ヴィヴィ十一歳(3)
アンゲリカは嘘つき令嬢と呼ばれている。
三年ほど前アンゲリカの伯爵家はアウフミュラー侯爵家を出禁になった。
一時は借金で没落かと思われたが、裕福な子爵家の当主とアンゲリカが婚約を結ぶことによって援助を受けることができた。
ただ婚約相手はアンゲリカの父より年上で三度目の結婚になるが。スケベ爺ではあるが贅沢をさせてくれるので貰うものだけ貰って学院の卒業までには婚約を破棄しようと思っている。
アウフミュラー侯爵家を出禁になった理由をアンゲリカは侯爵家の息子と親しくなったアンゲリカに侯爵家の庶子の娘が嫉妬して意地悪をしたと説明した。
「私がエルヴィン様と仲良くお庭を散歩していたら庶子の娘が意地悪をしてきたのです。平民の男をけしかけ私に暴力を振るおうとし、皆の前で池に飛び込んで私のせいにしたのです。その娘に騙された侯爵が我が家を出入り禁止にしたのですわ」
と涙ながらに語った。
アウフミュラー侯爵は愛妻家として有名である。彼が妻を亡くした時の事件は大っぴらに話されてはいないものの皆が知っていて、未だに亡き妻だけを愛していることは周知の事実だ。
そんな彼に愛人やましてやその娘がいるなどと信じる者はいなかった。
ゆえにアンゲリカは噓つき令嬢と呼ばれ皆に疎まれた。学院でもアンゲリカに話しかける者はいない。
今日のプレデビュー、先頭で入場してくるアウフミュラー侯爵家とあっけにとられる人々を見てアンゲリカは胸のすく思いだった。
アウフミュラー侯爵家のあの娘は気に食わないがアンゲリカを嘘つき呼ばわりした人たちが唖然とした顔をしているのを見るのは痛快だった。
壁際で一人ほくそ笑んでいると取り巻きを引き連れたハンクシュタイン侯爵の娘がやってくるのが見えた。
「ごきげんようアンゲリカ様」
扇で口元を隠しながらゲルトルートが言った。
「何か御用ですか? ゲルトルート様」
アンゲリカはゲルトルートに挑戦的な目を向ける。
「あなた、アウフミュラー侯爵家の庶子のことを前に話していたわね」
「ええ。皆さんに信じてもらえずとても悲しい思いをいたしましたわ」
アンゲリカは出てもいない涙をぬぐった。
「あの女はどういう女なの? エルヴィン様と仲がいいの?」
ゲルトルートの妹のジモーネが性急に聞いてくる。
アンゲリカはさも悲しそうに盛大にため息をつく。
「あの娘が庶子なのは皆さまお判りでしょう。あんなにアウフミュラー侯爵家の方々と似ていないのですもの。あの娘はしたたかなのですわ。エルヴィン様はあの娘をたいそう可愛がっていらっしゃいましたもの」
ジモーネはギリギリと扇の下で歯ぎしりをした。
「今日の様子を見るとフィリップ様もあの娘に丸め込まれたようですわね」
「聡明なフィリップ様は簡単に丸め込まれたりなんかいたしませんわ!」
アンゲリカの言葉にゲルトルートが答えるがアンゲリカは嗤った。
「ふふふ……あの小娘とダンスを踊るのはどちらかしら。何度誘っても絶対に靡かないフィリップ様かもしれませんわね」
「そんなことはさせないわ」
平静を装っていてもゲルトルートの扇を握る手はぶるぶると震えている。それをいい気味だと眺めていたアンゲリカは次の言葉に耳を疑った。
「あの娘、素敵なドレスを着ているわね。あなたが今持っているそのジュースの色の花模様になったらもっと素敵になると思わないこと?」
「は?」
「アンゲリカ様、あなたにお役目を差し上げるわ」
打って変わってゲルトルートは楽しそうに言った。
「私は聡明なフィリップ様があんな小娘に丸め込まれたなどと信じてはおりませんわ。でも念には念を入れなくてはね。あら、可哀そう、あの娘はプレデビューのダンスを踊れないかもしれないのね」
クスクス笑ったゲルトルートは鋭い目でアンゲリカを見据えた。
アンゲリカは手元のジュースを見て激しく首を横に振る。
「無理だわ! そんなことをすれば私がアウフミュラー侯爵家に睨まれるじゃないの!」
「ふふ……アンゲリカ様は足元がおぼつかないようね、大変だわ、よろけてしまうかもしれませんわね」
「無理よ……」
「あら残念、わたくしあなたとお友達になりたいと思っていましたのに」
ゲルトルートの言葉にジモーネも賛同する。
「お姉さま天才だわ! 私の晴れの舞台を台無しにしたあの女は罰を受けるべきだと思うわ」
ジモーネより前にヴィヴィたちが入場したのも注目を集めたのもヴィヴィのせいではない。完全に逆恨みだがハンクシュタイン侯爵家の姉妹がヴィヴィとかいうあの娘を敵認定するのはアンゲリカには好都合だった。
「ねえ、あなた学院でも一人もお友達がいないんですって? 私の取り巻きになればあなたもちやほやされるわよ」
ゲルトルートのこの言葉がダメ押しとなってアンゲリカは渋々だがヴィヴィにジュースをかける役目を引き受けた。
ただしゲルトルート達がフィリップとエルヴィンをヴィヴィから引き離してアンゲリカがジュースをかけるところを目撃させないように頼んだ。
その令嬢は何気なさそうに片手にぶどうジュースのグラスを持って歩いてきた。
白いドレスではないのでプレデビューの令嬢ではない。でもグラスを持って歩き回ったらふとした弾みにドレスを汚してしまうのに……なんとなく気になってヴィヴィはその令嬢を見ていた。
彼女はヴィヴィに近づくとにんまり笑った。
「お久しぶりね、ヴィヴィさん」
「? ……あ! アンゲリカ……様?」
ヴィヴィの脳裏に三年前の出来事が蘇る。
ジーク兄様の指輪を池に放り投げたアンゲリカ。
あの時の事を謝りに来たのかしら? とヴィヴィは表情を和ませた。
プレデビューを済ませた今ではあの指輪は王太子殿下の大事なものだとわかった筈だ。
しかしヴィヴィの予想に反して、突然アンゲリカは「ああっ! よろけてしまったわ!」とわざとらしく言いながら手に持ったジュースをヴィヴィに向かってぶちまけようとした。
パシャ!
