buzz.26 起業家ミェリナ
「いつもお世話になっています。よろしかったら、これ、どうぞ」
高柳家の明るいキッチンに、ミェリナの鈴を転がしたような、柔らかい声が響いた。
彼女が丁寧にレースのハンカチを敷いた食卓の上にそっと置いたのは、手のひらに収まる小ぶりの、しかしずっしりとした硝子瓶が3本だった。
エプロン姿で夕食の片付けをしていたユキオの母・静江は、手を止めて振り返り、目を丸くした。
「あら、ミェリナちゃん。これは……蜂蜜?」
「はい。私たちの群体が、感謝を込めて集めたものです」
ミェリナは少しはにかむように微笑みながら、細い指先でそれぞれの瓶を優しく指し示した。
「ひとつは、クローバーをメインにした春の花の混雑種(百花蜜)。もうひとつは、ミモザ――人間の方々の言う、ニセアカシアの蜂蜜です」
ニセアカシアやクローバーといえば、ミツバチの世界におけるいわば『一等地』の主力商品だ。蜜の分泌量が極めて多く、安定した需要を誇る、ミツバチ経済学における不動の人気生産物である。
「そして……最後の一本が、こちらに来てから新しく集め始めた『ハマゴウ』の蜂蜜です。少し独特な清涼感のある香りがするのですけれど、お口に合うといいのですが」
「まあ……!」
静江は思わず感嘆の声を漏らし、引き寄せられるように瓶の一つを手に取った。
窓から差し込む、暮れなずむ秋の残光。その光に透かされた3本の蜂蜜は、同じ「琥珀色」という言葉では到底片付けられない、驚くべき個性を放っていた。
純度の高い糖分が光を複雑に乱反射させ、光の回り方、屈折率がそれぞれ劇的に異なっているのだ。
クローバーの百花蜜は、まるでうららかな春の陽だまりを閉じ込めたような、瑞々しく気高いトパーズの輝き。
ニセアカシアの蜜は、とろりとした濃厚な甘みを予感させる、鮮やかで温かみのある淡黄色。
そして、この地で新しく開拓したという初秋の青い花・ハマゴウの蜜は、どこか神秘的で深い影を宿した、極上のパープルブラウンであった。
それは、ミツバチたちがその小さな羽で無数に往復し、地球の植物たちと紡ぎ出した、生きた「宝石」そのものだった。
「綺麗ねぇ……。こんなに美しい蜂蜜、見たことがないわ」
静江はうっとりと、まるで美術品でも眺めるように瓶を見つめた。
これら一流の生産物を、ただの「自然の恵み」ではなく、確固たる『蜂の採蜜行動の成果』として完璧に管理し、最も美しい形で人間に提示してみせるミェリナ。
そこには、ただ守られるだけではない、真社会性昆虫としての誇りと、高度なロジスティクスを誇るミツバチの女王としての、気高き経済学の知恵が確かに息づいていた。
「へえ、ミェリナちゃんのお家は、養蜂家さんだったのねぇ」
宝石のような蜂蜜の瓶を眺めながら、静江は感心したように声を弾ませた。それに対して、ミェリナは背筋をピンと伸ばし、誇らしげに胸を張って答える。
「はい。三畳紀(約二億五千万年前)からこの事業一筋で、代々受け継がれてきた由緒正しき家業です」
「あら、そうなの」と静江は微笑んだものの、頭の中には盛大に「?」が浮かんでいた。三畳紀といえば恐竜がようやく現れたくらいの超古代だが、きっと何かの伝統的な比喩か、あるいは老舗のちょっとした誇張表現なのだろうと、深く考えずにスルーすることにした。とにかく、この美しい蜂蜜を翌朝のトーストに塗って食べてみるのが楽しみで仕方がなかった。
そして翌朝――。
「ふあぁ……おはよう。母さん、なんか甘い良い匂いがする……」
