枷となる意識
ヒントは既に。
「誰か、助けて……」
絞り出すような、泣いているような一言に。
僕は膝をつき、躊躇なく手を差し出した。
「君は僕が救い出す」
口が裂けても言わないであろう台詞が、さも当然であるかのように口をついて出た。
もう、後には戻れない。
そのことを、僕は半ば確信していた。
言葉を口にした瞬間、僕の中で何かが切り替わったのを感じる。言質を取ったぞとばかりに彼女を救えという圧力は消え、代わりに僕の意識に使命が刷り込まれていく。
眼前の幼い少女を救い出し、守るという、何とも荒唐無稽な、まるでおとぎ話の騎士のような使命感。
この感覚には覚えがある。オールドマギによる追体験。自身の感覚を上書きしていくところが酷似している。
「貴方は……?」
僕よりも困惑した様子で、少女が上目遣いで僕を見上げていた。
膝をついたまま、僕は答える。
「如月宗一。以前、一度だけ話をしたことがあった筈だ」
フードを一瞬外してみせると、彼女が瞠目した。次いで、視線が僕の首元へと移る。
「言いたいことは分かる。ただ、今は黙っていてくれ」
僕を覚えていたのだろう。高級奴隷として、同じ馬車の中で運搬され不安がっていた僕を。
彼女は不安気な表情を浮かべながら頷いた。
「おや、お知り合いで?」
下卑た笑みを浮かべた男が僕と少女の会話に割って入った。
彼女の現主人。僕の嫌悪する阿漕な商売人。
奴隷商だ。
媚びるような口元の笑みとは対照的に、目つきは獲物を見つけたように鋭い。
「いいや……。ただ、目に留まっただけだ」
付け入る隙を見せるわけにはいかない。僕は突き放すように言った。
幸い、彼女の容姿は人並み外れて美しい。苦しい言い訳にはならない筈だ。
購入意欲はない、と表明したものの奴隷商は嫌らしい笑みを保ったままだった。
「困りますね。まだ購入もされていない奴隷と話されるのは。何を吹き込まれるか分かったもんじゃない」
「……確か、80万だったな」
購入する気などない、何も吹込みなどしないさ。そう告げる筈の口が滑る。
刷り込まれた彼女を守れという意識が、僕の言葉を拒んですり替えた。
気持ち悪い。自分が自分じゃないみたいだ。吐き気がする。
僕と競売にかけられた際の値段が当然の如く思い出される。
僕の手持ちは約100万だ。こんなところで無駄金を使う余裕などありはしないのに。
右手が勝手に腰元の鞄へと手が伸びていく。
「……いいえ、100万です」
僕の挙動を見て、奴隷商が笑みを深めた。
……こいつ、吹っ掛けてきたな。
「いいだろう。弟共々買ってやる」
何も良くはない。
金貨の詰まった皮袋をまさぐろうとする手を、全意識を集中させて押し留めた。
分かったよ。救ってやればいいんだろう。だから勝手に僕の身体を動かすな。
言い聞かせるように、心中で怒鳴り散らかした。
僕が心の底から少女を救うと誓った途端、右腕がだらりと垂れた。僕の身体を無責任にも突き動かしていた何かが消えたのだ。
「何かを勘違いされてはいませんか?」
僕の葛藤を余所に、奴隷商が都合の良い言葉を並べて立てていく。
「1人100万です」
僕は傍らの少女を見遣った。彼女は縋りつくような視線を僕に向けている。
「私より弟を……ルークを優先してやってください」
掠れる声で彼女が告げた。
瞬間、奴隷商の平手が彼女の頬を打った。
「奴隷風情が! ご主人様の話に割って入るんじゃねぇよ!」
強烈な勢いに、枯れ葉のように少女が吹き飛ばされる。抱いていた少年が放り出されたところを、僕が受け止めた。
ルークと呼ばれていた幼い少年を一瞥する。彼の瞳は既に焦点を結んではいなかった。
瞬時に脈拍を測る。まだ、生きている。
だが、この調子だと先は長くないだろう。
「おい」
……もう、何もかも関係なかった。
彼女を守れと言う圧力と、僕の意識が渾然一体となったことも。
自分の保身でさえも。
ただただ、苛ついていた。
僕は少年を少女に預け、奴隷商に詰め寄った。
「今、何をした?」
男の胸倉を掴む。
