悪魔のような天使
ザラっとした感触が頬を撫でた。続く同様の感触に肌が粟立ち、沈んでいた意識が急浮上する。
反射的に押し上げられる瞼。無をみつめていた瞳は陽光を前に伏し目がちになる。霞む視界の中で、鼻息の荒いそれと目が合った。
「……おはよう、先輩」
頬を引き攣らせながら挨拶する僕に、この離れの主たる馬が満足気に鼻を鳴らす。
僕はこの、茶色の毛並みが美しい馬の名前を知らない。この小屋が彼……或いは彼女一頭のためにあること、そして僕はそこを間借りしている家畜2号であるため、先輩と呼称している。
動物には表情がないとされることが多いが、眼前の馬はどこか笑っているように思える。
それが後輩を見下す嘲笑なのかどうかは分からないが……。
先輩の瞳は入口の木戸に向けられていた。
つられて視線を逸らすと、丁度扉が開くところだった。
「あっ、起きていたの。寝ていたら起こそうと思っていたから丁度良かったわ」
微笑と共に、お嬢様が後ろ手で戸を閉める。僕の存在を気取られないための措置か。
昨日とは打って変わって、平民のような恰好をしている。牧草地帯の遊牧民が来ていそうな、赤と白を基調とした衣服。アルプスの民族衣装に近いか。ゆったりとしたスカートとブラウスが一体となっている。
貴族らしくないな、と考えるも、そもそも馬小屋にドレスなんかで来るわけがない。
「……服が気になるのかしら。これは北方にある地域の民族衣装らしいのよ。動きやすいから気に入っているの」
視線を留めすぎたのか、オリヴィエが服について注釈を入れる。見てくれではなく、機能性を重視するあたりが、やはり僕の知る貴族とは異なっている。
僕の知る貴族が、この世界の貴族の定義に当てはまるかは定かではないが……。まあ、このお嬢様が変わり者であることは事実だろう。
傍らに飼い葉桶を携えながら、オリヴィエが持ち馬を撫でる。先輩は心地良さそうに歯茎を見せながら笑っているが、目線は乾草で一杯になった桶を捉えている。
今思えば、先輩は朝食時を知らせて僕を起こしてくれたのかもしれない。タイミングはばっちりだったし。
「今日はお供がいないんだな」
「馬小屋にいくだけなのに、供を連れるのは不審じゃない?」
軽い皮肉に対して、的外れな返答がかえってくる。
僕が危害を加えるとは思っていなかったのか、と聞いたんだけどな。
それとも、そのリスクを承知のうえで、信頼を得るために身一つでやってきたのか。
何とも判然とし難い。
「感謝しなさい。私が直々に持ってきたんだから」
言葉こそ尊大だが、口調は冗談じみている。
重ねていた飼い葉桶を取り出し、僕の足元に丁寧な所作で置かれる。底の浅い容器には、丸い乾パンと果物類が鎮座していた。
わざわざ馬の餌に偽装して持ってきてくれたのか。奴隷に食べさせるにしては上等なものに思える。
「ありがとう。昨日から何も食べてなかったから、お腹が減ってたんだ」
「……意外と素直なのね。あんなことがあったのだし、もう少しやさぐれてるかと思ってた」
意外だという顔だ。切れ長の瞳が鶏卵のような丸みを帯びている。
彼女の考えも当然のものだろう。だが、僕は謝意に関しては正直であるべきだと思う。ありがとうと、ごめんなさいが言えない人間は対人関係の構築に於いて苦労するだろう。一言、言動の端に付け加えておくだけで自身の益になるのだから、やっておいて損はない。謂わば、対人関係に於ける潤滑油だ。
母さんに厳しく言い含められた、というのもあるが自身の信条でもある。ここがどこであれ、僕は僕であることを曲げたくはない。
「感謝や謝罪の念は素直に伝えるべきだ。信頼の獲得にも繋がる」
「殊勝な心掛けね。私も見習いたいくらい。確かに、名君と謡われた者は自分より身分の低い者に対しても畏敬の念を絶やさなかったと聞くわ」
僕の意見を否定もせず、受容する。同時に、理解してもいる。
今更だが、なんとなく、彼女に女傑の威厳を感じた理由が見えた気がした。
誰の言葉であれ、納得できたものは自分のものとする力があるのだろう。
凝り固まった固定観念がないからこそ、僕を買うという行為に及んだのかもしれない。
「ああそうだ。飲み水だけど、あとで馬のものと一緒に持ってくるから、もうちょっと我慢してちょうだい」
「うん、ありがとう」
「……」
彼女の綺麗な眉間にしわが寄る。怒っているというより、思案しているのか……?