まだ眠気の取れない顔で、パジャマ姿のユキオがリビングに起きてきた。
キッチンではすでにトースターが軽快なチンという音を鳴らし、焼き立てのパンの香ばしい香りが漂っている。静江は嬉しそうに振り返ると、まな板の上のトーストを指さした。
「あ、ユキオ、おはよう! ちょうどいいところに。昨日ね、ミェリナちゃんから手作りの綺麗な蜂蜜をいただいたのよ。あなたも学校に行く前に味見していきなさいな。本当に宝石みたいにキラキラしてて凄いのよ!」
「えっ、ミェリナの蜂蜜……?」
その言葉を聞いた瞬間、ユキオの眠気は一気に吹き飛んだ。
食卓の椅子に座って新聞を広げていた父・正平が、それを聞いてニヤリと笑う。
「おいおい、ミェリナちゃんの蜂蜜か! そいつは贅沢だな。静江、俺のトーストには、まずバターをこれでもかってくらい厚めに塗ってくれ。その溶けたバターの上に、さらに蜂蜜をたっぷり垂らすんだ。塩気と甘みの絶妙なマリアージュ……これが一番うまいんだよなぁ!」
「はいはい、お父さんは本当に高カロリーなものが好きねぇ」と笑いながら、静江はスプーンで琥珀色の美しい蜜を掬い上げていく。
しかし、そんな両親のテンションとは裏腹に、ユキオの顔はみるみるうちに複雑な、というか、引きつった表情に変わっていった。
ユキオの脳裏には、ある強烈なトラウマが蘇っていた。以前、ミェリナの精神世界に強制ダイブさせられる際、彼女に高濃度の蜂蜜(エネルギー塊)を飲まされ、そのまま蜂の体に強制憑依させられたことがあったのだ。
(待てよ……これ、ミツバチの女王直製の『本物の特級品』じゃん……)
皿に盛られた神々しいトーストを見つめながら、ユキオは引きつった声を出す。
「あのさ……母さん。これ、あんまり大量に摂取すると、俺、今日の授業中ずーーーっと居眠り、っていうか、そのまま気絶(昏睡)しそうなんだけど……」
「大げさねぇ、ただの甘い蜂蜜よ? 脳の栄養になって、むしろシャキッとするわよ」
「いや、本当にシャキッとする次元を超えて、魂に蜂の羽根が生えて空を飛んでいくようなやつなんだってば……!」
「おいユキオ、贅沢言うなよ。そんなに眠くなるのが怖いなら、俺が2枚とも食ってやろうか?」
「お父さんはコレステロール値が飛び上がるから、絶対にダメだ!」
バタバタとした早朝の空気の中、極上の「糖質の宝石箱」を前にして、一人だけガチの生命の危機(睡魔)を感じているユキオ。
高柳家の朝は、今日もいつも通り、妙な緊張感と賑やかな笑いに包まれていた。
【産直スーパーの目玉商品】
ミェリナから贈られた3本の宝石のような蜂蜜は、高柳家の食卓に留まらず、思わぬ形でその経済的価値を爆発させることになった。
ある休日、母の静江はその中の「ニセアカシアの蜂蜜」を贅沢に使い、特製のスコーンを焼き上げた。そして、自分がパートタイマーとして働いている、地元で人気の産地直売所(厨子市農政課の所管)に差し入れとして持参したのだ。
休憩室に集まったパート仲間たちがそれを一口齧った瞬間、空間の空気が一変した。
「――っ! 信じられない、何これ!?」
「この華やかな香りと、ベタつかない上品な甘さ……どこの高級洋菓子店で買ってきたの、静江さん!」
驚愕と絶賛の声に、静江は(…ステキなガールフレンドをゲットしてくれて、ユキオを見直したわ)と内心でニヤリとしながらも、上品に、そして少し得意げに胸を張った。
「ふふ、これ、私の手作り(自家製)なんですよ。実は、コレを使ったの」
