12.新しい名前と離れ
馬車が時計台の広場に着く。
お昼前のそこには飲食や土産物の屋台が準備中で、観光客らしき人々もいた。
もう少し時間が経てばかなり賑わうのだろうが、今はまだ人はまばらだ。
シェリーは馬車から降りて御者に迎えの時間を告げ、さっそくクリストファーと時計台に向かった。
近く見上げると時計台はけっこう高い。到達点の屋根の下の展望台にいる人々が小さく見えている。
「あそこまで上るんですね」
「こうして見るとかなり高いね。頑張ろうね、シェリー」
入場料を払い、二人で螺旋階段を上る。
近くに他の人影は見えないが、上から足音や話し声が反響して聞こえてくるので自分達以外にも上っている人はいるようだ。
明り取りの窓はあるが、足元は薄暗く神経を使う。
ここが半分という目印の地点でシェリーは早くも息が上がってきていた。
クリストファーの方はというとまだ余裕がありそうだ。瀕死の重傷を負い、一ヶ月ほど前までは屋敷の階段で息切れがすると言っていたのに驚異の回復である。
騎士だった時に培った筋力や体力があるからなのだろう。
「シェリー、大丈夫?」
残り四分の一まで来たところでシェリーが遅れだし、クリストファーが心配そうに振り向く。
「っ、大丈夫です。もうちょっと運動しなくてはと実感しているところです」
田舎にいたころはもう少し動けたはずなのだが、セレンデス家に嫁いできてからは屋敷に引き篭もってばかりだったので体力が落ちてしまったようだ。
(明日からは、庭の手入れでも手伝おうかしら)
そんなことを考えながら、今はまず目の前の階段だと一歩一歩足を進める。
クリストファーはシェリーの元まで引き返してくると笑って手を差し出した。
「非力なお嬢さん、掴まって。引っ張ってあげるよ」
ぐいと力強く左手を取られる。
(あ……)
大きな手は城のパーティーでシェリーを連れ出した手と同じだ。
シェリーは妙に懐かしい気分になりながら螺旋階段をクリストファーに引っ張ってもらった。
やがて眩しい出口が見えてくる。
外に出ると少し強い風が顔にあたった。
「わあっ」
クリストファーが感嘆の声をあげ、シェリーが顔を正面に向けると眼下に王都の景色が広がっていた。
模型のような小さな建物達。普段は上から見ない薄いオレンジの屋根が並んでいた。
王都の向こうの丘の緑までも見渡せて、空が広い。
「すごいですね」
「果てしない階段を上った甲斐があったね」
「ええ、ほんとに」
シェリーはクリストファーと顔を見合わせて笑った。
周囲でも皆、長い螺旋階段をくぐり抜けたこと労いながら景色を楽しんでいる。
二人もゆっくりと展望台を周り王都を眺めた。
景色を堪能し、強い風で体が冷えてきたので地上へと戻る。上りと違って下りは簡単だ。二人はあっさりと時計台の入り口に折り立った。
まだ体が冷えたままだったので、開店したての屋台でホットレモネードを購入して飲む。
「シェリー、お腹空かない? ついでにお昼も食べちゃおうよ。たまにはいいよね」
クリストファーがそう提案してそのままホットドッグも追加で買い、屋台横の簡易なテーブルで昼食にする。
「旦那様、ケチャップが付いてます」
シェリーがクリストファーの唇の端のケチャップを指摘すると、クリストファーはそれをぺろりと舐め取った。
「ねえ、シェリー、呼び方なんだけどさ。“旦那様”は他人行儀だから名前で呼んでほしいんだ」
ケチャップを飲み込んでからクリストファーはそう切り出した。
「……クリストファー様がいいですか?」
そろりと名前を口にしながら聞く。
「呼び捨てでいいよ」
「それは少し、抵抗が……」
シェリーは怯んで折衷案を出した。
「クリストファーさん、でどうでしょうか?」
「それはなんか嫌だな。先生と生徒みたい……あ! じゃあ愛称で呼んでよ。トフィって」
「トフィ……」
「昔、ハイデ先生だけが呼んでた僕の愛称なんだ」
屈託のない笑顔で“トフィ”が告げる。
「…………トフィ」
慣れない名前を呟く。
それは聞いたことのない名前だった。
(やっぱり……違う人なんだわ)
シェリーはどこか諦めにも似た気持ちでそう思った。
新しい名前が出てきたことですとんと納得したのだ。向かいに座るクリストファーは“クリス”でも“ファレル”でもない第三の人格なのだと。
名前もそうだが、クリスもファレルも乳母を“ハイデ先生”と親しげに呼ばない。
そして己が病む原因となった女に呼ばれた愛称を、嬉しそうに告げたりは絶対にしないだろう。
(旦那様じゃ、ないんだ……)
シェリーの胸は明確にじくじくと痛んだ。もう夫には会えないのかもと考えると手が冷たくなった。
でもトフィを拒絶する気持ちにはなれなかった。彼は出会ったその時から温かな気持ちをシェリーに向けてくれていて、それは嫌ではなかったし、ほんの一瞬は夫と重ねて見たこともあったのだ。
『他の人格も彼の一部です』
医師のグイードからは、そのように言われたこともある。
もし“トフィ”が本人格だとしても、その中には確かに夫もいるのだろう。
「いきなりトフィと呼ぶのは無理かもしれません。少しずつ、慣れるようにしますね」
シェリーは何とか笑顔を作ってそう返した。
そのぎこちない笑顔にトフィが気づく。
「ごめん。僕はまた急ぎすぎたみたいだね。呼び方は何でもいいよ。シェリーの気持ちが一番大切だから」
トフィは肩を落として寂しそうに笑った。
「…………」
申し訳なさで胸がきゅうと痛む。
それにこうやってシェリーの変化にすぐ気づいてくれるところは、やはり夫と重なった。
(時間をかければ、この人との関係も築いていけるかしら……?)
