15.クリス
ぼんやりと目を開ける。どうやらソファで膝を抱えこんだ姿勢で、少し眠っていたらしい。
ぎしぎしする体を動かしてカーテンを開けると、雨は止み夜が明けていた。曇天なので明るくはない。
シェリーは顔を洗い、身支度を整える。
朝食の前にトフィに会って謝らなくてはと思い、部屋を訪ねたが不在だった。侍女に聞くと、朝から執務室にこもっているらしい。
シェリーは早足で執務室へ向かい、扉をノックした。
「シェリーです」
名乗ると男の返事があり、部屋へと入る。葉巻の匂いが鼻についた。
男が一人、執務机に座っていた。亜麻色の短い髪に青い瞳の男。葉巻を吸いながら足を机の上に置いている。明らかにトフィではなかった。
シェリーの胸がどくんと跳ねる。
「…………ファレル?」
そろりと聞くと、ファレルはにやりと笑った。
「あんたは話が早くていいな」
「足を下ろしてください」
シェリーは小言を言いながら、自分を落ち着けるためにぐっとスカートを握った。
「クリスは足を上げたりしねえもんなぁ」
だがファレルが口にしたその名前を聞き、落ち着けようとしていた気持ちが一気に乱れる。シェリーは堪えきれずに切羽詰まってファレルに聞いた。
「旦那様は無事でしょうかっ?」
シェリーの気迫にぽかんとしたファレルは足を下ろすと、両手を広げた。
「クリスのことか? どこからどう見ても無事だろ?」
「体のことではなく」
「うん? こっちか? あんたも知ってるだろ、ここはイカれている」
ファレルはニヤニヤしながら自分の頭を指さした。ファレルはたまにこうして自分の病を揶揄するので、シェリーは無視して話を続けた。
「私が分かるということは、思い出したんですよね?」
「思い出す?」
「記憶喪失だったんです。私のことも忘れていて」
「記憶喪失ぅ?」
ファレルはぐりぐりと指でこめかみを押して思案した。
「……まあ確かになんか頭の中はごちゃごちゃしてるが、こういうのは前はよくあったからな……てか昨日のあれはなんだ? 喧嘩か?」
「え?」
「よく分からないが、あんたが泣いてクリスがショックで引っ込んだんだろ」
「…………え?」
シェリーは混乱した。昨日の夫はトフィだったはずだ。でも部屋を去る直前の様子は少し変だった、ファレルの口ぶりからするとあれはファレルだったらしい。
「勘弁してくれよ。何で好みでもない女に迫って、おまけに泣かれなきゃいけないんだ。大体、クリスとはやることやってるんだろ。今さら嫌がるなよ」
「そんな……でもあなたの前は“クリス”ではなかったんです。違う人でした」
シェリーが細い声で言うと、ファレルの眉がぴくりと上がった。
「トフィと……」
名前を告げるが、ファレルはそれに反応せずに冷たい様子になった。
この男はクリス以外の人格の存在や、離れでの過去について話すのを極端に嫌がる。クリスも嫌がるのでそちらに気を遣っているのだろう。
これ以上突っ込んでもファレルが不機嫌になるだけだ。だからいつもはこの話題には触れないようにするのだが、今日は後には引けなかった。シェリーは机を回り込んでファレルに詰め寄った。
「トフィが本人格ですか? 私は旦那様にはもう会えないのでしょうか?」
縋るように聞くがファレルは答えない。
シェリーはファレルの袖を掴んだ。この機会を逃したくなかった。
トフィと違ってファレルはクリスとの繋がりがあるのだ。そしてファレルにも、次はいつ会えるのか分からない。
「今、旦那様は……“クリス”はそこにいますか? 私の声は聞こえているんでしょうか? 聞こえているなら伝えたいんです。私は旦那様が好きです、あなたと結婚できてよかった。できればもう一度、会いたい」
青い目を覗き込み、必死にシェリーは告げた。
「…………」
ファレルが絶句する。
しばらくの沈黙のあと、そろりと袖口の手を払われた。
「あのなぁ…………都合よく変われるわけじゃねえんだよ。俺にどうしろっていうんだ」
イラついて呆れた声でファレルが言う。
「すみません。ずっと、もう会えないんじゃないかと考えていて」
「クリスにか?」
「はい」
「…………少なくとも昨日、俺が交代したのはクリスだった。だからその内に会えるだろ」
「でも昨日は」
トフィだったのだ。
「細かいことは知らねえ、ほらもう行けよ」
話は終わりだと言うように、ファレルが追い払う仕草をする。ここで食い下がっては本気で怒らせるだろうと分かった。
シェリーは仕方なく、執務室を後にした。
本当にその内に夫に会えるのだろうか。昨晩のトフィは夫だったのだろうか。
考えても考えても答えの出ないことで悩みながら、シェリーは一日を過ごした。
帳簿をつけ、領地管理の一部の仕事をこなし、ほとんど味のしない昼食と夕食を食べる。
そうして迎えた夜、あっさりと夫は戻ってきた。
❋❋❋
自室で過ごしているとノックの音がして返事をする。外からは「俺だ」とだけ名乗られた。