双眸を細めて、じっとこちらに視線を注いでいる。
「すっかり敬語が抜けたわね、貴方」
「昨日散々普通に話してたのに、今更敬語に変える方が不自然じゃないか?」
「……まあ、そうかもしれないわね」
当初は打算があって敬語で話していたが、動揺してからは無礼な口の利き方をしていたと思う。今は多少落ち着きこそしたものの、ここで敬語に戻したら打算的な意図が露見するし、ならばいっそそのままでいいか、というのが僕の考えだ。
……少し投げやりになっているかもしれないな。
「貴方の言葉遣いには目を瞑ってあげるわ。庶民だもの、礼儀がなってないのは当然だものね。特別よ?」
「わー、なんて寛大なお人なんだ。素敵だなぁ」
腕組みをしながらウィンク、という茶目っ気を見せつけてきたので、僕もまた適当に返事をする。棒読みもいいところだ。
僕なりに空気を読んで機知に富んだ返しをしたつもりだったのだが……肝心のお嬢様はどこか毒気を抜かれたような顔をしている。
先のものが、本気の発言だとしたら注意や文句のひとつでも即座に挟んできそうなものだが。怒りのあまり呆然としているのか……?
苛立ちを露にすると思いきや、何故か彼女の口端はあがっていき。感触の柔らかそうな、にやけた顔を晒していた。
何を嬉しそうにしているのか見当がつかない。
「何で笑ってるの……?」
「べ、別に笑ってないわよ……。見間違いじゃない?」
当の本人は頬を少し桜色に染めながら否定するが、それは無理のある返しだ。
僕の表情がそれを物語っていたのだろう。彼女はきまりが悪そうに、蚊のなくような声で呟いた。
「……あんなふうに言葉を返してくれる人、初めてだったから。ち、ちょっと戸惑っただけ。それだけよ!」
後半は誤魔化すように捲し立てたが、要は気恥ずかしかったんだな。
発言から察するに、友達が少ないんだろう。貴族ともなれば、対等に話せる人間は限られるだろうし……問題を抱えている家となると他家貴族との交流もあまりないのかもしれない。
良くも悪くも、砕けたような話し方をしていたから親密に感じてしまったのか。彼女が素直にそれを受け止めたのに対して、僕は一瞬、これは利用できるかもしれないと愚考してしまった。こういうところに人柄の差は如実に現れるんだろうな。
決して良いとは言えない自分の性格に、少し気が滅入る。
「それはそうと、答えは出た?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、お嬢様が居丈高に腕を組んだ。
答え、というと。ここが異世界かどうか認めたか否か、ということか。
「私に協力……してくれるのかしら?」
少し不安げな表情。
協力は強制されるものかと思っていたから意外だ。昨晩与えられた時間は執行猶予みたいなものかと考えていた。
思った以上に、こちらの意を汲んでくれる。
……いや、自由意志を与えたうえでの協力じゃないと、意味がないからかな。
下手に協力を強制して気を逆撫でてしまうと嘘をつかれる可能性があり、その嘘を見破れる要素がない、ということだろう。
つ ん で れ




