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女王蜂に育てられた俺~宇宙最難関資格に挑む  作者: 和子


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9/10

buzz.9 宇宙最難関の資格試験


 古民家を改装した研究所への帰り道。

午後の湿った風がユキオの頬をなでると、彼は小さく身じろぎをして、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「……ん、……邑人、さん?」


「ユキオ君、驚かせてしまったね。少しばかり、地球の専門家たちが張り切りすぎてしまったようだ」


 邑人は背負ったまま、穏やかな声で続けた。


「今日のことは、久美子さんにはどうか秘密にしておいてくれよ。君の『身の安全を脅かした』なんて知れたら、それこそスズメバチより恐ろしいことになりかねないからね」


 ユキオの体には、まだ自分のものとは思えないほどの脱力感が残っていた。脳内に注ぎ込まれた黄金の蜜が、今も意識の端々を甘く痺れさせている。朦朧とした意識の中で、ユキオは邑人の広い背中越しに、揺れる木漏れ日を見つめた。


「……僕も……」


 かすれた声が、邑人の耳に届く。


「僕も……なれますか? 邑人さんみたいな……『恒星域観測士』に」


 邑人は一瞬、歩みを止めた。

夏の陽光に照らされた山道で、彼は空を見上げるようにして、静かに言葉を紡ぐ。


「それは、君の努力次第だ。だが、この星の生態系だけでなく、星々の運行、原子の揺らぎ、そして文明のことわりまで……すべてを把握するには、かなりの学習時間を必要とするよ」


「……頑張ります……。僕……マイナス係数で……終わりたくない、から」


 惨劇の後の山道は、驚くほど静かだった。


 先ほどまでの狂乱――立ち上がる巨躯の威圧感、耳を(つんざ)く羽音、そして死を覚悟した瞬間の凍り付くような空気――それらが嘘のように、午後の柔らかな光が木漏れ日となって地面を斑に染めている。


 邑人英二むらひと えいじの背中で、ユキオはゆっくりと意識の混濁を抜けていった。背中から伝わる邑人の体温と、一定のリズムで刻まれる歩調が、心地よい揺り籠のようにユキオを現実へと繋ぎ止める。


 レム睡眠の最中に覚醒した脳は、驚くほど明晰だった。体内で過剰に分泌されたセロトニンが、極限状態のストレスを優しく中和していく。恐怖に震えていた四肢には、瑞々しい力が戻りつつあった。


「……邑人さん」

ユキオが声を出すと、邑人の足がわずかに緩んだ。


「邑人さん、僕、もう大丈夫です。降ろしてください」


「無理をするな。まだ研究所までは距離がある」


 ぶっきらぼうだが、そこには確かな安堵が混じっている。ユキオは邑人の肩に回していた腕を緩め、少しだけ強引に身を乗り出した。


「いえ、本当に。……それに、このままの姿で久美子さんに見られたら、絶対に心配して根掘り葉掘り聞かれちゃう気がします。あの"おばさん"の質問攻めに遭うのは、熊に追いかけられるより大変そうですから」


 ユキオの少し茶目っ気のある言い回しに、邑人は鼻で小さく笑った。


「……違いないな。あいつは執拗に追求してくるからな、俺でも骨が折れる」


 邑人はゆっくりと腰を落とし、ユキオを地面に降ろした。

自分の足で大地を踏みしめる。土の感触が、生きている実感を伴って足の裏から伝わってきた。


 ユキオは一歩、二歩と力強く踏み出した。少年の小さな決意が、その背中に宿っているのを邑人は黙って見つめていた。死線を越えた者の瞳には、以前にはなかった静かな光が宿っている。