ヴィヴィの前に大きな背中が見える。
ヴィヴィの代わりにジュースを浴び、胸元から足まで紫色の雫を滴らせているのはフィリップだった。
フィリップもヴィヴィ同様ジュースを持ったアンゲリカが気になって何となく目で追っていた。
令嬢は何気なくだが確実にヴィヴィに向かって近づいていく。
彼女がヴィヴィの前に立ったと同時にフィリップは動き出した。
「あ、フィリップ様——」
フィリップを引き留めようとしたゲルトルートの手は空を切った。
胸元から足まで紫色の大きなシミが広がったフィリップを見てアンゲリカは真っ青になった。
フィリップは鋭い目でアンゲリカを睨みつける。
「どういうつもりだ?」
「あの……すみませんよろけてしまって……」
「僕にはよろけたようには見えなかったが」
だからゲルトルートにはフィリップとエルヴィンを引き離しておくように言ったのに……
アンゲリカは舌打ちしたい気分だったが顔だけは殊勝に俯いて申し訳なさそうなふりをした。
「兄上どうし———あっ! お前アンゲリカだな!」
エルヴィンがやってきたところでアンゲリカはマズいと思った。
こうなればゲルトルートに脅されたと言うしかない。
「まあ! どうなさったんですか?」
ゲルトルートたちも乱入する。
「フィリップ様、大変! お召し物が!」
「早く着替えてきた方がよろしいですわ!」
ゲルトルートたちが大声で騒ぎ立てるので周囲の者たちも注目し始めた。
アンゲリカは騒ぎに乗じてこそこそとその場を離れる。
フィリップはアンゲリカへの追及を諦めエルヴィンに耳打ちした。
「急いで着替えてくる。ヴィヴィを頼む」
父に言えば着替えを用意してもらえるだろう。
フィリップは足早にその場を後にした。
「ヴィヴィ、向こうに行こう」
エルヴィンはヴィヴィを連れてホールの前方に向かった。
王族の席にほど近いこの場所なら騒ぎを起こす者もいないだろう。
プレデビューの者たちの国王への挨拶はもうすぐ終わりそうだ。
終わればダンスが始まる。
(兄上は間に合いそうもないな。兄上には悪いけどヴィヴィのファーストダンスの相手は俺が努めよう)
そうエルヴィンが考えた時だった。
「エルヴィン・アウフミュラー様、侯爵様がお呼びです」
一人の侍従らしき人が声をかけてきた。
「父上が? 何だろう」
壇上の国王を見るがその傍に控えた父の姿は無い。
「エル兄様、早く行った方がいいわ」
「わかった。ヴィヴィ、ここを動くんじゃないぞ。ダンスまでには戻ってくるから」
エルヴィンは足早に侍従らしき男とその場を離れた。
ホールにほど近い一室に通されたエルヴィンは苛立っていた。
そこで待っていると思われた父の姿はなかったからだ。
「戻る」
言い置いてホールに戻ろうとしたが男に阻まれた。
「そこをどけ」
「もうすぐ侯爵様がいらっしゃいますので」
エルヴィンが睨んでも男は飄々としている。
「あ、侯爵様がいらっしゃいました」
扉を開けて入ってきた人物を見てエルヴィンは嵌められたと思った。
「やあやあお初にお目にかかる」
入ってきたのは夫人を伴ったハンクシュタイン侯爵。そういえばあの男はただ侯爵としか言わなかった。勝手に父だと思ったのはこちらだが、通常は家名を言って「誰それがお会いしたいと言っている」という筈だ。ただ侯爵としか言わなかったのは明らかに誤解させるためだ。
一応相手は侯爵夫妻でこちらは侯爵の息子、まだ学生に過ぎない。礼儀正しく挨拶をする。
「それでどのようなご用件でしょう? 少々急いでいますので急用でなければ後日改めて」
エルヴィンの言葉を軽く受け流しハンクシュタイン侯爵はのんびりと話し出す。
「まあまあエルヴィン殿。あ、エルヴィン殿と呼んでもよろしいかな? せっかくここで出会えたのだ。これからは両家の交流を———」
「失礼! またの機会に」
エルヴィンは焦れて侯爵の言葉を遮り強引に部屋を出た。
廊下に出たところでダンスの曲が流れ始めた。
