ニーナの新たな道
目が覚めると、鼻先にひんやりとした冷気が触れた。油断すれば肌が切れてしまいそうな、底冷えする温度。窓の外を見ると、橙から茶に変色しつつある蔦の隙間から、淡く青い空の色が覗く。
長い雨が、上がったのだ。厚い雲が流れ去ると同時に、乾燥した冷たい空気が入り込んでくる。毎年繰り返される、季節の移り変わり。ついに、木枯れる季節がやってきた。
木枯れる季節は、焦がれる季節。もう少しすると、身を切るような冷気が吹き荒ぶようになる。木枯れる季節は、暖かな花咲く季節に焦がれる季節であり、誰かに焦がれる季節でもある。愛を伝えるのにぴったりの季節だとは、いつ誰が言い出したことなのだろう。先日のエマの言葉を思い出しながら、ベッドから起き上がる。
動く度に痛んでいた腕の傷は、もうかなり薄れていた。染みのような二つの淡い円が残っているだけ。魔獣の牙の名残。この痕は、もう消えないだろう。魔獣の毒にやられて、この程度の痕で済んだのだから、ありがたく思うべきだ。
「……美味しい」
夜の冷気に冷やされた薬草は、ぱりりとした食感で、さっぱりした味わいがある。よく噛んで飲み込めば、その青い香りが全身に染み渡るようだ。薄い干し肉と相まって、空腹がゆっくりと満たされてゆく。
美味しいものを美味しいと思えるのは、命があるからだ。私の命があるのは、あの日エルートが、我が身を構わずに毒を吸い出してくれたから。そう思うと彼への感謝の念は、募るばかりである。
早朝の森は、身を切るように寒い。厚手の上着に頬を埋め、私は広場で屈み込んだ。生い茂った下草はやがて枯れ、この辺りは、木枯れる季節には一面茶色くなってしまう。摘んでおきたい薬草は、今のうちに摘んでおくべきだ。
がさ、と草の音がする。私がそちらに顔を向ける前に、声が飛んできた。
「ニーナ」
雨が止んだら迎えに来るという約束を果たしたエルートの、真っ黒なマントに身を包み、フードを目深に被った姿。懐かしい装いに、寒さに強張った頬が緩む。久しぶりに見る彼の姿は、私を嬉しい気持ちにさせた。
ああ、私は彼に恋をしているのだ。改めて、そう思う。
「エルートさん」
「やあ。何だか久しぶりだね」
エルートが近づいて来ると、ほんの微かに、淡い花の匂いが漂ってきた。これは、エルート自身の持つ匂い。「探し物」に向かって流れる匂いは、やはりしない。
自分の匂いはわからない。同様に、自分に向かう匂いもわからないのだ。エルートが私に対して、どんな気持ちを抱いてくれているのか。それを思うと、胸の奥がぽっと温かくなる。
「どうしてここへ?」
「家にニーナがいなかったからな。もしかしたらここにいるかもしれないと思った」
案の定だ、とエルートがはにかむと、形の良い歯が薄い唇から覗く。
ここはエルートに、初めて会った広場だ。辺りを埋め尽くしていた白い花は全て散り落ち、緑の草も枯れようとしている。風に吹かれた落ち葉が、はらりと舞い落ちる。その葉は先端から、濃い枯れ色に染まっていた。
季節は移り変わり、私の置かれた状況も、エルートとの関係もすっかり変わった。
始まりは、この広場から。母の教えに固執していた私は、この広場から、新たなスタートを切るのだ。
差し出された手を取り、立ち上がる。スカートを払うと、ぱらぱらと軽い音がして土が落ちた。
荷物を整えるため、エルートとともに自宅に戻った。冷えた体を温めるため、カウンターで薬草茶を用意する。
沸いたお茶をゆっくり注ぐと、真っ白な湯気が吹き上がる。冷えた空気と裏腹に、その湯気は優しく温かだった。
「ゆっくり休めたか」
「はい、お陰様で。恩人とも、いろいろ話すことができました」
カプンに暫く滞在したことの一番の収穫は、ルカルデ夫妻と話せたことだ。自分のいない間、ルカルデの探し物を見つけられないことを申し訳なく思っていたが、今回でいくつかは見つけ出すことができた。心の呵責が取れたと同時に、私の取るべき道筋も見えた。
エルートとの関係について、エマに相談できたことは何よりの収穫である。
「それなら良かった」
エルートの穏やかな微笑み。彼の表情は、アイネン達、同僚といるときと比べて柔らかなものである気がする。私は、彼の向けてくれる感情に、きちんと応えたい。そのためには、自分の気持ちを信じてもらうべく、行動しなければならない。誰かの求めではなく、自分のしたいことをするのだ。
私はエマのアドバイスを受け、辿り着いた結論を脳内で繰り返しつつ、その穏やかな微笑みを見つめた。
「どうした? 難しい顔をしているな」
「いえ、何でもありません」
顔の下半分はいつものベールで覆っているのに、エルートは私の目だけで、表情を読み取ってしまう。美しい焦茶の瞳で見透かされないよう、私は長めに瞬きをして、カップに意識を移した。
「エルートさん達は、いかがお過ごしでしたか?」
「俺たちは、あのあと何件か、魔獣討伐の依頼が入った。王宮騎士団が対応に当たったが、やはり雨の中の捜索は難航を極めてな。何の手がかりがなくとも見つけられる君の存在は、貴重だと痛感したよ」
カウンターに両肘を乗せ、組んだ手の甲に顎を乗せる。そしてエルートは、真っ直ぐに私を見つめた。
