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第二話 蒼夜

 ワタシには名前がない。

 

 この店に訪れる客は、ワタシを外見から「クロ」と呼ぶ。

 

 仲間達は、少しの尊敬と大いなる親しみを込め、「教授」と呼ぶこともある。

 

 だが、ワタシには関係のないことだ。

 

 名前がどうあれ、ワタシがワタシだということには変わりないのだから。


 

 

 

 夕暮れがこの街を包み込む頃になると、このバーの空気も一変する。

 

 太陽が空高くに座している時間には感じられなかった匂い・・・アルコールと、人生の苦み・・・が充満するから。

 

 ネコのワタシには知る由もないが、人間には人間の苦労があるようだ。

 

 だが、苦しみがあるからこそ輝くことができるということを理解している人間は少ない。

 

 苦しい者は苦しさに沈んでしまうから。

 

 楽しい者は楽しさに溺れてしまうから。

 

 それは人という種に限ったことではなく、生を歩む者たち全ての業なのかもしれない。 しかし、ワタシは思う。

 

 溺れても、迷っても・・・・いつか自分だけの道を見つけることができると。

 

 ・・・・話がそれた。

 

 このバーの主人は不思議な人物だ。

 

 店主という地位にいるくせに、商売を省みない。

 

 それは業務を怠っているというわけではなく、この仕事を仕事と考えていないのだ。

 

 彼はこの仕事を楽しんでいる。

 

 ヒトの悩みを聞き、自分の思い出を語り、老人の想いを受け、悲しむ者のために静かに涙する・・・。

 

 それを人生の一部としてしまっている。

 

 お人好し・・・というのかもしれない。

 

 だが、真のお人好しは何者にも騙されることなど無いということを、ワタシはこの主人から学ぶことができた。

 

 皆から好かれている・・・それが彼の唯一絶対の強みであった。

 

 そんな彼は、今日も今日とて常連客の老人がしきりに自慢していた盆栽を見に行っている。

 

 ワタシに「頼むよ」と一言残して。

 

 ネコに店番を頼んでどうしろというのだろう?

 

 だが、律儀にもワタシは、こうして客を待っているというわけだ。

 


    カランカラン

 


 誰もいない室内に、涼やかなカウベルの音が響いた。

 

 一呼吸おいて、若い女性が入ってくる。

 

 彼女は成人してから日がないように思えた。


 化粧気のあまりないその顔は、すでにアルコールが入っているのか、薄い桜色に染まっている。   


 少しよろけながらも、彼女はカウンターに備え付けられた丸いイスに腰を下ろした。


  「あれ・・・誰もいないのか・・・な?」

 

 残念そうな顔をして、彼女がうつむく。

 

 ワタシは自分の存在を示すために一声鳴いた。

 

 「あれ・・・君がマスターなのかな?」

 

 のぞき込んだ顔に、微笑みが浮かぶ。

 

 ワタシは、自分を対等に扱うこの女性に好意を持った。

 

 「でも、お酒を入れてくれることまではできそうもないね・・・」

 

 寂しげな微笑み。

 

 アルコールを摂取できないこと以上の何かを感じ、ワタシはヒゲを揺らした。

 

 彼女の前まで歩み寄り、小さな手で彼女の手に触れる。

 

 「ん・・ごめんね。仕方のないことだもんね。そうだなぁ・・・ちょっとした昔話を聞いてくれる?」

 

 彼女の瞳が、サフャイアのように揺れた。

 

 感情の揺らぎを見つけたワタシは、小さく頷く。


 「ありがと・・・あのね、あるところに一人の女の子がいたんだ。その子は有名人になりたいわけでも、大金持ちになりたいわけでもなくて、平凡な恋をして、ただ、その好きな人と結婚したいと思ったんだって・・・・・」

 

 彼女は語った。

 

 その、「昔話」を。

 

 やっと好きな・・・本当に大好きな人を見つけたこと。

 

 その人が遠くに行ってしまったこと。

 

 ようやく帰ってきたその人の隣には・・・・幸せそうに笑う、自分以外の「誰か」がいたこと・・・。

 

 そこまで話した彼女は、「ありふれた話しだけどね」、と・・・・涙の浮かんだ顔で微笑んだ。

 

 それはありふれた話しだけれど、嘲て笑うことなんてできそうもなかった。

 

 その辺の石ころのようにはいて捨てるほど多く存在してても、彼女の感じる痛みは彼女だけのものなのだから。

 

 同じ悲しみなんて、二つと存在しない。

 

    ニャー 

 

 無意識にでたワタシの声をきき、彼女が顔をのぞき込む。

 

 うつむいたひょうしにこぼれ落ちる、二つの雫。

 

 ワタシはネコだから、ヒトの男性のように、頭を撫でてやることも抱きしめてやることもできないけれど・・・精一杯の気持ちとほんの少しの共感をこめて、彼女の頬に触れた。

 

 助けてあげたいって想いながら。

 

 この世にいるかどうかも分からない、神に祈りながら。

 

 ワタシのネコらしくない行為が、彼女の涙を生みだす。

 

 その涙は、悲しみだけでできているにしては、ほんのりと暖かかった。 


 カウベルを揺らしながら、彼女の匂いがこの部屋から消える。

 

 最後に残ったのは、彼女の残り香と一つの言葉。

 

 「キミの名前・・・蒼夜ってどう?」


 


  悪くない。


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