巣立ち
根岸殿が奥方を迎えた頃より、時富にちょっかいをかけることがなくなった。現在は、新妻が可愛いのか仕事が終わるとすぐに帰っている姿が目撃されている。根岸殿は、約束を守ったようで時富の秘密を師匠に話さなかった。
しかし時富の秘密が思わぬ形で狩野師匠に知られてしまった。文竜斎が絵を卸している店に時富が代わりに卸しに行ったことがあったが狩野流の絵師と縁遠いため問題ないと思っていた。しかし運悪く文竜斎の絵を催促されているところを、狩野流の門下生に見られていた。
「栄之! 浮世絵を描いていたな」
「描いておりません」
そのことに気がつかず久々に師匠の元へ向かうと、鬼神の如く怒りを顕にした師匠が門前に仁王立ちで立っていた。師匠の後ろには、頭を押さえた竹徳がいる。その顔には、引っ掻き傷がみられるのでもしかしたら師匠を止めてくれたのかもしれない。
「火のないところに煙はたたん! 破門だ! 狩野流を名乗ることは許さん。塩を持ってこい!」
弟弟子の徳次が見たこともないような冷たい視線で時富を見て手元の塩を師匠へ渡す。師匠は、塩を手渡されると力いっぱい時富へ投げつけた。
「二度と敷居を跨ぐでない!」
自らが撒いた種といえ拠り所としていた場所を追い出されると、心の臓が軋むような痛みを感じる。師匠は、格式高く頑固だから時富を許してくれるとは思えない。たぶんこれが最後に会う機会だろう。肯定をしていないが浮世絵を描いたのは事実なのだから。
「いままで……お世話になりました」
師匠に向かって頭を深く下げる。せめて礼に則り義の心を返す。これは、時富の自己満足のための行為でしかない。許す、許さないの問題でなく時富が一番悪いのだ。それから師匠の屋敷が見えぬ所まで駆け出す。
私は侍。こんな顔など人様に見せられられない。
「時富!」
竹徳兄上が腕を掴み引き留める。その後ろには重信兄上までもがいたが走り慣れていないのか少々息が切れている。
「浮世絵を描いた原因は俺のせいか」
「……いいえ、私の意志です。学びたいと思う浮世絵師にあったのです。そこに徳松兄上は関わっておりませぬ」
「でもお前破門されたら……」
「時富」
詰め寄ろうとする竹徳兄上を重信兄上が止めて時富を見る。水面のように凪いだ瞳は、前と変わっていなかった。
「はい」
「己が為すべきことを見つけたんだな」
「はい」
これは前に時富が重信兄上に相談したことからくる問だろう。あのときの自分は、進むべき道が見えず足元にしがみついていた。今も先が見えないのは変わらない。だが見えないなりに考え進もうとする時富がいた。
「ならいい。……精進しろ」
それだけ言うと重信兄上は、私に背を向けて帰って行く。竹徳兄上は、時富と重信兄上を交互に見る。
「時富、本当にいいのか。今謝れば……」
「いえ、もう無理でしょう。あそこに私の居場所はありませぬ。ならば先が見えずとも進むつもりです」
「……変わらないんだな。困ったことがあったら手紙を書け。飲みに連れていってやる」
いつもの軽い笑みを浮かべて竹徳兄上は、言うがその目に光るものがあることは言うまい。これは武士の情けであり同じ志を持つ兄弟子への精一杯の気遣いでもある。
「それは……よい提案です。そのために字の練習をしてください。今の竹徳兄上の手では私は読めません」
「悪かったな! 字が下手で! 俺は、時間をかけて書けばちゃんと綺麗に書けるんだよ。だから、それを確認するためにもちゃんと出せよ」
「はい」
お互いにさよならとは言わなかった。また会うことを願っていたから自然と口から出てこなかったのだと時富は、この時のことを思っている。




