英雄の主
「じゃあ良かった。二人を着替えさせて、首元を隠してやってくれ。そして、現地集合だ!」
雑貨屋相手に商品を物色していたところ、彼は突如として現れた。
丁寧で律儀な彼が一切合切を省いてあたしに二人の子供を託したことから、並々ならぬ事情があったことは即座に察せられた。
だが、それでも問いたいことはあった。
彼は根こそ優しい人間ではあるが、無闇に危険を冒すようなことはしない。一時の情に流されて、奴隷を助けるなんてことはしない筈だ。
何せ、そんなことをすれば枚挙にいとまがない。可哀そうな奴隷なんて星の数ほどいるのだから。
故に、あたしは宗一が何かひっ迫した理由があると思ったのだけれど……。
その事情すら聴けないまま、彼は嵐の如く去って行ってしまった。
とはいえ、説明を放棄したというわけでもなかった。
彼から託された一冊の魔導書に目を落とす。
オールドマギ。意志を持つ魔導書。未だにそんな魔導書が実在するなんて信じられないが、あたしは宗一が彼に絶大な信頼を寄せていることを知っている。
二人の間に割って入る余地はなく、今朝も苦しみを彼に吐露していた。そのことを少し悔しく思いもしたが……。
彼が切羽詰まった状況で、真っ先にあたしを頼りにしてきてくれたことは素直に嬉しかった。
「辛いとは思うけど、あたしの後をついてきて!」
宗一は元来た道へと戻っていった。追手の注意を引き、この姉弟を逃すためだろう。
彼が稼ぐ時間を無駄にするわけにはいかない。
あたしは荷物をまとめ、オールドマギを仕舞うと彼女の弟を背負って走り出した。
返事を聞いている時間はなかった。でも、弟を追って彼女が懸命に後ろを走っていることはすぐに分かった。
人目を憚るようにして、家へと向かった。
マルクスタ家の連中は宗一があたしと組んでいることを知らない。
あたしの保有する私的な空間は下手な宿屋よりよっぽど安全だ。
「走らせてごめんね。痛かったよね?」
扉を閉めるなり、自分より年下と思われる女の子に声をかけた。
酷い奴隷商に捕まったのだろう。痩せこけており、全身が打撲や裂傷まみれだった。
良識、というか。賢い奴隷商であれば、自らの商品である奴隷の価値を貶めることはしない。三流以下の、どうしようもない奴のところにいたのは明白だった。
何せ、あたしがそうだったから。
幼い頃のあたしは、アイリスという名前以外何も持たない不愛想な女子だった。
自我が芽生えた頃から奴隷であり、自分の価値を上げるために様々な技芸を仕込まれた。顔が整っていて、基本的なことがこなせるという触れ込みで最初こそ高値がついたものの、愛想がないという理由で色んな人の手元を転々とした。その所為で、あたしの値段はどんどんと落ちていき、最終的に酷い奴隷商の下へと行き着いた。
そして、この少女と同じ状況に陥ったのだ。
気に入らないことがあればすぐに痛めつけられた。顔つきが気に入らないという、しょうもない理由で殴られることなんでしょっちゅうだった。
そんな奴隷商を見て、ある男がこう言った。
「おいおい。三流もいいところだな、おい!」
見慣れない顔つきの男だった。奴隷商の誰何する声に、男は加藤と名乗った。
あたしの、養父となった人物だ。
お父さんは、その商人がどれほど損をしているのか滔々と言って聞かせた。最初に挑発したのも、説明中に出した途方もない金額も、今では全てハッタリやポージングだったことが分かる。
お父さんは指導料と称して、あたしを引き取った。驚いたことに、奴隷商はそれを快く受け入れていた。
そんな奴隷商を見て、お父さんは一言呟いた。
「あいつ馬鹿だわ。ネズミ講とか引っかかりそう」
お父さんは実にいい加減な性格をしていた。だらしがなく、自分の身の回りのことが異常にできなかった。
身辺の世話をしてくれる奴なら誰でも良かった、と養子であるあたしに言ったので相当だ。
ただ、それが丁度良かった。疑心暗鬼で、暗かったあたしにとって商売以外適当なお父さんは見ていて気持ちが良かった。
