第三話 『難し過ぎる案件』
放課後のグラウンド。夕日が差し込むトラックの脇で、先輩のB氏に呼び止められた。
いつもおどおどしているB氏が、今日に限ってはやけにしつこい。
「あの、聖ちゃん……。ちょっと、お願いがあるんだけど」
B氏は指先をモジモジさせながら、消え入りそうな声で言った。
「何ですか、B先輩。私、これからクールダウンのランニングなんですけど。なので、手短にお願いします」
俺は汗を拭いながら、アスリートとしていつも通りのハキハキとした口調で返した。
「その、ランニング、なんだけどさ……。僕と一緒に、走ってくれないかな」
「はっ、ランニング? それなら別に構いませんよ。先輩が私のペースについて来られるなら、ですけど」
ふっ、と笑って走り出そうとした俺を、B氏の声が引き止めた。
「待って! ……ただ走るんじゃなくて、条件があるんだ」
B氏は急に強い目付きになり、ぐっと距離を詰めてきた。気弱なはずの男から放たれる、妙な圧力に一瞬身構える。
「僕も……聖ちゃんと同じ、女子のセパレートユニフォームとレーシングブルマーを身に着けて、一緒に走りたいんだ。ダメ、かな?」
「は……?」
あまりの衝撃に、声が裏返りそうになった。
前回のあの一件、下着泥棒のA氏のときもそうだった。
「ちょっと、冗談はやめてください。意味がわかりません」
俺は不快感を隠さず、ぴしゃりと言い放った。
「冗談なんかじゃじゃないよ! お願い、聖ちゃん。一度だけでいいからさ。僕、どうしても君と、その……同じ格好で風を感じて走りたいんだ!」
弱々しいくせに、こちらの都合を無視して押し切ろうとするその態度に、俺の心の中でフツフツと怒りが湧き上がってきた。
(なんなんだよ一体……。こいつら男の連中は、女のことを一段下にとでも思ってんのか? だから、こんな無茶苦茶な要求を押し通せると思ってやがんだ。舐めやがって)
「きっぱり、お断りします」
俺は一歩前に出て、B氏の目を真っ直ぐに見据えて、凜とした声で告げた。
「先輩の趣味に付き合う暇はありません。正直、キモいです。……二度と、私に近づかないでください」
そう言い捨てるや否や、俺は踵を返してその場を去った。
数日後、陸上部女子専用のライングループが激しく炎上していた。
画面を開くと、一本の動画が転送されてきている。場所は、真っ暗な夜の校庭。街灯に照らされた闇の中、女子のセパレートユニフォームとレーシングブルマーを身にまとい、必死にトラックを疾走するB氏の姿が映っていた。
グループラインのタイムラインは、一瞬で嫌悪と嘲笑の嵐になった。
『うわ、マジで無理!!キモすぎるんだけど!』
『え、これB先輩?ウケるんだけどwwwお腹痛いwww』
『変質者じゃん!即通報レベルでしょ、これ』
スマホ片手に持ち、女子部員たちが大騒ぎしている中、俺も冷めた目でスマホを見つめていた。
「もういいよ、キモいからこれ以上見たくない。あとは勝手にして」
俺は画面を閉じて、吐き捨てるように呟いた。
動画はまたたく間に学校中に拡散され、それをきっかけにB氏は学校に来なくなったらしい。
はたから見れば、それは滑稽でしかなく、自業自得だ。
ぶっちゃけ、普通にキモいと言われても仕方ない。
――けれど。
夜の風を切りながらがむしゃらに走るB氏の顔が、なぜか頭から離れなかった。
あの歪んだ必死さの中に浮かんでいた、何かもぎ取らんとするような表情だけは……
確かに、泥臭い青春そのものだった。