自分でも分かるほど、僕は冷静さを欠いていた。全身から殺気が迸っているのが手に取るように理解できた。
オールドマギが人格交代の際、瀕死時に放っていたあの感覚が蘇る。
ここに至って、殺気の出し方というものを掌中に収めたのだ。
「な、何と申されましても……。わ、私はただ無礼な奴隷を調教したまででございまして……!」
目を泳がしながら、男が答えた。後退しようとする足を踏みつけ、僕は再度問いかける。
「お前、僕に吹っ掛けたよな? 僕になら売れると分かっていたんだろ?」
「そ、そのようなことは! だ、断じて……!」
「よく目の前で傷物にできたよな。普段からこの調子なんだろ?」
僕は言外にこう告げている。
お前の所為で傷がついた、だから値下げしろ、と。
そのことを奴隷商も分かったのだろう。
どもりながらも、明確な敵愾心をもって口を開いた。
「わ、私を脅すつもりか!?」
「脅し? いや、これは交渉だ」
男が僕を突き飛ばした。いや、正確には突き飛ばそうとして尻もちをついた。
悪いが、僕の方が身体能力は高いみたいだ。
僕の拘束から逃れた奴隷商が怒りのあまり顔を真っ赤に染めた。
「侮辱したな……」
「正当な抗議だろ」
交渉下手な僕から見ても、彼が商人として三流以下なのは一目瞭然だった。
一流と呼ばれたアイリスの手腕を見たこともあり、比較してしまったこともあるが。
競売会で全く人気のなかった二人を買い取ったこと、そして不良債権を損切りせずに高値で押し付けようとしたこと。
貴重な売りの機会に対して冷静に対処できないこと。
それらすべてが物語っている。
男の滑稽な姿に、僕は冷静さを取り戻していた。だが、胸中に沸き上がった怒りだけは意図的に保つ。
「おい! お前ら出てこい!」
奴隷商の背後にある粗末な小屋から数人の男が姿を現した。
いずれも、ごろつきと形容して差支えのない連中だ。
僕は彼らに全力で殺気を放った。いつ動かれても対処できるよう、腰元のナイフに手を当てる。
男たちが僅かに後退する。彼らの中でも頭目らしき男が奴隷商に言った。
「旦那。分が悪い。こいつは俺たちの手には負えない」
「何を馬鹿なことを! こっちの方が人数は多いんだぞ!?」
「それでも、だ。分かれよ旦那。こいつは数の差をひっくり返せる化け物なんだよ」
「……役立たずが! 働かないなら金は返してもらう!」
「命あっての物種だ。ほら」
吐き捨てた奴隷商の男に頭目が皮袋を突き出した。信じられないものを見たかのように、奴隷商が愕然とする。予想外の展開だったのだろう、去っていく男たちを呆然と見送りながら……やがて、その総身が震えだした。
「ふ、ふざけるなよ……!」
恐怖より怒りが勝るとはこのことか。
彼は不俱戴天の仇を見るような目つきで僕を見据えていた。そこに、先程までの恐怖はない。
大きく息を吸い込む。その動作に僕は構えを取り直し――。
「盗難だ! 奴隷が盗まれた!」
「なっ!?」
「捕まえた奴には10万払う! 誰か、こいつを捕らえてくれ!」
ば、馬鹿かこいつは!?
自分の自尊心を傷つけられた程度でこんな暴挙に打って出たというのか!?
だが、これは今の僕にとって最悪の展開だった。
僕は今や追われる身。少しでも騒ぎを起こせば、執事やメイドが聞きつけてきてもおかしくはない。
今、ここで僕が無実かどうかは関係ない。平時であれば、泰然自若と構えていれば良い。
だが、今は違う。
「この、馬鹿野郎!」
僕の表情を見て、奴隷商がしてやったりとばかりにほくそ笑んだ。
なら、こっちにも考えがある。
僕は弟を抱く少女を抱き上げ、一言告げた。
「しっかり弟を掴んでおけよ」
「え?」
濡れ衣を着せられるのであれば……。
――その嘘を、本当にしてしまえばいい。
「おい、待ちやがれ!」
「捕まえてみろよ! 馬鹿!」
僕は少女を抱えて走り出した。
ハイリスクハイリターンを承知で奴隷商になった人
ハイリターンのみに目が眩んでなった人
いずれにせよ、まともな人間はやらない商売ですね




