仮面
それから暫く、健介は鬱々とした気分で過ごしていた。
そこへ痺れを切らした明陽がとうとう健介の教室にやって来たのだった。
やはり中へ入る事はせず、廊下から少し頷いて合図を送る。
健介が慌てて廊下へ出ると、明陽は二階へ上がる階段の踊場へ向かった。
健介も黙ってその後に付いて行った。
「健介、どうして来ないの?」
付近に人影が無い事を確認してから明陽は責める訳でもなく穏やかに問い掛けた。
この時健介は初めて明陽に違和感を覚えた。
この柔らかな雰囲気にまるで感情が読めないのだ。
これまではそれが明陽の性格からくるものだと思っていた。
だが今は何かが違うような気がした。
「それは……」
健介が視線を落とす。
「聖に呼ばれたそうだね?何か言われたの?」
「いいえ」
「そう……じゃあどうして来なくなったの?」
明陽の声は人を包み込むように柔らかい。
「明陽さんと僕とじゃ……釣り合いません」
健介は顔を上げて答えた。
「悲しいこと言うんだね……僕達はまだ高校生だよ、そんな事考えるのは大人だけでいい……そう思わない?」
明陽は健介をじっと見詰めている。
「でも……それが事実です……」
「健介だけは……そんな事気にしないと思ってた……」
明陽が一瞬悲しげな顔を見せた。
「買い被りです……」
「そう……分かった……でも気が変わったらまたあそこへおいで、僕は毎日待ってるから……」
明陽はそれだけ言うと、階段を降りた。
降りきったその脇に一条和が立っているのを見て、明陽は小さく微笑みかけただけで去って行った。
一条は暫くその後姿を見送っていたが、意を決して階段を駆け上がった。
「ちょっと来て!」
一条は踊場でまだボーっと佇んでいる健介の手を引いて階段を上がって行った。
彼はこの紫苑に二つ有る修養室の一つ、一年の教室の有る南校舎側の修養室へ健介を連れて入った。
「健介、あれだけ言われてもまだ明陽兄さんを避けるつもり?」
「聞いてたの……?」
「そんな事はどうでもいい!どうなの?」
「どうって言われても……僕じゃなくても明陽さんなら他にいくらでもいるのにどうして僕なんか……」
「本気で言ってるの?」
何時もの柔らかい感じと違って一条は険しい顔をしている。
「だって……どう見たって僕じゃ釣り合わない……」
健介の顔も険しくなる。
「健介……今、明陽兄さんが何処に住んでるか知ってる?」
フッと力が抜けたように一条が唐突な質問をした。
「……」
健介が眉間に皺を寄せて何の事かという顔をした。
「明陽兄さんはね……九条家に住んでるんだよ」
「え……?それどういう事?」
「兄さんは言わば生贄なんだ……」
一条が少し辛そうに眉を顰めた。
「生贄?」
健介が眉間の皺を深くした。
一条は軽く頷いた。
「そうだよ……明陽兄さんの利発さと温厚さが九条のおじさんに気に入られて……それで九条さんの遊び相手兼お目付役にと請われたんだ……久我家はそれを断れなかった、それどころか九条家との繋がりが強固になるからと喜んで明陽兄さんを差し出した……」
「でも、それがどうして九条家に住む事になるの?」
「それは紫苑の中等部に入る時、九条さんが熱望したんだ……一緒に住みたいって……だから九条家に移り住んだんだ」
健介は話しを聞きいているうちに九条が『明陽は俺のものだ』と言った意味が段々と分かってきた。
聖と明陽の関係は九条家と久我家の関係そのものなのだ。
明陽は九条家と久我家の間で拒絶する事もされる事も許されず、大人の取り決めに従うしかなかった。
そして九条はそれを上手く利用して明陽を縛り付けているのだ。
「兄さんはカゴの中の鳥だよ……何処にも逃げられない……だから僕は兄さんを解放したいんだ」
「解放……」
「兄さんをよく見て……あの柔らかな笑顔は仮面だよ……自分を守る為の仮面……柔らかくて人当たりが良くて……そうやってずっと自分を押し殺してきた、久我家の為に……」
健介は明陽に感じた違和感が何なのか分かったような気がした。
「僕は兄さんに思いっ切り笑ってほしい、思いっ切り泣いてほしい……健介と出会って少しずつ感情を出すようになったと思ってたのに……」
「そんな……僕なんか……」
「僕は小さい頃から兄さんが好きだった。でも、健介と居る時の兄さんは楽しそうで……健介なら兄さんを任せてもいいと思ったのに……」
「一条君……」
「きっと九条さんはこれから先も明陽兄さんを手放さない、だから僕は……今直ぐには無理でも、大人になったら必ず一条を九条に匹敵するくらい大きくして明陽兄さんを解放するんだ、九条家からそして久我家から……」
「久我家から?」
「久我家の人間でいる限り兄さんは九条家から離れられない」
「……」
「健介がハッキリしないならもう兄さんは譲らない、僕が言いたい事はそれだけ」
一条は黙っている健介に向ってそう言い残すと、修養室を出て行った。
(凄いな……明陽さんのためにそこまで将来の事を考えてるなんて……)
健介は自分が情け無くなった。
今思うと考えていたのは自分の事ばかりで、はたして明陽の気持ちを考えたことがあっただろうか?
一方的に自分の考えを押し付けていたに過ぎないのではないか? そう自問せざるを得ない。
(あの柔らかな笑顔が仮面だなんて……)
裕福な家に生まれ、何不自由無く育ってきたと思っていた明陽が、自分には考えられないような環境に置かれることで、柔らかな物腰と笑顔という鎧と仮面を身に着けたのだとしたら、余りに残酷だ。
健介は明陽が家柄や財力を取り払った一人の人間として、ただの高校生として接して欲しかったのではないかと、今更のように思えて申し訳無い気持ちでいっぱいになった。
(自分は明陽さんのために何が出来るんだろう……?)
修養室に取り残された健介はそんな思いに一人悩むのだった。




