buzz.1 日常崩壊
今日は新学期の初日。高柳行男は、午前中で学校を出ると、何かに急かされるように家へと急いでいた。
「嫌な予感がする……」
胸のざわつきは、家が近づくにつれて確信に近い重苦しさへと変わっていく。
自室のドアを開けた瞬間、ユキオは凍りついた。
そこはすでに彼が知る「聖域」ではなかった。
——誰かいる。
それも、二人。
信じたくはない。まったくもって認めたくはない。だが残念なことに、これが現実らしい――という最悪の結論に、ユキオの思考はたどり着いてしまった。
目に飛び込んできたのは、金糸を紡いだような髪、彫刻家が徹夜で仕上げたような完璧な輪郭。そして、深淵を覗き込むような“静かな目”。
(……あの、蜂だ)
脳裏に過ぎるのは、あの夏、山奥の古民家で出会った邑人英二という名の風来坊。そして、彼と一年後の再会を約束した際に託された、あの不気味に輝く銀色の小箱だ。
その封印を解いた瞬間、現れたのは——自らを「女王蜂」と名乗る、三人の少女たちだった。
その「蜂」が、今、あろうことかユキオのパソコンで「美しいレンゲ畑・満開スポット」などと検索し、蜂特有の羽ばたき――毎秒二百五十回にも及ぶ振動をそのまま動作に転用したかのような速度で、マウスを連打(クリック)している。
「……遅かったわね」
彼女の静かな瞳に射すくめられ、ユキオの心臓はひっくり返るような衝撃に襲われた。
喉の奥がカラカラに乾く。親に知られれば最後、説明不能な事態に家庭崩壊の足音が聞こえてくる。そんな焦燥感とは裏腹に、眼前の少女はどこまでも凛としていた。
「……お前、まさか」
「ミェリナ。あなたの教育担当よ」
さらりと言う。その瞬間、ユキオの脳内では「親にバレる前にどう隠滅するか」というシミュレーションが、火花を散らしてショートした。
凛としたミェリナの言葉をかき消すように、背後のベッドから、綿菓子のように甘く気の抜けた声が漏れる。
ユキオがギチギチと首を回すと、そこには我が家のベッドを完全に制圧した二人目の少女がいた。制服のまま寝転がり、あられもないポーズで漫画を貪り読んでいる。
「おかえり〜。……ねえユキオ、これの続きは〜? 良いところで『続く』だなんて、読者の生殺しもいいとこだよぅ」
マルハナバチを思わせる、丸っこくて柔らかそうなフォルムをベッドに沈め、漫画のページをのんびりとめくるのは、蜂。マルハナバチのアバター、クロである。不法侵入者としての緊張感などどこへやら、まるで陽だまりでまどろむ蜂のように、完全に自分の家としてくつろぎ切っていた。
「ちょ、ちょっと待て! スカートの裾! 中が見えそうなんだよ!」
「気にしないでいいよ〜。どうせ減るもんじゃないし。あ、このキャラ死んだわ」
ページをめくる指先は、花畑を飛び渡るように軽やかである。
(軽い……。だが無理もない。自然界では、殺気の中に身を置くのが日常なのだから。)
死線を潜り抜けてきた「蜂」の端くれなら、この壮絶な殺し合いの描写に何を思うのか―――
「あはは、この敵キャラ、飛ばされ方が派手だねぇ」
血飛沫の舞うハードな戦闘シーンを、クロは、まるでお昼のバラエティ番組でも観るような手軽さで楽しんでいるらしい。その緊張感の欠片もない横顔に、ユキオは戦慄すら覚えた。
(自然界で命のやり取りをしてきた存在とはいえ、思考があまりにも軽い……!)
ユキオはこめかみを指で押さえ、決死の覚悟で「最重要事項」を口にした。
「いや、それより――お前ら、親に見つかってないよな?……」
一瞬の沈黙。
ミェリナは、新品のAIロボットのような無垢な顔で首を傾げた。
「さっき、お母様にご挨拶したわ」
「……は?」
「『ユキオさんの、とっても仲の良いお友達です』ってね。そしたら、あとでお茶とお菓子を持ってくるって仰っていたけれど。人間の礼儀作法って素敵ね」
「はあああああ!?!?!?」
ユキオの絶叫が部屋に木霊する。
「仲の良いお友達」? 母親に? この、美少女の皮を被った「蜂」たちが?
ベッドのクロが、ようやく漫画から顔を上げた。その瞳が「食料」というワードにだけ異常な反応を見せる。
「やった、甘いの来るじゃん! 脳にガツンとくる、糖質たっぷりのやつがいいよね〜。ねえ、おかわりも期待していい?」
(終わった……)
ユキオは、膝から崩れ落ちた。
明日からの学生生活をどうするか考える代わりに、彼は「母さんにどう言い訳するか」と「部屋に増えた異物」の処理を天秤にかけ——その両方が詰んでいることに気づいた。
(俺の普通の生活、今、音を立てて爆発四散したわ……)
階下から「ユキオ〜、お客様にロールケーキ切ったわよ〜」という母の明るい声が聞こえてくる。
それは、ユキオにとっての終焉のチャイムだった。
高柳行男は、拙著「田中オフィス」ep.72 第六十五話、里山再生文化祭(前編)とep.76 第六十七話、邂逅のパズル――の中で登場しています。




