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第一話『孔雀緑の青春』

 三年前の、四月一日。目が覚めたら、俺――天上聖てんじょう・せいは、女の子になっていた。


 ……冗談抜きで、意味がわからない。

 理由なんてない。説明もない。

 前兆も、予告も、神様からの謝罪文も、何一つとしてなかった。


 ただある朝から、そういう世界に強制的に書き換わってしまっていた。それだけのことだ。


 そして、原因を探すだけ無駄だと悟るのに、そう時間はかからなかった。


 誰に詰め寄っても、誰も「おかしい」とは言わないのだ。


 母親に泣きついたって、「寝ぼけてないで早く着替えなさい」と呆れられるだけ。


 俺が女の子として生まれ、女の子として育ってきた――。

 それが、この世界の『当たり前』であり、絶対のルールらしい。


 だったら、俺に選択肢なんてあるはずがなかった。

 嘆いたって、何かが変わるわけじゃない。


 受け入れる。


 それ以外に、一体何が出来るというのか。


 それから、三年が過ぎ、俺は完全に女子中学生としての三年間をサバイブし終え、この春、晴れて女子高校生になった。


 女子の生活には、それなりに慣れた。

 スカートの捌き方も、ブラジャーの正しい付け方も、女子特有のちょっと高いトーンのノリだって、今ではそれなりに熟せる自信がある。


 だけど――。


「……よし。うん、乱れはない。いこう」


 姿見の前で、俺は自分のポニーテールをきゅっと結び直した。


 鏡に映るのは、孔雀緑ピーコックグリーンの陸上用セパレートユニフォームに身を包んだ、一人の女子アスリートだ。


 胸元を覆う面積の少ないノースリーブのトップス。

 そして、脚の付け根まで大胆に露出したレーシングブルマー。


 かつて都内FCのエリートクラスで泥にまみれていた元男子サッカー少年――天上聖の現在の姿だった。


 勘違いしないでほしいが、俺はこの格好自体に文句があるわけじゃない。

 

 中一から陸上に転向した俺にとって、このユニフォームは一分一秒を削り出すための『機能性を最重要視したユニフォーム』だ。

 走る時の空気抵抗を極限まで減らし、足さばきを邪魔しないための究極のデザイン。

 アスリートとして、その合理性にはミリの不満もないし、むしろ誇らしいとさえ思っている。


 俺の魂は、サッカーから陸上競技に転向しても、変わらず全国の頂点を目指す熱血男子アスリートのままだからだ。


 問題は、服の布地の面積ではない。

 それを囲む『空気』の方だった。


 新入生向けの部活動オリエンテーション。その目玉である、陸上部によるデモンストレーション走行の時間がやってきた。


 校庭のグラウンド。その周囲を、何百人という一般生徒たちが取り囲んでいる。


「次、女子リレーのデモンストレーションやりまーす! 位置について!」


 マネージャーのハキハキとした声が響く。

 俺を含めた四人の走者がレーンに入った瞬間、周囲の空気が、独特の『熱』を帯びて変わるのがわかった。


(……これだ。これだけは、どうしてもまだ慣れない)


 ざわざわ、と、特に男子生徒たちの視線が一斉にこちらに突き刺さる。

 

 それは、純粋に競技としての陸上を見る目ではない。

 剥き出しになった太もも、引き締まった細い腰、スポーツブラに包まれた胸の膨らみ――女子アスリートの肉体を、好奇と品定めのフィルターを通して舐めるように見つめる、生々しい異性の視線だ。


 嫌悪、に似た違和感が、背筋をチリチリと灼く。

 男だった頃の自分なら、こんな視線を意識することすら絶対になかった。


 世の女子たちは、四六時中こんな熱を帯びた視線に晒されながら生きているのだろうか。

 本来なら「気にするな」と自分に言い聞かせるべきだし、慣れるしかない性質のものなのだろう。


 けれど、元男子の俺にとって、その『向けられる側』としての好奇の目は、いまだに心の奥をざわつかせる奇妙な重圧だった。


「聖ちゃん、緊張してる? 大丈夫だよ、いつも通りね!」


 第一走者の三年生の先輩が、爽やかな笑顔で声をかけてくれた。

 先輩たちは、スレンダーながらもしなやかな筋肉をまとった、まさに洗練された女子アスリートの雰囲気そのものだ。

 周囲の雑音なんて一切耳に入っていないように、凛として佇んでいる。


「はい! 先輩、バトン、バッチリもらいますから!」


 俺も、努めてさわやかな笑顔を返した。

 猫を被っているわけじゃない。先輩たちへの敬意と、走ることへの純粋な高揚感が、自然と私を女子アスリートの顔にさせるのだ。


(グラウンドに入ったら、男も女も関係ねえ。走るに集中する。ただ、それだけだ)


 内心の熱血漢が、ぐっと拳を握りしめる。

 俺はアンカー。第四レーンのスタート位置につき、前を見据えた。


 ピィィィッ――!


 ホイッスルが鳴り響き、第一走者が爆発的なスタートを切る。


 周囲の歓声が一気に跳ね上がった。

 流れるようなコーナリング。

 第二走者から、第三走者へ。

 

 バトンが、完璧なタイミングで繋がっていく。

 

 走者が近づいてくる。俺の歩数に合わせたマークを、先輩の足が踏み越えた。


「ゴーッ!」


 先輩の鋭い声と同時に、俺も前を向いたまま加速を開始する。


 数歩。一気にトップスピードへ。


 元サッカー部仕込みの爆発的な一歩目の踏み込みと、三年間の陸上で培ったしなやかな体幹が、奇跡的なバランスで融合する。


 右手を後ろへ。


 そこに、パシィィンッ! と、完璧な手応えでバトンが収まった。


「聖、いっけぇー!」


 先輩の声を背中に受けながら、俺は前だけを見て足を回した。

 風が、全身を通り抜けていく。

 

 機能性を追求したユニフォームは、私の走りを一切邪魔しない。

 

 周囲の好奇の視線も、生々しい空気も、すべてが引きちぎられ、視界の後方へと置き去りにされていく。


(気持ちいい――!)


 脳内が真っ白な快感で満たされる。

 地面を蹴るたびに、女子の体だからこそ得られる、バネのようなしなやかな推進力が全身を突き抜けた。


 他を寄せ付けない圧倒的なスピード。


 俺はそのまま、一本の孔雀緑の矢となって、誰よりも早くゴールのテープを駆け抜けた。


 ――ワァァァァァッ!


 一瞬の静寂の後、校庭を包んだのは、さっきまでの好奇混じりのものとは違う、純粋な『歓声と称賛』の嵐だった。


「はぁ、はぁ……っ!」


 スピードを落とし、大きく息を弾ませながら振り返る。

 一般生徒たちの目が、今はただ「凄いものを見た」という興奮に変わっていた。


「ナイスラン、聖! やっぱりあんたのアンカーは最高に決まるわね!」


 駆け寄ってきた先輩たちが、私の肩を叩いて笑い合う。


「ありがとうございます! 先輩たちのバトンが最高だったおかげです!」


 俺は汗を拭いながら、心の底からさわやかな笑顔を咲かせた。

 

 だが、あの好奇の視線には、いまだ慣れそうにない。これからも、走るたびに、生活するたびに、元男子としての違和感に戸惑う日々は続くのだろう。


 元男子高校生・天上聖の、女子アスリートとしての熱い青春が、今ここに幕を開けた。

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