私のことですの?」
「ほ、他に誰がいる!?」
「迎えに来て下さらなかったので、てっきり婚約は解消されたのだと思っておりましたわ。では私は今、浮気現場を目撃していることになりますわね」
自分でも驚くほど、さらりと嫌味が出てきた。悪女としての才能があったのだろうかと疑う。
アロルドは居心地が悪そうにしているエミリアを庇うように、フランチェスカに詰め寄った。
「そんな低俗な言葉で彼女を貶めるのは止めてもらおうか」
「低俗な行為をなさっている方を、他にどう呼べと仰るの? まさか真実の愛の前には、どのような行為も許されると?」
「真実の愛、か。そうだな。俺はエミリアに出会ってから、互いを尊重して愛することの尊さを知った。義務で婚約した君とは、何もかも違う」
もしアロルドが王族でなければ、ふざけるなと叫んで殴っていただろう。義務を放棄して他の令嬢と遊んでいた相手には、尊重だの愛だの言ってほしくない。
フランチェスカを愛せなくても、仕方ないと思っていた。仮面夫婦として過ごす覚悟はあったのだ。国のために仕事をしてくれる王なら、愛妾を囲っても黙っていようと思っていた。
ところがアロルドは手順を踏まずに、結婚する前から浮気に走った。好きだったはずのアロルドのことが、途端に不気味に見えてきた。
「君が他の令嬢へ嫌がらせを繰り返し、婚約者の座に収まったことは調べがついている。自らの感情を優先させるような者に、未来の王妃はふさわしくない! この場で婚約を――」
めまいがしそうだった。噂を確かめようともしない。どういう意図で組まれた婚約なのか、分かっているのだろうか。
せめて円滑に終わるようフランチェスカが口を挟もうとしたとき、エルに腕を掴まれた。
「貴方にそれを決める権限は無いはずですよ」
傍観者だったエルは、フランチェスカを後ろに下がらせてアロルドの前に立つ。
「何だ貴様は。その仮面も失礼だろう」
「まだ取ってはいけないと申し付けられております。時が至れば、すぐに」
堂々とアロルドに言うエルを見て、フランチェスカはある種の予感がしていた。第二王子のお披露目を兼ねているという夜会。わざわざ仮面をつけさせるほどの人物は、きっとこの場の誰よりも位が高いに違いない。