英雄には未だ届かず
「捕まえてみろよ! 馬鹿!」
僕は少女を抱えて走り出した。
身体が重い。足は既に限界だった。
隠れ、体力を回復させる筈が気付けばその真反対のことをしている。
疾風の乱発で魔力も既に底を突きかけている。
仮に魔力が十分に残っていたとしても、手が塞がっている現状では無意味だ。
背後から、鯨波のような歓声が響く。
反射的に振り返ると、大勢の傭兵と思しき人間や戦奴が地をも揺るがす歓呼を上げていた。まとまった勢力ではないものの、数だけ見れば小規模な軍勢と形容しても差し支えないだろう。
「……あの野郎!」
下策も良いところだ。仮に姉弟ごと僕を捕まえたとしても、傭兵や戦奴の雇用主から脅されるだけだというのに。
特に、僕は高級奴隷だ。僕の価値に気が付かれたら、10万リルという大金が端金としか思えなくなるだろう。
だが、事の発端は僕だ。僕が、誤った選択をした。いや、させられたというべきか。
「代償の次は呪いかよ!」
今朝も同様の愚痴を吐いたが、敢えてもう一度言おう。
とことんツキがない。何故世の中は……この異世界は、僕にこうも不都合なのか。
命は脅かされ、心は砕かれる。記憶や価値観は力の代償に差し出される。
もっと、物語の主人公のように都合よく強大な力を授けてくれたらと、何度願ったことか。
僕は今でも、自分が英雄として呼ばれたということを信じられない。
真に英雄と呼ばれるに値する人間ならば、こんな窮地、難なく乗り切ってみせるだろう。
少女に悪態をつきたいと一瞬考えるも、即座にそんな思考は消えうせた。まるで、濃霧に飲み込まれるかのように胸の中で溶けていく。
これもまた、呪いなのか。
腕の中の少女は、弟を固く抱いたまま気を失っていた。身体は傷だらけで、衰弱しきっていた。気力だけで意識を保っていたことが簡単に分かる。弟よりも先に、自分の心配をしてほしい。
「……恵まれていたんだ」
無感情に呟いた。彼女と比べたら、僕は遥かに恵まれていた。
自分の足で立てるだけ、まだマシだった。
疲労と混乱、そして僅かな罪悪感で頭は一杯だった。
だが、身体は生き永らえようと無意識に最善の手を尽くしていた。
奴隷市場を抜け、一般の市場へ。およそ非道なこととは関わりのない人種によって形成される雑踏の中へと身を隠す。
初めにいた三人の追手が、今や枚挙にいとまがないほどだ。
僕は呼吸を乱しながら、視線を右往左往させる。
「アイリス……! どこにいる……!?」
今僕が頼りに出来るのは彼女だけだ。ナルダが普段どこにいるのか分からない以上、市場にいる彼女を探し出し、事情を説明するのが早い。
なんと言ったものか分からないし、事情を説明する暇があるかどうかは定かではないが……。
人々から怪訝な眼を向けられつつ、人波を縫うようにして駆けていく。以前、市場で魔眼を使った体験が活きたのか、何となくだが大局の動き方……この場合、人混みそのものの流れを理解しつつあった。
背後で怒声を上げる追手と少しずつ距離を離し、雑貨屋をメインに視点を巡らせていたところ、十数件目にしてやっと目当てとしていた人物の横顔を拝むことができた。
「アイリス!」
乾ききった喉が裂かれるような痛みに苛まれるも、構わず叫んだ。
「ちょ、宗一!?」
彼女は交渉相手に銀貨を押し付けると、手早く僕の下へと駆け寄ってきた。
「数えきれないほどの連中に追われてる。このままじゃ捕まる!」
「う、嘘でしょ!? 領主がそんな大掛かりなことをする筈が――」
アイリスの言いたいことは分かる。マルクスタ家が僕を処理するとしたら、秘密裏に事を運ぶ筈だ。
だが、最早マルクスタだけの問題ではないのだ。
「面倒なことになったんだよ! 何も言わずに、二人を匿ってくれ!」
僕は半ば押し付けるように、銀髪の少年少女をアイリスに突きつけた。
「と、ととと! 状況が分からないって!」
二人の重さを支えようとして、彼女がバランスを崩す。
彼女の抗議に、僕は背後から迫りつつある脅威が既に到来しつつあることから時間がないことを察知して……。
「こいつに聞いてくれ! お前、確か読めてたよな!?」
オールドマギを呼び出して、アイリスに突き出した。
彼女は少女を起き上がらせ、少年を抱えさせていた。僕が突き出した魔導書を困惑した表情で受け取る。
「え、ええ。日本人相手の商売は美味しいしお父さんから教わったから、日本語は読めるけど……」
「じゃあ良かった。二人を着替えさせて、首元を隠してやってくれ。そして、現地集合だ!」
言いきって、僕はわざと来た道を戻った。追手の前に姿をひけらかすことで、彼らを陽動し、隘路へと誘い込む。
幅の狭い道ならば、追える人数も限られると考えてのことだ。
「どこかに身を隠さないと……!」
ここからは、魔法なしで大勢相手に少なくとも一時間は粘らないといけない。
オールドマギに何か妙案がないか聞こうとして、彼が手元にないことを思い出す。
アイリスに託した以上、僕が手元に呼ぶのは避けなければならない。
「思えば、完全に一人になったのは随分と久しぶりだな」
最初は変な奴だと思っていたオールドマギも、今じゃ当然の如く傍にいるものだと思っていた。
孤独が胸中に不安を誘う。魔法も、頼れる友もいない。
僕一人で、この危地を脱しなければいけないのだ。
ふと、前方から髭面の男が現れた。汚い身なりをしているが、体つきは僕より遥かに精強そうだ。腰元には先端が反った剣を提げている。
「み――」
何かを叫ぼうと大声を上げようとした男に、僕は最速、最小の動きで腰元のナイフを抜き放った。
早撃ちならぬ、早投げ。男が言葉を発するよりも早く、その命を断つ。
だが、殺して終わりじゃない。ここは市街地だ。死体が見つかれば更なる騒ぎに繋がる。
僕は男の喉元に突き刺さったナイフを抜きつつ、死体を隘路の脇に退けた。
「くそ、片付けてたら時間がかかる!」
今後は見つけられても逃げに徹するべきだろう。
いつ追いつかれてもおかしくない状況なのだ。
血を振り払い、手早くナイフを仕舞ったところで背後から聞こえてきた怒声が絶えたことに気が付いた。
前方からは未だに僕を探す声が聞こえる。まさか、裏から周りに――。
背後を振り返った瞬間、僕は凍り付いた。
「見事な手腕です」
全身に力を入れて前方へと身を転がした。そのままよろけながら駆けだす。
視界には一般市民の波から飛び出してくる数人の男たち。だが、そんな些事は最早どうでもいい。
最大の敵は、背後に――。
「遅い」
冷酷な声音と共に、何かが僕の頭を打った。
視界が暗転する。この感覚には覚えがある。異世界に来た初日、疲れとショックから気絶したとき。そして……元居た世界で倒れたとき。
薄れゆく視界の中、オリヴィエが侍らせていた執事と傭兵たちが揉めているのが目に見えた。
異なる勢力同士、相容れないのは当然だ。
だが――。
僕はもう、ここで終わりだ。
当初からこの展開の予定ですので、ご安心を。
バッドエンドで無理矢理打ち切ったりはしません。




