庶幾
破門されても務めは、いつものようにあり師匠からの妨害が入るかもしれないと緊張していた。だが与えられた職務は、きっちりとこなすべきだと思い日々過ごしていたが解任されることはなかった。師匠達は、狩野流の門下生が浮世絵を描いたという醜聞を広めない方向に動いているようだった。
「そなたは妻を貰う予定はないのか」
「ご縁がないようで」
「いくらでもありそうなものだがな。大奥でもそなたの話が上がるぞ」
「大奥で私の話ですか。畏れ多いことです」
どのような話かまったくわからないが家治様のお顔を見るに悪い話ではないと思う。
「そなたは絵ばかりのような男らしいからの。絵に関する話で聞く。浮いた話もないので好いた人物もいないのではと話しておった」
「いいえ、好いた人物はおります」
家治様の手が一瞬止まる。本当に一瞬なので気のせいかもしれない。そもそも自分は、なぜ本人の目の前でこんな話をしているのか。
「その方は、私の手の届く方ではありません。いえ……伸ばしてはならぬ存在です。それでも恋しく思うのです」
家治様が家治様でなければ時富が時富でなければ会えなかった。もしかしたらいま話をしたのは、時富の思いなど知らずに過ごす家治様が恨めしかったのかもしれない。
「絵と関係ありませんのに長々と話してしまい申し訳ありませんでした」
「そなたが好いているのは誰だ。申してみよ」
「申しあげられませぬ」
「どうしてもか」
家治様の声が低くなり不機嫌そうに聞こえる。気分を害するほどそんなに人の恋路を知りたいのか。
「はい」
返事をすると家治様は、筆を置き鋭く熱い眼差しを時富に向ける。心の臓が掴まれたような感覚を覚え、蛇に睨まれた蛙のように動けずにいた時富に歩み寄った。
「上様……っ」
家治様がまた接吻するとは、まったく思っていなかった。動けずにいる時富に家治様が覆い被さる。
「誰を好いておる。答えよ」
「なぜ……! なぜ……こんなことを」
家治様の行動に驚き答えになっていない問を返すしかない。そういう経験などなくとも枕絵をみたことがあるから何をしたのかはわかる。だがなぜ時富にかたくなに答えさせようとするのか。
「逃げることは許さん」
「どういうことです、きゃぁ!」
いつもきっちりと着こなしている着物の袂がはだけられさらしを見られてしまった。
「御離しください」
暴れて抜けようとするが家治様は、びくともしない。さらに悪いことに暴れたせいか、さらしが少し弛んでしまっもういっそ泣きたくなってくる。
「……泣くでない」
家治様は、眉を下げ困ったような顔をして時富の頭を撫でた。なぜ家治様が困るのか。一番困っているのは時富だと思っていた。
「泣かせたいわけではないのだ。ただそなたが」
「私がなんだと申すのですか。このような仕打ちをなされるなど」
「それは、その……好きなのだ」
家治様は、好きと言ったのは気のせいかと都合のよいことばかり聞こえる耳と思った。思わず頬をつねりますがちゃんと痛みがありました。
「余が言うたにも関わらず無視か」
「夢ではないのですか。私を好きだと仰ったことが」
「……うむ」
日に焼けた頬がほんのりと赤くいろずく。たったそれだけなのに胸に抱いた恋情が疼いた。それと同時にあってはならぬ思いが溢れそうになる。目の前のお方が欲しいなど普段ならば自らの破滅しかもたらさないというのに否定出来なかった。
「私も好いております……」
蚊の鳴いたような言葉でも聞こえたらしく家治様の満面の笑みを浮かべた。その後のことは、白昼夢のように思えるほど幸福な時でした。
この関係により身が裂けるような痛みや苦しみを受けたとしても、絶対に同じことを言うでしょう。例え親不孝な選択であったとしても何度も何度も貴方様を好いていると。




