第三話 「今、幸せですか?」
人の作り出したおもちゃ箱のようなこの町にも、ふと思い出したように一瞬だけ夜が訪れることがある。
喧騒の絶える、静寂の音色。
その音が町を包み込むとき、必ず何かが起こる。
それは悲しいことであったり、嬉しいことであったり・・・奇怪なことであったり、普通のことであったり・・・・。
予感だけが静々と町の中に舞い降りる。
雪のように、羽のように。
物語の一篇をたおやかに紡ぎだすこの場所には、今日も想いが集う。
風に舞う、旅人のように。
「それじゃマスター、また来ます」
カランカランというカウベルの向こう側に、その青年は姿を消した。
青空のような空気を纏っている青年。
常連の一人である彼は、常にスケッチブックを持ち歩く。
空色のキャンパス。
その中に彩られる世界は、彼の心を映しているかのようにとても優しいものだった。
技術的にはまだまだなのかもしれない。
だが、絵に対して造詣が深くない私にとっては、彼の絵はとてもまぶしく見えた。
彼の姿が消えると、とたんに部屋の中が静かになる。
まるで時が止まってしまったかのような錯覚に陥るこの瞬間が、私はとても好きだ。
微かな人の気配が窓の外から伝わり、木の声がわずかに聞こえ、部屋の中にコーヒーの香りが満ちる。
暖かな空間。
この空間が好きだから、私はこの商売をやっている。
この空間が好きだと、胸を張っていえる。
・・・・窓から入り込む月の光が、凛と澄んだ空気をほのかに揺らした。
唯一この場に残った小さな常連客のあくびをする音が、イスの上から漏れ聞こえる。
あまりにも気持ちよさそうで口元をほころばせながら、私は彼に心地のよい時間を提供しようと扉のほうへと足を向けた。
鍵を閉めようと扉に手を伸ばしたところで、くくりつけられたカウベルが澄んだ音を放つ。
「すみません、まだ開いていますか?」
まだ年の若い青年・・・少年が恐る恐る尋ねた。
彼の手を、傍らにたたずむ少女がぎゅっと握り締める。
「もちろんいいですよ。どうぞこちらへ」
にっこりと微笑んで、私は窓際の席へ彼らを導いた。
他の席より少しだけ高い場所にある席。
ほんの少しだけ、空に近い場所にある席。
光量を落とした部屋の中で、窓から差し込む月の光が揺れる。
蒼い燐光が彼らの姿を優しく包み込む。
小さな恋人たちの心が、少しだけほぐれた。
「これをどうぞ」
穏やかな沈黙の中で動かしていた私の腕が、彼らに向かって伸ばされる。
その先には陶器のカップが湯気を立てている。
冷たくなった空気を解きほぐすように、私は彼らにそれを手渡した。
珈琲の深い香りが染み付いた部屋の中に、ココアの優しい芳香が生まれる。
人の心を安心させる力。
その力に触れたためか、手のひらにぬくもりが生まれたためか、彼らの顔が小さくほころんだ。
それと同時に戸惑いが浮かぶ。
「あの・・・これは・・・」
「ああ、もう店を閉めるところだったから。残り物処理をしてくれるなら私としても嬉しいんですよ」
当然のように残り物なんかではありえない。
少々の時間がかかったとしてもコーヒーはちゃんと注文してから豆をひくし、ココアはしっかりとカカオとミルクを用いて作り上げるのが私のスタイルだからだ。
本当においしいものを提供したい・・・・この店を開いてからの、私なりのかすかなこだわり。
みんながそれを好ましく思ってくれるから、今の私やこの店がここにある。
彼らにそのカップを手渡したのは、気まぐれからでもサービスしようという心からでもない。
彼らの纏う不思議な空気が妙に気になったからだ。
追い詰められたもの特有の、鋭くて、でも痛々しいまなざし。
まだ年若い彼らのその姿がなんだか気になって、私はそれを渡していた。
にゃ〜お
あくび交じりの小さな声が、自分を精一杯主張する。
いすの上で丸くなっていた彼は、眠そうな目を細めながら私を見つめていた。
お人よし
そんな声が、かすかに脳裏を掠める。
そんなことは・・・・ないんじゃないかな?