「俺と一緒に、騎士団へ来てくれるか?」
それは、いつかと同じ台詞。
私はその裏にあるエルートの要求について、敢えて考えなかった。求めを探り、それに応じるのでは、今までの私と何も変わらない。
「もちろんです」
私の鼻が正常だとわかれば、騎士団のためにできることはまだある。
私は、誰かの役に立つことに喜びを感じる。騎士団の役に立つと、より多くの人を助けられる。だから、許される限り、騎士団の役に立ちたい。誰かに求められたからということではなく、自分の意志で。
エルートの申し出に即答すると、彼はふっと表情を緩めた。どこか寂しげに見えて、私はその顔を見返す。
「ニーナは……本当に、求められたら応えるんだな」
彼の呟きが、私の胸の奥にすっと入り込んだ。
エルートはやはり私が、騎士団の求めにも彼の求めにも、嫌々応じようとしていると思っている。たった一言の呟きが、切ない響きを帯びて聞こえるのは、私の本心を伝えられていないからだ。
彼の心に気持ちを届けるためには、エマの言う通り、行動が必要なのだろう。
扉に鍵をかけ、外に出る。ひゅう、と吹きつける風が、私の藍色の髪を揺らした。寒くて、肩が竦む。私服はそぐわないと思って騎士団から持ってきた服を着てきたが、木枯らしの季節の冷気には、ワンピース1枚では太刀打ちできなさそうだ。
小刻みに足踏みするような歩調で、エルートと共に歩く。向かう先には、彼の愛馬である黒くて美しい馬、スオシーが待っている。乾いた木の葉が足の下でぱり、と細かく砕けるのを感じ、森の中を急いだ。
「待たせたな、スオシー」
「久しぶり」
スオシーの額に触れ、挨拶を交わす。水をたたえた夜の湖のように深い、スオシーの瞳。慈愛に満ちたその目は、いつ見ても素晴らしい。毛皮に手を滑らせたら、凍えた指先が、柔らかく緩む心地がした。
エルートの手を借りて、スオシーに乗る。一連の動作を、流れるような動作で行えるようになったことに、ささやかな喜びを感じた。僅かな熟練は、エルートと共に活動した時間の証だから。
彼の手が腹部に回され、背中に温もりを感じる。彼の騎士団服は、いつものものより厚手のようだ。薄着の私には、その温もりが心地良い。
スオシーが歩み始めると、流れる風の勢いが増す。差し込む冷気に、身が震えた。腹部にかかるエルートの腕の、圧が高まる。
「その格好は寒そうだな」
温めてくれるらしい。彼の温もりで、背中から上半身にかけて、ふくふくとした温かさが伝わってくる。
こんな風に支えてもらえるのは、エルートが私を荷物扱いしているから。何度も積み重ねてきた思考の癖が顔を出し、それから、実は違ったのだと思い直した。
エルートは私のことを、大切に思ってくれている。自分の命より、優先してしまうほどに。彼の言葉を思い出したら、急に胸がどきんと跳ねた。
エルートは私のことを、荷物扱いなんてしていない。人として大切にしているから、馬上でも丁重に扱ってくれるのか。意識すればするほど、勝手に胸がどきどきする。
「大丈夫か? 動悸が激しいようだが」
「え?」
「ほら、鼓動がやけに速い」
エルートは手のひらを僅かに上に滑らせる。私の心臓の鼓動を、布越しに感じているようだ。
「──っ!」
温もりどころか、首から耳まで一気に熱くなった。エルートに指摘されるほど、私の胸は高鳴っているらしい。
エルートは、それほどまでに喜んではいないのに。勝手に舞い上がって恥ずかしい。いや、エルートも嬉しい気持ちなのかもしれない。彼が、今抱いている気持ちはわからない。私は混乱して、そして、俯いた。
「耳は赤い」
囁くように指摘するエルートの声には、揶揄する調子が混じっている。耳元に吹きかかる息。わざとだ、と確信した。
「エルートさんっ!」
咎めるつもりで呼んだ彼の名は、妙に上擦り、悲鳴じみた響きを持っていた。
「……悪い。やりすぎた」
エルートが離れると耳たぶに冷たい風が吹き付け、頭が少し冷える。
彼が謝る必要はないのだ。私が勝手に照れて、動揺しただけ。こんな風に触れられるのは、嫌ではなく、むしろ嬉しいのだから。
「大丈夫です」
「俺の暴走にまで応えなくて良い」
ただ思ったことを伝えただけなのに、エルートの返答は、やはり私の言葉を信じないものだった。
私は今の場面で、どう行動すれば良かったのだろう。彼に言葉を信じてもらうには、何をしたらいいのだろう。自分が今したかったことって、何?
木枯れる季節の冷たい風が、額にかかった髪を背後に靡かせる。開けた視界の中には、淡い茶色に染まった草原しかない。清々しい光景。やがて、草原の向こうに王都の片隅が見え、徐々に大きくなっていく。
変わらなければならない。傷ついた私は「求められたら応える」という母の教えに従っていたが、その教えに感謝を捧げ、別離する時が来た。
求められたから応える、のではなく、私のしたいように。私の新しい挑戦が、始まろうとしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。これにて、第二部は完となります。第三部は執筆中です。ニーナが、漸く自分の足で歩み始めました。ぜひ、ブックマークの上、続きをお待ちください。