静江がバッグから取り出したのは、例のミェリナの蜂蜜の入った硝子瓶だった。秋の陽光を浴びて、それはまるでカットされた本物の宝石のように、休憩室のテーブルの上で妖しく、美しく輝いた。
「この蜂蜜を使って作ったんです。よろしかったら、スプーン1杯ずつ、皆さんそのまま舐めてみます?」
静江が用意したプラスチックのスプーンの先へ、とろりと琥珀色の蜜を落とし、それぞれに手渡していく。
ペロリと舌に載せた瞬間、パート仲間たちの目がこれ以上ないほど丸くなった。
「な、何これ……!? 味も香りも、これまで売ってた蜂蜜と次元が違いすぎるわ!」
「口に入れた瞬間に、まるでお花畑にトリップしたみたい……!」
「でしょー? 息子の、ちょっと可愛いお友達からいただいたのよ」
静江が鼻高々に笑っていると、休憩室の入り口から「ほう、それは聞き捨てならないね」と、直売所の支配人が顔を出した。実はパートたちの騒ぎを聞きつけ、こっそり後ろでその様子を観察していたのだ。
支配人は真剣な目付きで蜂蜜の瓶を見つめ、静江に歩み寄った。
「高柳さん。その蜂蜜、うちの直売所で正式に委託販売できないかな?
うちのコンセプトは『厨子市発の極上品(Local Premium 厨子)』だ。これなら一瓶数千円のプレミアム価格でも、間違いなく即完売の大人気商品になるよ!」
「えっ、うちの店でですか!?」
予期せぬビジネスチャンスの到来だった。
その日の夜、高柳家の夕食の席。
静江から興奮気味に「直売所で販売したい」というオファーの話を聞かされたミェリナは、驚く風でもなく、優雅にスープを口に運んでから、あっさりと微笑んだ。
「いいですよ、静江さん。どのくらいご入用ですか?」
「えっ!? い、いいの? ミェリナちゃん」
ユキオがトーストの一件を思い出して「本当に大丈夫か?」と冷や汗を流す中、ミェリナの眼の奥には、真社会性昆虫としての極めて冷静な『経済学的計算』が走っていた。
「はい。私たちの群体の現在の生産キャパシティからすれば、週に数十本の定期出荷は十分に可能です。むしろ、人間の市場に私たちの正当な生産価値が認められ、流通経路が確立されるのは、我が家業にとっても大いなる前進ですから」
使われる言葉に、わずかな違和感を覚えるが、その返答の速さと、無駄のないビジネスライクな思考に静江は感心してしまった。
ミェリナはただの「可愛いハチの少女」ではなかった。三畳紀から家業を営んできた、圧倒的な歴史を持つミツバチ組織のトップ——すなわち、敏腕若手女性社長(CEO)としての手腕を、ここで完璧に発揮してみせたのだ。
「まぁ、嬉しい! 助かるわぁ。じゃあ、まずは初回お試しとして、三種類を各十本ずつお願いできるかしら?」
「かしこまりました。明朝には、最高品質のものを納品させていただきます」
ミェリナはきりりと美しい微笑みを浮かべ、静江と視線を交わした。
こうして、高柳家のリビングという極めて家庭的な場所で、人間とミツバチによる「歴史的な新規ビジネス商談」は、ものの数分で鮮やかに成立してしまった。
(俺の知らないところで、ミェリナがどんどん地域経済の物流を牛耳り始めている……)
「カレーおかわりいるぅ~?」暢気にカレーを配膳するクロは、おかわりを頼むミェリナから皿を受け取ると、芳醇な香りの『バーモントカレー』を注ぎ足していた。
ユキオは夕食のカレーを口に運びながら、未来の恒星域観測士としての視点で、目の前の小さな女王の計り知れない経営手腕に、ただただ脱帽するばかりであった。




