計略
自覚してもこの思いが成就することがあるはずもなく。そしてあの出来事などなかったかのように家治様の態度は変わらない。突然変えられても困るがふとした仕草が目に入り瞼に焼きついた。
「また美人画か。その題材お前さん好きだなぁ」
師匠に言われ見ると確かに自分は、美人画を描いていた。すらりとした立ち姿に清らかな雰囲気の美女。このような女ならば並びたてば非常に似合いで堂々と家治様と共にいられるだろうか。
「……憧れでしょうか」
「なんだいいとこのお嬢さんにほの字なのかい。柳腰でうなじがいろっぺぇな。にしては媚びないつれなそうな感じも……」
にやにやと気持ちの悪い顔を師匠が浮かべるがあながち間違いではないのではないので曖昧な笑みを返すだけに留めた。短い期間ではあるが目の前の人物がどんな人物なのかある程度理解したつもりだ。おおかた今は相手が誰か、これは師匠として弟子の恋を応援しようという下世話なことを考えているに違いない。
「絵を描いて自分を慰めるほど好きなのかこりゃあわしの出番じゃな!」
小汚ない着物の袖を捲り息も荒くいうので時富の推測が間違っていない証拠だった。余計なお世話でありもしも絵の中の娘がでてきても恋仲になどなろうはずもない。
なにせ女なのだから。
「師匠、松江屋さんに頼まれてたものはできたのですか」
「あっ、やってない! あれの金を貰わんとおまんまくえんのじゃ」
師匠は、慌てて机に向かう非常に扱いやすい師匠で弟子としてとても助かる。みんな師匠のように扱いやすいといいのだけれどと時富は思う。
最近になってまた根岸が時富のことをかまいだしたのだが、以前は同じ役につく仲間として一定の距離で過ごしていた。だが最近は、それを越えて体の接触が多く肩や腕を掴んだりなどだ。それだけならば寺子屋時代によくしたものだからよいが後ろから抱きつき耳元に話しかけるのは危険だと思っていた。そもそも近すぎる距離は秘密がばれてしまう危険性を帯びており不敬だ迷惑だと言ってしまえばよかった。
時富は旗本の当主で、根岸は細田家に劣る家系の三男坊。まして出世街道ともいえる小納戸役にいるので 身分の違いは明らかなのだが心優しかった父の血か強く拒否出来ないでいた。精一杯拒否しても『元同じ役をしていたのにつれないじゃないか』などと言われれば冷血漢ではないので無下にできない。
仕方ないので最近は、同じ小納戸役の立花仁三郎と行動を共にして回避しているが、仕事仲間がいるときは過剰な接触をしない。
ましてこの立花は、小納戸役を武術の腕でなった人物であり『たちばな』勘定吟味役の橘の従兄弟であった。現在橘は、管轄先が江戸でなくなり城に登城が少なくなり上が違う(勘定吟味役は老中、小納戸役は若年寄りの管轄である)ので立花に時富のことを頼んだのだった。
「また絡まれたか」
「いいえ」
誰にと聞かずとも立花が言いたい相手はわかっているが、安心したように強面の顔が少し弛む。
「お前に何かあると妻になじられる」
「立花殿は、本当に奥方がお好きですね」
立花は、苦虫を噛み潰したような顔をして黙りこむが、ただ照れているだけでその証拠に耳が赤くなっている。
時富が安心して関わっているのはこの立花の性格とその奥方の気性ゆえであった。以前屋敷に行った際に奥方になぜか非常に気に入れられ美味しい菓子と茶をいただいた。なぜこんなに気に入られたのか尋ねると乙女の秘密だと言われた。だが時富と橘殿と一緒にいると殊更喜んでいる気がする。
それからしばらく経ちうっかり一人で歩いているところを根岸に見つかった。
「時富、俺の屋敷で酒を飲まないか」
「本日は、これから当主としての務めがあるので御免いたす」
本来ならば休みの日に終えているので真っ赤な嘘だが、立花いわく根岸は当主ではないので当主としての仕事がわからないので引くであろうと言っていた。