「俺はね、金を稼ぐことでしか生を実感できないのよ。お前はこういう風になっちゃ駄目だからな。金より尊いもの、信頼を得られるような人間になれ」
「……あたしは加藤を信じてる」
「マ? 信じられねぇな、俺を信用するとか目が腐ってんじゃねぇの?」
どう考えても子供に吐く台詞ではない。
「俺を信じてるっていうなら、ちょっと犬の声真似してみろ」
あたしは犬のように啼いた。
「え、マジ。引くわ」
「……殺す」
「メーンゴ! ごめんて! 詫びといっちゃなんだが、お前に俺の名前くれてやるよ」
「え?」
どうしようもない人物で、経緯こそ適当なものであったがあたしにとって、彼は信用できる養父だった。
日本語を始めとしたあらゆる言語、人の騙し方、商売の仕方、人の見方等。様々なことを教えてくれた。金に関することには実直で、教えてくれる際は人が変わったかのように別人みたいだったことを覚えている。恐らく、普段の投げやりな態度が仮面であり、実直なときこそが本性とも言うべきものだったのだろう。
今となってはもう、確かめる術はないけれど。
とにかく、あたしは幸運だった。
そしてそんな幸運は、逃せば二度とやってこない。
だからだろう。あたしが彼女の言葉を許せなかったのは。
「……迷惑をかけてごめんなさい。私は出ていくわ」
一番衰弱していた弟の手当てをして、寝かせつけたところ、銀髪の少女が切り出した。
「弟のことを、お願いします」
そう言って出て行こうとする彼女の肩を掴み、引き留めた。
「もう迷惑は被ってるのよ。今更あんたが戻ったところでどうしようもないの」
「……でも」
「あたしの相方が、命懸けであんたらを救い出した。そのことを無駄にしないでくれる?」
我ながら、子供に聞かせる言葉ではなかったと思う。
だが、宗一のしてきたことが無為になると思うと言わずにはいられなかった。
「……家族なんでしょ? 無責任なこと言わないであげてよ」
弟と思しき少年を見て、零した。
彼女はあたしの言葉を受け容れて、大人しくなった。それだけ、弟のことを大事に思っているのだろう。
傷の手当てをして、水を与えた。食べ物はまだ胃が受け付けないだろうから、水からならしていく必要がある。
彼女は勢いよく水袋を飲み干すと礼を述べた。声がかすれていたことから、水すらまともに貰っていなかったことは明白だった。
そうして彼女が眠った頃。頃合いを見計らって、あたしは自分の荷物からオールドマギを取り出した。
「マギさん。詳しく状況を説明してくれない?」
『了解した』
彼は丁寧に宗一の足取りを説明し始めた。
マルクスタの追手が宿に来たこと。命からがら逃げおおせたこと。奴隷市場に逃げたこと。そして……。
「か、買おうとしてたの? 二人を?」
『ああ』
奴隷市場に逃げるまでは納得のいく内容だったが、彼があたしの横で眠る二人を買おうとしていたことだけは理解できなかった。
「なんでそんな危険なことを……」
『他の奴隷は無視していた。だが、その少女だけは特別なのだ』
「特別……?」
『以前、彼がこの世界に英雄として召喚されたと聞いたことを覚えているだろうか?』
「モニカ様が言っていたって話よね?」
宗一の言葉を思い出す。彼は苦々しい顔つきで、自身の力の凄まじさについて「一応、英雄だから」と言っていた。
あたしが彼の言葉を覚えていたことを察して、オールドマギが話を続ける。
『英雄には、一部の人間を除いてとある強制力がかけられる』
「強制力……?」
『何があっても、術者を守るよう努めることが強制される』
「ちょっと待って、術者って何?」
この魔導書がとんでもないことを言い出したことは理解できた。
だが、何を言っているのかさっぱり分からない。
『では、結論から言おう』
オールドマギは、端的に説明すると言わんばかりの言葉で、たった一言。
衝撃的な言葉を紙面に浮かべた。
『あの少女が、宗一をこの世界に召喚した術者だということだ』
アイリスのいい加減な言動は父親譲りです。