彼の言葉を否定しようとして、でも自信がなくなって自爆する。
そんな私を見て、彼は小さく笑った。
「あの・・・・触らせてもらっていいですか?」
それまでかたくなに沈黙を守っていた少女が、私に問いかけてきた。
うつむきがちな表情の中で、わずかに目の輝きが戻っている。
「ああ・・・・いいですよ」
恨めしげな彼の視線をあえて無視して、私は少女に微笑みかけた。
年相応の笑顔を浮かべ、彼女は彼の頭をなでる。
迷惑そうな顔をしながらも、彼はだまって少女のしたいようにさせている。
彼は優しいからな・・・・・・。
蒼い夜の色を纏った彼の姿を目を細めながら見つめ、私と同様の視線を少女へと向けている少年のほうに眼を移した。
「遠いところからきたんですか?」
「・・・・え?」
少女に気を取られていた彼の注意が、私へと向かう。
不思議そうな声。
「ああ・・・ずいぶんと凍えているみたいだったから」
笑いかけながら、彼の疑問に答えを灯す。
暦の上では冬の始まりを告げる季節だが、ここ数日は比較的暖かい日々が続いている。
それでもかれらは寒さから身を守るかのように、互いにしっかりと寄り添いあっていた。
それは、寒さ以外の何かから互いを守ろうとしていたのかもしれないけれど。
「ええ・・・遠い・・・遠いところからきたんです」
遠くを見つめるような瞳。
そこに浮かぶ色は、悔恨と、後悔と、愛しさと、優しさと・・・・そして守るものを得た男の意志の強さだった。
「そうですか・・・・」
彼の持つ色に気づかないふりをして、私は相槌を打った。
突き放さないように、それでも馴れ馴れしすぎない様にと祈りながら。
静かなときが再びおとづれる。
嬉しそうな彼女の声と、わずらわしそうな・・・・でも優しい、小さな常連客の声だけが部屋に満ちる。
優しい光のように。
「お客様・・・」
私の声に、手の中にあるココアを見つめ続けていた少年が顔を上げる。
「このお店には不思議な言い伝えがありましてね・・・・」
私は語った。その物語を。
ある夜・・・一組の恋人たちがこの店の中に入ってきた。
寒い冬の夜。
空からは白い季節の贈り物が舞い降りている。
凍えそうなほどなのに、それでも彼らはお金を持っていなくて、寒さから身を守ることもできなくて、途方にくれていたところにこの店の明かりが見えたんだ。
わずかなお金しかないけれど、少しでも恋人を寒さから守りたくて、彼はこの店の扉を開けた。
店の中には客はいなかった。
ひげを生やした、優しい瞳のマスターがただ静かにたたずんでいた。
マスターは凍えそうな二人を見て、いぶかしそうな顔をするでもなくて、窓際の席に案内した。
しばらくして・・・・彼らの元に二つのカップが運ばれてきた。
中からは暖かい湯気と、甘い香りが漂ってくる。
少年は彼女の分だけを求めた。
少女は彼の分だけを望んだ。
たった一杯分のお金しか、彼らの手元には残されていなかったから。
そんな恋人たちを見て、彼は笑った。
残り物があまってしまったから、かたづけを手伝ってくれるとこちらも助かるんだ。
子供のような表情。
いたずらをしているかのようなマスターの声に乗せられて、彼らは琥珀色の液体に口をつけた。
彼らの元に、暖かいパンとハムエッグ、そしてスープが運ばれる。
決して豪華とはいえない食事。
でも、だからこそ気がとがめることなく口に運ぶことができる。
二人はマスターの小さな優しさに感謝した。
しばらくのときが過ぎ・・・・彼らはこの場所から冷たい街の中へ戻ろうとした。
どんなに暖かくても、どんなに優しくても、この場所は二人がいてもよい場所ではないから。
この場所は二人を迎えてはくれないから。
暖かくなった体と、これからの不安を抱きしめながら扉を開けようとした二人にマスターが声をかけた。
振り向いた少年に向かって投げられた、簡素な茶封筒。
残り物の片づけを手伝ってくれた御礼だと・・・・できればまた手伝ってほしいと・・・・マスターは言った。
その言葉を聞きながら、震える手で封筒を開ける彼らの目には、決してわずかとはいえない額のお札が写っていた。
彼らは泣いた。
あまりにも泣きすぎて、マスターがおろおろしてしまうくらい泣いた。
この場所が暖かすぎて。
この人が優しすぎて。
彼らは涙がかれるくらい泣いた。
それはとても、とても暖かい涙だった。
「・・・・それ以来この席に座った恋人たちは幸せになるって決まっているんですよ」
「決まっているんですか?」
「そう、決まっているんです」
マスターは微笑んだ。
少年もまた微笑む。
やわらかい月の光の中で戯れる、少女と一匹の猫を見つめて。
「・・・・お邪魔しました」
少年は立ち上がる。
ポケットから財布を取り出そうとして、そしてふと動きが止まる。
「・・・・その二人は幸せになれましたか?」
彼の問い。
その問いに目を閉じて、ゆっくりとマスターは言った。
「ええ、幸せですよ・・・・とても」
カウベルの澄んだ音だけを残して、扉がゆっくりと閉められた。
雑踏の中へ二人の姿が消えていく。
結局彼らからお金は取らなかった。
残り物の片づけを手伝ってくれたのだからと、渋る彼らを説得し、簡単なサンドイッチを持たせた。
彼らに何があったのかはわからない。
でも、また来てほしいと思う。
幸せになってほしいと・・・・願う。
傍らを見ると、先ほどまで少女の相手をしていた小さな客はいすの上で再び丸くなっていた。
今日は本格的にここに泊まっていくつもりなのだろう。
私は彼に留守番を任せ、扉を開けた。
街の中はイルミネーションで輝いている。
人通りはまばらで、でも人の気配が満ちて呼吸しているような感覚。
群衆の中の孤独があるように、一人ぼっちの中のぬくもりもまたあることを考えながら、私はレンガでできた道を歩いた。
歩みを進めると、小さな明かりがともっている。
電話ボックス。
今はもう数が少なくなったその場所の前で足を止め、しばらく考えてからその狭い空間の中に体を滑り込ませた。
もう指が覚えてしまった番号を押し、数回なったコール音が不意に止まる。
「あ・・・・もう寝てた?あ、大丈夫?今から帰るけど・・・・うん、うん・・・そんなことないって。今日さ、すごく若いお客さんが来てね・・・・・」
静寂に包まれた澄んだ空気の中に言の葉が融けてゆく。
街を静かに染め上げるかのように。
だんだんと小さくなるその声は、いつまでもいつまでも聞こえ続けていた。
今、幸せですか?
はい、幸せです。




