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黒い靄

 王都の外はひんやりとした、静かな夜に満たされていた。深夜の外は、思いの外明るかった。全てが淡い星明かりに照らされ、ぼんやりと明らんでいる。

 何よりも、黒馬に乗って駆ける爽快さと言ったら。脚の下で筋肉が脈々と躍動し、弾けるように前に進む。疲れを知らぬ暴れ馬は、たてがみと尾を美しく靡かせ、颯爽と野を駆けていた。


「南東なら、きっとガレルアの町だって話していたんだ。あそこには薬師団の分室もあって、個人的な研究室を構えている薬師もいれば、著名な医師も多く出入りしている」


 レガットが目的地を教えてくれた。私が肉を口に押し込んでいる間、アイネンとレガットはそんな話をしていたらしい。

 なるほど、と私は納得した。医療の盛んな町からなら、新たな治療法も見つかるだろう。レガットの妹は、きっとそこの医院にいるのだ。


「ガレルアなら交通の便も悪くないのに、なぜ手紙のひとつも届かないのか疑問だがな」

「そうなんだよ。体調が芳しくないのか……とにかく僕は、元気な顔を見たいんだ」


 レガットの声は、例の如く切実さを含んでいた。妹の無事を確認したいという気持ちの強さを感じる。それもそのはず。ただでさえ体調を崩しやすい病にかかっているのだから、行方も分からず、健康かも分からないのでは心配で堪らないだろう。


「自分から手放したくせに、都合が良いな。危険があったのに、みすみす手元から離すとは」


 アイネンが辛辣に批判する。


「そうだよな。僕の考えが浅かった」


 その批判に言い返すことはせず、レガットはしんみりと受け入れる。


「2人が一緒に来てくれて助かるよ。もし万が一妹に何かあったらと思うと……お前が居てくれるお陰で、パニックに陥らなくて済む」


 そう言って貰えるだけで、一緒に来た価値があると思った。やはり私は、誰かの役に立てることが嬉しいのだ。


「別に、お前のためではない」


 レガットのためでなければ、何のためだと言うのだろう。アイネンは素直でないことを言って、会話を切り上げた。


 三頭の馬は駆ける。途中休憩を挟んで、やがて、空が白み始めた。明るくなってきた世界の中で、向こうの方に塀が見えてくる。


「ガレルアに着いたな」


 馬の歩調を緩め、私達は町に近づいた。朝日を受け、町の外壁はきらきらと鮮やかに見える。町の外にある畑には、薬草が植えられている。医療の町というだけあって、薬に使う薬草をわざわざ育てているようだ。柔らかな土の上で、同じ種類の薬草がまとまって植えられている光景が物珍しくて、私は進みながら左右を眺めた。

 おかしなことに気づいたのは、町の傍まで来て、馬から降りようとした時だった。先に馬から降りたレガットの匂いは、町中に向かって流れているはずだった。妹はきっと、町の中の医院で治療を受けているのだから。


 私は、町の外に広がる森を見る。この辺りの町は、どこも森を切り拓いて作られていると教わった。町に水と食糧をもたらす、資源豊かな森。レガットの匂いは、明らかに、その深い森へ向かっていた。


「……どうした」

「その……レガットさんの探しているものは、あちらにあるみたいで」


 妹、とは言えなかった。体の弱いレガットの妹が、森の中にいるはずがないからだ。


「そんなはずはないだろう」

「私もそう思います。レガットさんが、他に何かお求めなら……」


 アイネンに即座に否定され、私は頷いた。そんなはずはないのだ。ただ、今のレガットが妹以上に求めているものがあるはずもなくて。


「……冗談きついよ、魔女さん。洒落になんねえ」


 レガットが苦笑いを作り、額に手を当てておどける。信じがたい気持ちは私も同じだから、何も言えなかった。黙っていると、レガットの表情はみるみるうちに、暗く翳って行った。


「は? ……おかしいだろ、カーサが森の中にいる訳がない」

「私もそう思います。でも……」


 何度確かめても、レガットの匂いは確かに、森の中へ向かって流れている。口に出せなくて、ただ、視線をそちらに向けた。どこにでもある、深い森だ。中には動物と植物と、魔獣しかいない。人間、それも猟師でも騎士でも何でもない病人が、いるはずはない。

 一瞬の沈黙が、長いものに感じられた。私の視線を追ったレガットが、突然動いた。体を翻し、森に向かって走ろうとする。レガットの体は、つんのめるようにして後方に引かれた。