扉を開けると、酒と葉巻の匂いをまとった男が立っていた。静かな青い目がシェリーの全身を痛いくらいの強さで見つめてくる。それから男は片手で顔を覆い、こう言った。
「迷惑をかけた」
吐息混じりの小さな声。口調と言葉遣いで夫だと、シェリーには分かった。
「…………クリス、ですか?」
そう聞くと、顔を覆っていた手が離れ青い瞳と目が合う。
「そうだ」
クリスの返事にシェリーはへなへなと力が抜けてしまった。張り詰めていたものが一気に崩れる。
扉に寄りかかるような体勢になったシェリーを、クリスが優しく抱きとめた。
ああ、夫だ。
大きな安堵がシェリーを包んだ。
「もう会えないのかと思っていました」
みるみる涙が溢れた。ぱたっ、ぱたっ、と雫が落ちる音がする。
クリスは無言でシェリーの涙を拭うと、ソファに座らせてくれた。
そっと肩が抱かれる。昨晩のトフィと同じ体勢で、シェリーの胸はつきんと痛んだ。トフィのことを傷つけたままなのだ。それでも隣にクリスがいるのを素直に嬉しいと思い、シェリーは少し息苦しさを感じた。
クリスはシェリーの涙が止まるまで、無言で肩を抱いていてくれた。
やがて、泣き止んだシェリーにクリスが口を開く。
「“トフィ”は、ハイデ先生の機嫌がいい時に対応していた人格だ」
シェリーは驚いてクリスを見上げた。
これまでクリスがファレル以外の人格に言及したことはない。過去のことを話すのを嫌うのだ。乳母の名前を口にしたこともなかった。
「俺は、ハイデ先生の変に甘い態度が気持ち悪くて、そこから豹変する瞬間が一番苦手で……」
クリスの顔はシェリーの方ではなく、まっすぐ前を向いているので表情は読めない。だがその頰は強張っているように感じられた。
「無理に教えてもらわなくてもいいですよ」
そう言って遮ると、クリスは長い長い息を吐く。
「……説明しておくべきだった。君をとても不安にさせた。すまない」
眉を下げて辛そうな顔がシェリーに向けられた。
「あと一人いるんだ。ルーという男の子で、ファレルしか会ったことがない。完全に一人きりの時に出てきて泣く人格らしい」
「…………」
「全部で四人だ」
「…………」
辛い告白をさせてしまった申し訳なさと、それでも教えてくれたことへの感謝がこみ上げる。
「ありがとうございます」
そう返すとクリスはほんの少し笑った。
「最初の時も君は礼を言ったな」
クリスの表情が柔らかくなる。
「より正確に言うと、四人いたんだ。トフィとルーは何というか……最近は俺と一緒になっていた」
「一緒に?」
「ハイデ先生から解放されて、二人は役目がなくなった。出てこなくなって、おそらく俺と統合していたと思う。素人の見解だが。だから君にもグイード先生にも言う必要はないと思って言わなかった」
クリスは再び長く息を吐いて、目元をほぐすように揉んだ。
「記憶を失って分離したのかもしれない。驚かせてすまなかった」
「記憶を失って分離……つまり今は思い出しているんですか?」
「ああ、昨日、君に泣かれて思い出した。俺は非常に混乱してしまい、ファレルが出てきた」
ファレルは荒事担当のはずである。トフィにとってもクリスにとっても、シェリーに拒まれて泣かれたことは衝撃的なことだったらしい。
「昨晩は、すまなかった。言い訳になるがトフィはまだ十六歳で、あー……抑えがきかなかった」
クリスがそう続けたので、シェリーは青くなった。変な話だが昨日のトフィは将来の夫だったことになる。それを思い切り拒絶してしまった。
「ごめんなさい。私、泣いてしまって」
「いやっ、いいんだ。昨日のトフィは俺じゃない。君が驚いて拒むのは当たり前のことだ」
青くなったシェリーにクリスが慌てる。
「外見は一緒でも触り方や、キスの仕方が違っていたはずで…………すまない、生々しい表現をした。とにかく、こちらが悪かった。泣かれてショックだったが、トフィを君が拒んだのは嬉しくもあって、その、今は複雑な気分だ」
今度はシェリーはじわじわと赤くなった。
クリスを見ていられなくなって俯く。
顔を赤くして下を向いた妻をクリスはそっと抱き寄せた。
「トフィの間のことも覚えているんですか?」
「何となくだが」
「今のあなたはトフィでもある?」
「どうだろうか、同じではないと思うが……君に浮かれていた気持ちはしっかりある」
「…………」
「俺も君に会いたかった」
ぴくりとシェリーの肩が動く。
「俺からの気持ちは君からすれば拒みようがないし、気味が悪いだろうと思って言えなかったんだが、俺も君が好きだし、君と結婚できてよかったと思っている」
シェリーの顔がさらに赤くなる。
クリスの告白が嬉しかったのもあるが、クリスは“俺も”と言って、シェリーが言ったことをなぞっているのだ。
トフィやファレルにした告白は全て筒抜けらしい。
どんな顔をすればいいのか分からずにシェリーはクリスの胸に顔を埋めた。
「シェリー」
柔らかく名前が呼ばれ「愛している」と続けられた。