そう自問してみる。
できる、とシェリーは思った。
それは恋愛感情ではないかもしれないけれど、それでも温かなものにはなるだろう。
「いつか自然に呼べるようになりたいと思います。あなたを知りたいし、近づきたいです」
そう告げると、トフィは嬉しそうに顔を輝かせた。
❋❋❋
ホットドッグの昼食の後は何となく土産物屋を巡り、シェリーとトフィはセレンデス家に帰ってきた。
「このまま、離れの様子を見に行ってもいい? 一度見てみたかったんだ」
馬車を降りたトフィがそう聞いてきて、シェリーは眉を寄せる。
「……離れは扉を塞いでしまっているので中には入れませんよ」
クリストファーが十五歳まで過ごした離れは今は使われていない。先代の侯爵夫妻とクリストファーの兄が亡くなった時に家財道具を運び出し、扉は板で止めたと聞いている。
なのでシェリーも中に入ったことはない。
「ウィルスにも聞いたよ。外から見てみるだけでいいんだ」
「それなら」
シェリーは頷いて、トフィと本屋敷の裏手へ回り、庭を横切って離れを目指した。
侯爵家の敷地の端に離れはひっそりと佇んでいた。2階建ての小振りな屋敷だ。この辺りの庭は最低限の手入れしかされていないので周囲の草は多少だが伸びてきている。
何年も放置されている離れは外壁の塗装が所々剥がれていた。正面の扉には板が打ち付けられていて、一階の端の窓はガラスが割れている。
『離れを見たことあるか? 閉ざされた後、一階の窓に石を投げて割ったのはクリスだ』
いつだったかファレルが苦々しくそう言っていたのを思い出す。シェリーがうっかり離れでの生活について触れてしまった時だ。
ファレルはそれ以上、言葉をつがなかった。思い出したくもないのだろう。そして夫も石を投げつけるだけで精一杯な場所なのだとシェリーは察した。
それ以来、シェリーは離れのことや乳母のことは口にしていない。
改めて荒みつつある建物を見る。
ここでクリストファーと乳母はほとんど二人きりで過ごしていたのだ。
そして乳母のハイデは歪んだ人だった。
彼女は機嫌がいい時はクリストファーを甘やかしたが、悪い時は何時間も叱責し続けたり、否定的な言葉で責めた。そうして幼いクリストファーは損なわれた。
詳しい状況はクリストファーがグイードに語りたがらなかったので分かっていないが、ハイデがクリストファーの病の原因となったことは明らかだ。
そしてさらに、クリストファーに自我が芽生えて反抗するようになるとハイデは暴力も振るった。大柄な女性だったので、少年にとっては脅威だったはずだ。ファレルが出てくるようになったのはこの頃だという。
暴力の後のハイデは優しかったらしい。
そんな歪んだ生活はクリストファーが十五歳の時にやっと終わる。
その後、ハイデはライデンによって環境の厳しい修道院に送られた。表向きは屋敷の金品を盗んだ罪でであった。
クリストファーのための金を使い込んでもいたからそれも嘘ではないが、より重い罪である子どもの虐待については触れられなかった。
クリストファーが病んでいることを隠したかったライデンは、虐待については秘密にしたのだ。
数年後、彼女は修道院で病にかかり亡くなったらしい。
シェリーはそれらの事情を医師のグイードから聞いた。夫がグイードに話すように頼んだのだ。
夫は「本来なら俺から直接話すべきなのだが、自分にはできそうにない」と詫びてもきた。
「…………」
ぼんやりと思い出しながらシェリーは離れを見る。
「放ったらかしだと荒れちゃうんだね」
隣のトフィがぽつりと呟いた。
「家は人が住んでいた方が持ちがいいと聞きます」
「そうだね」
トフィはしばらく離れを眺める。それから片手でこめかみを押さえて目をつむった。
「どうしました?」
「大丈夫、ちょっと頭がずきずきしただけ」
答えたトフィは不意にしゃがんで小さな石を拾うと、ひゅんとそれを離れに向かって投げた。
小石は離れの壁に当たり、こつんと音をたてる。
「旦那様?」
「あ、ごめん。何でかむしゃくしゃして……子供っぽかったね。屋敷に戻ろう」
トフィは苦笑してそう言い、二人は本屋敷へと戻った。
お読みいただきありがとうございます。
あと4話です。金曜の夜に完結予定です。