「歩きながらでいいです。さっきの続きを聞かせてください」


 坂道を下る足取りは、先ほどよりずっと軽やかだった。ユキオは高揚感に突き動かされるまま、憧れの眼差しを隣の男に向けた。


「さっきの……『恒星域観測士』についてです。合格するためには、一体どれくらいの勉強時間が必要なんですか?」


 邑人英二は足を止めず、渋い顔で顎に手をやった。その表情は、まるで気の遠くなるような巨大な数式を頭の中で組み立てているようだった。


「そうだな……。一日の勉強時間を"8時間"と仮定しよう。宇宙で最も知能が高いと言われるルシファス星人で、"7,000日(約19年)"。つまり"56,000時間"だ。昆虫型生物のシルヴィー星人なら少し早くて"5,000日(約13年半)"、"40,000時間"といったところか」


 邑人はそこで言葉を切り、慈悲深い、あるいは残酷な視線をユキオに落とした。


「君たち地球人なら、ざっと見積もって"20,000日(約55年)"。トータルで"16万時間"、という計算になる」


「…………」


 ユキオの頭の中で、壮大な夢の城がガラガラと音を立てて崩落した。

1日8時間の猛勉強を、半世紀。合格する頃には、自分はもうヨボヨボの老人で、観測する前に自分の寿命を観測することになりそうだ。


「やっぱり……地球人じゃ文明レベルが低すぎるんですね」


 脳内をあんなに満たしていた多幸感セロトニンが、音を立てて蒸発していくのがわかった。絶望に肩を落とす少年を見て、邑人は悪戯っぽく口角を上げた。


「そうでもないぞ。働きながら学ぶという手もある」


「えっ……?」


 ユキオは顔を上げた。この男は何を言っているんだ? 16万時間のカリキュラムを働きながらこなすなんて、それこそ過労死の銀河代表に選ばれてしまう。


「地球にはまだ、この里山のように自然が循環している貴重な環境がある。ここを守っている『生態系事業者』の下で働き、体で覚えるんだ。そうすれば――"300日(約1年)、2,400時間弱"で、合格に十分な力がつく」


 16万時間が2,400時間に。あまりの極端なショートカットに、ユキオは希望と不安が混ざり合った、なんとも言えない顔で邑人を見つめた。

そんなうまい話があるだろうか? 怪しい通信教育の広告でも、ここまでの数字は出さないはずだ。


「その『生態系事業者』というのが、こいつらだ」


 邑人が銀色に輝く「分子共鳴転移装置」を指し示した。そのカプセルの中には、先ほどまで死闘(?)を繰り広げていた蜂たち――ミェリナ、ツェンドリカ、クロの3体の巣が、静かに、しかし厳かに収まっている。


「彼女たちは、生態系という現場のプロだ。しかも2億年以上前(三畳紀)に創業し、現代まで連綿と続く超のつく『老舗』。その祖業を発展させ続けてきた、宇宙でも稀有なエリート集団だ。彼女たちから直に学べば、人類でも宇宙最難関資格を突破できる。……あとは、君の覚悟次第だ」


 努力から覚悟へ。

ハードルが下がったのか上がったのか判然としない提案だったが、ユキオの胸にはなぜか、根拠のない自信がムクムクと湧き上がっていた。


(いける。いけるぞ!)


 なぜなら、ユキオには隠された「実績」があった。先々月、彼は地域の商工会議所が主催する『エコ検定』に見事合格していたのである。


「やります。僕、1年で合格してみせます!」


 地球の「エコ検定」と宇宙の「恒星域観測士」の間に、マリアナ海溝よりも深いレベルの差があることなど、今のユキオの耳には届かない。


 邑人は目を細め、今日一番の穏やかな微笑を浮かべると、その重厚な銀色の箱をユキオの手に託した。


「これを君に預ける。彼女たちの厳しい指導を受けなさい。来年、準備が整った頃に……迎えに来るよ」


 夕暮れの坂道、蜂の入ったハイテク箱を抱えた少年と、謎の観測士。

里山の平和を取り戻したはずの二人の間に、新たな(そしておそらく相当に騒がしい)修行の日々が約束された瞬間だった。

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