下がらない熱
誰にも見られないように家に帰されたフランチェスカは、次の日、熱を出して寝込んでしまった。自分で思っていた以上にショックだったらしい。
「お嬢様、アロルド様から手紙が届いていますが……どうします?」
メイドのアンナが真っ白な封筒を見せてきた。ベッドに臥せっていたフランチェスカは味気ない表面を確認すると、ため息と一緒に首を振った。
「そこに置いて。見なくても分かるわ」
約束を守れなかった謝罪文と、形だけの挨拶。こちらがどんな言葉を送っても、返ってくるのは教科書から抜き出したような文面だ。封を開けるまでもない。
「こんな紙切れ一枚で済ませるなんて……大輪のバラでも持ってこいやです」
アンナは怒りを隠そうともせず、机の上に手紙を置いた。自分のことのように文句を言うアンナのお陰か、少しだけ気分が晴れてくる。フランチェスカに必要なのは感情を押し殺すことではなく、彼女のように表に出して発散させることなのだろう。
「お嬢様……何かありましたら、お呼びください」
「ええ、ありがとう」
心配してくれるメイドに礼を言い、フランチェスカはまた横になった。一人になって目を閉じると、あの庭園の光景が蘇ってくる。
努力をしてきた自分が滑稽だ。今までの苦労を全て無駄にされたような気がして、悲しみが怒りに変わりそうだった。
「……駄目よ、それは」
たとえフランチェスカがアロルドに愛想を尽かしたとしても、ただの令嬢から拒絶することは許されない。夫となる人への憎しみは笑顔の下に隠しておく。それがこの国の貴族というものだ。
「私が逃げたら、みんなに迷惑がかかる……」
意に沿わない結婚なんてありふれている。夫婦となってから愛情を深めた者だっているのだ。フランチェスカとアロルドもそうならないとは限らない。
疲れているフランチェスカは、いつしかアロルドの心が離れていった原因は自分にあると考えていた。
* * *
廊下を歩いていたアンナは、前から来る男がいつも出入りしているエルだと気付くのが遅れた。慌てて端に避け、軽く頭を下げる。
「君は確か、フランの……フランチェスカ嬢の専属メイドだったね?」
「は、はい」
話しかけられたアンナは慌てて答えた。
――いつもの服装じゃないから分からなかったじゃないですか。何だかすごく偉い人のようです。
この家に遊びに来るエルは、着崩しただらしない姿しか見たことがない。リベリオと親交があることから、貴族だと予想はつく。だが服装はまるで平民のように飾り気がない。初めて見たとき、アンナは新しく雇われた使用人かと思ったほどだ。
今日のエルは実に貴族の青年らしい服装だった。いつもは緩めている首元にスカーフを巻き、裏地に刺繍が入った上着を羽織っている。帯剣して立っているだけで、絵のモデルになりそうな変身ぶりだった。
緊張するアンナに対し、エルは気さくに話しかけてきた。
「彼女の様子を聞いてもいいか? 昨日は……その、だいぶ疲れていたようだから」
「お嬢様ですか。ええ、今は臥せっておられます。かわいそうに……それもこれも、あの王子のせいですよ」
「おや。第一王子というのは、そんなに酷い男なのか?」
「だって、お嬢様とのデートをすっぽかしたくせに、手紙だけで謝ったつもりになってるんですよ? 熱を出して寝込んでても、見舞いをするって考えにはならないし。だいたい、そのデートだって、なんだか避けられないから仕方なく、って感じで迎えに来るし! 嫌なら最初から来るなです」
喋っている間に、アンナはアロルドへの怒りが湧いてきた。自分より遥かに身分が高い相手だが、どうせ平民の自分が何を言っても、王宮にいる本人に伝わることはない。それにアンナが言っていることは嘘ではないのだ。
「お嬢様が陰でどれだけ努力しているのか、知らないんですかね。そんなに嫌なら結婚なんて止めてしまえばいいのに。お嬢様は、もっと大切にしてくれる人と結婚するべきです。アクセサリーを贈る余裕もないほど貧乏な王子なんて」
「な、何でそう思う?」
予想外の暴言だったのか、エルがむせた。だがアンナにはどうでもいいことだ。
「だって、お嬢様がもらったプレゼントって安っぽいハンカチとか、庶民でも買える花だけですから。誕生日以外は何もありませんし。王族の結婚って、こんな感じなんでしょうか」
「いや……俺には何とも言えないな」