「それならばいつ空いてる?」
「ここしばらくは、忙しいのでわかりませぬ」
時富が言うと根岸は、襟を掴み耳に呟く。
「行かないというなら 、文竜斎という人物のところで浮世絵を描いているとお前の師に話す」
「……っ」
そんなことをされれば狩野流を破門される上に、師匠の口添えがあってつけた役なので役を下ろされ左遷もありうる。弱みをつくりあまり深く対処していなかった時富の完全な落ち度で、まさかここまで姑息な手段まで使うとは思っていなかった。文竜斎の名が出たのだはったりではないのだろう。やられた、これでは断れない。
「来てくれますよね」
「はい」
雰囲気に飲まれることだけ冷静に見て判断しなければならない。
「ずいぶん酒が多いのですね」
そこそこ広い部屋に通されたのだが次々と酒の壺が置かれ一区画を占領していた。
「うちは飲むのが多いからな。よく兄と飲み比べをする」
「うちは、妹と私と使用人しかいませんからね」
祝い事などになれば飲むが普段は、客人でも来なければあまり飲まないのでない。
「なら今日は、存分に飲め」
根岸殿は、透明に光る酒を杯に酒を注ぐ。鏡面のように清らかな酒には、途方にくれた時富の顔を映した。本当に根岸殿は、自分と酒を飲むためだけにつれてきたのか。ひとまず考えるのは後にして注がれた酒を飲む。
「……辛い」
「安い酒じゃ駄目か。ならこれはどうだ」
杯に新しい酒が注がれ飲んでみる。これもまた飲むが先ほどと違い酒精と米の香りが豊かで非常に美味だった。
「……うまい」
「そうか、そうか。やっぱりこれは、うまいか。これは、兄貴のとっときの酒の一つだしな」
「それは根岸殿の兄上に悪い。これ以上は、止めよう」
「そういわずに、飲めって」
また杯に酒を注がれた。自分ばかり飲んでいるのも悪いので先ほど辛いと言った酒を注ぐ。前に話していたときに辛口の酒が好きだと言っていたはずだった。
「今度は、私が注ぎましょう。さぁ」
根岸殿に杯を持たせて注ぐがあまり注ぎ過ぎると溢れるので程々にする。
「時富が注ぐと安酒が御酒に見えるな」
「まだ飲んでいないのに酔われたのですか」
顔や首が赤くなっている様子はなく、酔っているか判りにくい体質なのだろう。
「そうかもな。夢でも見ているような気がする」
「まだ夕餉頃ですよ。もう一杯いかがか」
「いただく」
そしてしばらくすると根岸殿が酔いつぶれ酒の壺を抱きしめてなぜ時富の名を呼ぶのか。とにかくこのままにするのも悪いので戸を開けそこら辺にいた使用人に根岸殿のことを頼む。使用人は、部屋に入ると鼻をつまみ目を見開いていた。
「細田さま、この数を二人で飲んだのですか」
「私と根岸殿しかいなかったはずだが」
「細田さまは、酒にお強いのですねぇ」
「そうかもしれません。兄弟子が私を笊と仰っていたのでな」
意外にも竹徳や信重と飲みに行くことがある。対照的な二人だったが話上手と聞き上手なので無理に話さなくてもよく居心地がよい。そんな二人と飲んだ時に言われたのだった。
「朝になったら梅と大根おろしを使った料理を食べさせてみてください。あの様子ならば二日酔いになるでしょうが多少は、楽になるはずです」
一人酔いつぶれる竹徳兄上がそう仰っていた。自分自身がそこまで酔わないからどのように良いのかわからぬがよくなることを願う。
「わかりましたぁ。明日の献立に入れるように言っておきます。はい」
なぜ鼻をつまんだままなのかわからないがとりあえず例を言い根岸殿の家を後にした。それにしてもただ酒を飲むだけならばあんな脅しをせずとも行くのにと思っていた。
その半年後に根岸殿は、結納したと風の噂で聞いた。
お酒はほどほどにしましょう