「何だよ! 離せよ!」

「待て!」

「待てない! カーサが魔獣に襲われてたらどうするんだよ!」

「だからこそ、ひとりで突っ込むべきではない!」


 アイネンの怒声で、空気がびりっと震えた。頭に血が昇っていたレガットの顔つきが、ふっと和らぐ。


「間違いない。危険だと思うなら、先に戻ってくれ」

「お前に何かあったら、妹が悔やむだろう。市民の心は守らねばならない。自分を迎えに来た者が、そのせいで命を落とすなんて……最低だ」


 アイネンは、何かを噛み締めるように紡ぐ。そして、2人の視線が私に集まった。


「魔女さんは戻った方が良い」

「足手纏いだ」


 戻った方が良いのだろう、と私も思った。でも、素直に頷くことができなかった。思い詰めた様子のレガットと、それに何かに引き摺られている様子のアイネン。いつもならエルートが危険な行為に静止をかけるが、今日はいない。

 本当に何かあった時、レガットは危険も顧みずに突っ込んでいくだろう。そして「騎士は命を賭してこそ」と思っているアイネンは、それを止めることはしないと思う。危うい予感が、私の首を横に振らせた。


「本当に危険な時は、途中でも戻ります。町の方向は、わかりますから。それに、これもありますし」


 黒馬の傍に据えた盾を示すと、アイネン達は視線を交わす。


「……確実に見つけるためには、居てもらった方がいい。私が戻れと言ったら、直ぐに戻れ」

「わかりました」


 アイネンの言葉で、私の同行は許されたのだった。


 森の様子は、どこも変わらない。樹々が立ち並び、濃い土の香りに満たされた、静かな空気。足音だけが響く、温かみのある沈黙が私達を包む。 

 見慣れた光景であるからこそ、レガットの匂いがその奥に向かっていくことに強烈な違和感があった。森の奥深くには、何もない。人のいるはずがない場所に、どんどん踏み込んでいる。


 幸いにして魔獣には出くわさなかったが、私達はどんどん、森の奥深くへ入って行った。密になった樹々の枝の隙間から、陽射しが降り注いでくる。気付けばもう、昼になりつつある。なのにレガットの妹の姿は、少しも見えない。


「こんな森の奥にいるなんて、おかしいだろ。僕でもこんな深くまで入ったことがないぞ」


 レガットが呟く。

 その時だった。びり、と胸元が微かに震える。魔獣に反応する青い石が、震えたのだ。私は盾を体に寄せ、いつでも方向を変えられるよう用意をした。

 レガット達も、同じ石を持っている。同時に震えを感じた私達は、無言で魔獣に備えた。レガットとアイネンは、私を挟むようにして左右に分かれる。いつ魔獣が襲って来ても良いように、視線を隈なく走らせる。

 アイネンの匂いの向きが、すっと変わった。魔獣に向いたのだろう。私はそのアイネンの匂いに、意識を集中する。

 息の詰まる、ぴりぴりとした緊張感。


「……来ない」


 最初に息を吐いたのは、レガットだった。ネックレスは相変わらず微かに震えているけれど、振動が強まる様子はない。


「こちらには気付いていないのかな」

「警戒しながら進むぞ。時間は限られている。……例え見つからなくても、夜になる前には町に戻るからな」

「……ああ」


 アイネンの言葉を、レガットは否定しなかった。

 もし本当にこんな森の奥深くにレガットの妹がいるのなら、無事である保証は皆無だ。非力な庶民が放り出されて、何もないはずがない。身を守る術など、何も知らないのだから。ましてやレガットの妹は、ずっと家の中に仕舞われていた箱入りだ。

 私達の間に漂い始めた重たい空気の名前は、絶望であった。本当に、こんな森の奥深くにいるのか。いるとしたら、生きているはずがない。


「せめて形見でも、持ち帰れたらいいけど」


 レガットの呟きが、絶望を象徴していた。


「随分暗いな。陽が沈むにはまだ早い……いや。何だ、この靄は」


 気付いたのは、アイネンだった。周囲を警戒しながら歩くことに集中していたが、確かに言われてみれば、辺りが妙に暗い。視界がぼんやりと、黒くぼかされている。

 ネックレスの振動は、強さを増したようだった。びりびり、と青い石が危険を知らせる。ところが、恐ろしいほどに、魔獣の気配はなかった。


 ただ霧が濃くなるばかりで、魔獣はいない。戻るきっかけがなく、私達は進んだ。匂いを追って進むほどに、震えは強くなり、黒い霧は濃くなる。


「戻ろう。もういい。こんな場所にいるのなら、カーサは無事なはずがない」


 ついにレガットが、そう告げた。


「そうだな」


 早速、アイネンが踵を返す。その時、背後から微かに音がした。アイネンが盾を構える。


「お兄ちゃん?」

「は……?」


 今度ははっきりと、そう聞こえた。


「……カー、サ?」


 恐る恐る、レガットが言う。返ってきたのは、明るい声だった。


「やっぱり、お兄ちゃん! お見舞いに来てくれたのね!」


 暗い靄の向こうから、声だけがする。

 こんな森の奥深くで、無邪気な少女の声がする。湧き上がったのは安堵ではなく、警戒心だった。おかしい。ありえない事態だ。

 幻聴か、と疑った。傍のアイネンと目が合う。その瞳に浮かぶ動揺を見て、彼も同じものを聞いているのだとわかった。


「……行っていいか」


 レガットが問う。アイネンが、静かに頷いた。

 盾を構え、剣を手にゆっくりと進む。アイネンの匂いは、レガットの匂いとは別の方向を向いていた。アイネンが探しているのは魔獣のはずだから、少なくとも声の方向には、魔獣はいないことになる。