「だとしたら、やっぱり貴族の女の子はかわいそうです。あんなに努力してるのに、大切にしてくれない人と結婚させられて、ずっと我慢し続けないといけないなんて」
「君はフランチェスカ嬢の味方なんだね」
「当然です。お嬢様は私たち使用人に八つ当たりなんてしませんから! 知ってるんですよ、お嬢様に悪い噂が流れているの! あれ、全部ウソです。私はお嬢様に蹴られたことなんてありませんし、熱い紅茶をかけられたこともありません。ぜったい、誰かがお嬢様を妬んで流してるだけです」
アンナはエルが聞き役に徹しているのをいいことに、ありったけの不満を述べていった。エルの正式な身分は気になるが、使用人を大切にしてくれるお嬢様に比べれば、はるかにどうでもいい。
それにアンナの直感では、エルはフランチェスカの味方だ。
「どうして、そんなにフランチェスカ嬢のことを気に入っているんだ?」
「だって、お嬢様はお菓子を分けて下さいますから」
断言したアンナに、エルは首を傾げた。
「お菓子?」
「私が働いても買えないような、甘いキレイなお菓子なんですよ! いつも秘密ねって言いながら、お茶の時間に呼んでくださるんです。私、お菓子をくれるご主人様には、一生ついていきます!」
「そ、そうか……」
エルは引いているようだが、アンナには関係なかった。大切なのは仕えているフランチェスカの素晴らしさを知らしめることだ。途中から自分でも何を言っているのか分からなくなってきたものの、労働環境の素晴らしさとお菓子の美味しさだけは熱心に伝えておいた。
* * *
熱が下がって普段通りに動けるようになったころ、サロンでくつろぐフランチェスカのところにエルが顔を見せに来た。いつもと変わらず、兄のリベリオに会うついでだ。
エルは上質な封筒を見せ、どうするのか尋ねてきた。
「君のところにも届いているはずだよ。王妃が開催する舞踏会への招待状」
「招待状は来てるわ。でもアロルド様からの、エスコートの提案は来てない」
一人で会場へ行くことは考えられなかった。女性は男性と共に訪れることが当たり前だ。
「……残酷なようだけど、第一王子は君を伴って舞踏会へ行くことはないだろうね」
「エル……」
もうドレスを新調する期間は過ぎている。フランチェスカにも痛いほど分かっていた。招待状が届いた時点で打診がないということは、アロルドはフランチェスカのことなど全く意識していないということだ。
「もし君が、まだ王子に期待をしているなら……一人で会場へ来るといい。傷つくことを避けるなら、俺が君を連れて行く」
「あなたが?」
「リベリオと俺、フランの三人で。兄弟のエスコートに、相手が見つからない親友が同行することは、珍しくないだろう?」
そうエルは冗談めかして言った。彼が言う通り、相手が見つからない者が集団で会場に来ることがある。同伴者の都合で一人になってしまった者が、よく使う手段だ。決して恥ずかしいことではなく、好意的に受け止められている。
「期待はしてない。でも、一人で行くわ」
「フラン?」
予想外の答えだったのか、エルは驚いていた。
「私は冷血で無慈悲な公爵令嬢と噂なのでしょう? 将来は国を傾けるような悪女に成長するそうね。自分の評価の悪さに嫌になるわ」
「フラン、ただの噂だ」
「でも噂を信じて、私に罪を償えと匿名で言ってくる人もいる。そんな女が一人で会場に来たら、さぞ目立つでしょうね」
エルはフランチェスカの腕を掴んだ。
「自棄になるな」
「私はアロルド様の本音が知りたいの。一人で会場に来た私を見て、最初に言うことが、きっと本心から出た言葉よ。会場にいないかもしれないけれど」
「それは無いよ。今回は第二王子のお披露目も兼ねている。兄である第一王子が欠席することはない」
「そう。じゃあ、第二王子の顔を見たら帰るわ。最後まで笑顔でいることは無理」
「君はそれでいいのか? 噂を信じる奴らを喜ばせるだけだぞ」
「いいのよ。もう疲れた。何のために努力してきたのか、もう自分でも分からないもの」
腕からエルの手が離れ、そっとフランチェスカの髪を撫でた。
「……俺が第一王子なら、君にそんな顔をさせないのに」
「あなたが婚約者なら、人前でダンスしても緊張しなかったでしょうね」
いつも一緒に練習してくれたから、と言ってフランチェスカはエルから離れた。