「あちゃ~」フィリップにどやされるだろうな。と思いながらエルヴィンは駆け出した。
何よりヴィヴィが心配だ。せっかくのプレデビュー、嫌な思い出にさせたくなかった。
エルヴィンが行ってしまってからヴィヴィは暫くその場所で待っていた。
国王への挨拶は終わり周囲の人々は動き始めた。ホールの中央はダンスフロアになり白いドレスを着た令嬢や胸に白い花を挿した令息たちがパートナーと共に続々と集まってくる。ヴィヴィは邪魔にならないように端に下がったが白いドレスを着た令嬢がダンスに向かわず一人立っている様はひどく目立ってしまっていた。
国王への挨拶の時ヴィヴィの後ろを歩いていた女の子がヴィヴィを見て馬鹿にしたように嗤うのが見えた。
「それではプレデビューの方々にファーストダンスを披露していただきましょう」
楽団の音楽が流れ始めるその時、ヴィヴィの前にすっと手が差し出された。
その人物はパートナーが現れないヴィヴィにダンスを申し込もうとそわそわしていた男たちを牽制してヴィヴィの前に来ると優雅に手を差し出した。
「お嬢さん、私と踊っていただけますか?」
「ジーク兄様……」
王太子の登場に周囲から声にならない悲鳴が上がる。
「ほら、曲が始まったよ。さあ踊ろう」
「はいっ!」
ヴィヴィの手を取ったジークはホールの一番目立つ場所にヴィヴィを誘導する。
まさかの王太子の登場に皆場所を空けた。
音楽に乗って二人は踊りだす。
ジークのリードは巧みでヴィヴィは背中に羽が生えたように感じた。
見上げると大人っぽくなって男っぽくなったジーク兄様の顔がそこにあった。
「ヴィヴィ、綺麗になったね」
「ジーク兄様こそ……」大人っぽくなった……と言おうとしてヴィヴィは慌てて言いなおした。
「王太子殿下こそ——」
「ダメダメ。ヴィヴィはその呼び方は禁止だよ。 うっ......」
ジークはヴィヴィの目を見つめて言った。見つめて言ったその後で小さなうめき声をあげる。
ヴィヴィが足を踏んでしまったからだ。背中に羽根が生えたように感じたヴィヴィだったが、その羽根もダンスの腕を向上させてはくれなかったらしい。
「申し訳ございません、王太子殿下……」
委縮するヴィヴィの腰をジークはグイッと引き寄せた。引き寄せながら囁く。
「どうか昔のように呼んでくれ。敬語も無しだよ」
昔のように? 王太子殿下ではなくジーク兄様でいいの?
ジークの瞳は昔からヴィヴィを落ち着かせる。なぜだかジークの青空のような澄んだ青い瞳はヴィヴィが一番安心できるものだった。
それから五回ヴィヴィはジークの足を踏んだ。
「大丈夫、ヴィヴィは軽いから痛くないよ」
ジークはそう囁いてくれたけど、若干涙目だったのは見間違いではなかったと思う。
「来春、学院で待っているよ」
ダンスの終わり際、ジークはそう囁いて見た目には分からないほどわずかに足を引きずりながら王族席に戻って行った。
ホールに駆け付けたエルヴィンは踊っているジークとヴィヴィがすぐ目に入った。
なんていったって目立つのだ。ホール中の貴族の視線を釘づけにして二人は踊っていた。
その場に立ち止まりエルヴィンはホッと息を吐いた。
口元に笑みが浮かぶ。二人を眺めていると後ろから肩を叩かれた。
「兄上」
「なんでおまえじゃなくてジークがヴィヴィと踊っているんだ?」
エルヴィンが肩をすくめ、さあ? というように首をかしげると
「ジークに一番いいところを持っていかれたな……」
それは全く同感だったのでエルヴィンも大きく頷いた。
「美味しい役目を横から搔っ攫ったんだからジークには多少痛い目を見てもらわなくてはな」
フィリップの言葉の意味がわからずエルヴィンが訊ねると、ヴィヴィはダンスの相手の足を踏む天才なのだという。
「あの独特のリズム感についていけるのは、一緒に練習した僕だけだ」
なぜかフィリップは得意げだった。
何かと騒動は起こったがヴィヴィはプレデビューを無事に終えた。