「カーサ! なっ……何だよ、これは!」

「何って、病室よ」

「病室? これが? どういうことだ! 閉じ込められているじゃないか!」


 靄の向こうに、ぼんやりとその姿が見える。私はそれを見て、息を呑んだ。


 檻だった。頑丈な金属製の檻の中に、暖かそうな布の塊が置かれている。そこからちょこんと、銀の髪が覗いている。

 どう見ても、少女だった。こんな森の奥には似つかわしくない、儚げな少女。その瞳の色は、布で目隠しをされているせいで見ることはできない。


「閉じ込めてはいないわ。ほら、ここに鍵もある」


 カーサは、細い指で布団の間から金属の鍵を取り出した。ちりん、と鍵が揺れる。レガットが檻の隙間から手を中に差し込んだ。カーサの手から、鍵が渡される。

 かちゃり。確かに鍵は開いて、檻の扉は開いた。


「もう治療はいい。帰ろう、カーサ」

「どうして? 何かあったの? ここにいたら、病気は治るのに」


 困惑するカーサの手を掴み、レガットがそっと引く。カーサは戸惑いの声を上げ、抵抗するように体を後ろに傾けた。


「治るはずないだろ……」

「治るわ! 凄いのよ、ここにいると、元気がどんどん湧いてくるの!」


 暗い森に似つかわしくない、明るい声が響き渡る。


 元気がどんどん湧いてくる? そんなはずはなかった。この黒い靄は、見ているだけで気が滅入る。元気なんて、微塵も湧いてこない。それに何だか、この黒い霧は、嫌な思い出を呼び起こす気がする。そうだ、この霧は、まるで──。

 私は咄嗟に、盾を背後へ向けた。アイネンの匂いの向きが、さっと変わったからだ。黒い靄の中から、黒い塊が飛んでくる。私の体は、弾かれるようにして地面に転がった。


「まずい! 入れ!」


 よくわからないが、体を起こされて押された。なされるがままに動く。気付けば私の目の前には、銀色の糸のような髪があった。


「……魔獣だ」

「え、魔獣? 町に魔獣が出るの?」

「ここは森の中だよ、カーサ」


 檻の前に立つレガットが、静かな声で告げる。彼らが対峙する先には、狼の魔獣がいた。黒い毛並みを逆立て、ぎらぎらとした牙を剥き出しにしている。昔見たものより、大きい気がした。その目は、濃い赤に燃えている。

 飛びかかる狼をアイネンが盾で弾き、体勢を崩させる。いつもの彼らなら、撃退できるだろう。私は少し安心し、カーサに目を向けた。


 アイネンの咄嗟の判断で、私は檻の中に押し込まれたらしい。目の前にあるのは、カーサの髪だった。


「……これ、外してもいいのかな」


 カーサは、指を目隠しに掛けている。その手の甲は真っ白で、血色が悪かった。


「それ、何のために着けているんですか?」

「治療のために必要だって……見られたら困る、秘密の内容があるからって」

「見られたら困る……」


 彼女は、ここを病室だと思い違えていた。見られたら困るのは、ここが森だということを知られたくないからだろうか。ならば別に、着けておく必要はないはずだ。


「なら、外していいかもしれませんね」


 カーサは、そっと目隠しをずらす。両手は自由になっているようだった。

 寒くないように厳重に布団で覆い、両手は自由。鍵は中にある。檻の中にこそいるが、閉じ込めているという感じではない。まさか本当に、これが治療の一環なのだろうか。


 檻の中は質素なもので、中には布団以外何もなかった。こうして触れてみると、良い質のものを使っているらしく、布団はとても暖かい。


「……食事は、どうされていたんですか?」

「不思議なのよ。ここにいると、食べなくても元気が出てくるの」


 そんなことあるはずがない。違和感のある説明をしながら、カーサはするりと目隠しを外す。途端、「きゃあ!」と悲鳴を上げた。


「お兄ちゃん、危ない!」

「大丈夫、安心しろって!」


 妹の言葉に力を得たように、レガットが剣を振るう。狼の首が大きく斬られ、黒い霧が噴き出した。反対側からアイネンも切り付け、腹部にざっくりと剣が入る。そうして、狼の魔獣は大きく体勢を崩した。

 魔獣の体が、一片残さず霧になるまで。しっかり見守ってから、レガットはこちらを振り向いた。


「怪我はないか?」

「大丈夫よ、お兄ちゃん。あたしは元気! 本当に、凄い効果のある治療なの」


 それを聞いて、レガットが浮かべる表情は、何とも言えないものに変わった。

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