序話:契約(けいやく)
「目覚めよ、彷徨える魂よ」
意識が浮上した先は、上下も左右もない無垢な闇の空間だった。
目の前には、巨大な「管理者」と思わしき光の輪が静かに脈動している。
そこには重力も、風の音も、体温すら存在しない。
「……ここは?」
男は自分の声が、喉を通らずに直接脳に響く感覚に顔をしかめた。
「このままでは、私の管理する世界は滅びる。邪神を信奉する者たちが、封印を解こうとしているのだ。……君に、その世界を救ってほしい」
唐突な、あまりに飛躍した要求。男の胸に、冷ややかな困惑が広がる。
「世界を救う……? 冗談だろう。俺はただの人間だ。神様ごっこに付き合う趣味はない」
「冗談ではない。報酬は、君がずっと抱えていた『あの気掛かり』の解決だ」
心臓を直接掴まれたような衝撃が男を襲った。
記憶の底に沈めていたはずの、後悔の残り火。それを引き合いに出され、男の言葉が詰まる。だが、管理者の告げた代償は、その動揺を塗りつぶすほどに過酷なものだった。
「だが、代償は重い。異世界の力を授ける代わりに、君の魂は輪廻の輪から外れる。……すなわち、君に『次』はない。死ねば二度と転生することは叶わず、永劫の無へと還ることになる」
「輪廻……転生が、できない……?」
男は呆然と自らの手を見つめた。
それは単なる死を意味するのではない。自分がこの宇宙に存在したというあらゆる痕跡、魂の続きさえもが完全に抹消されるということだ。
「さらに、授ける力はあくまで取っ掛かりに過ぎない。君自身の意志で研鑽せねば、最終的に邪神には勝てぬだろう。敗北すれば、世界も、君の報酬も、そして君自身も……すべては無に帰す」
勝算の見えない賭け。あまりに不条理な条件。
男の思考は激しく乱れた。
(そんな大役が、俺に務まるはずがない。死ぬだけならまだしも、魂の消滅だと? それを賭けてまで、俺の『気掛かり』に価値があるのか……?)
自問自答の末、男は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、救いたかった誰かの背中。
もし、この不条理な契約が、あの日の後悔を塗り替える唯一の手段なのだとしたら。
「……ハッ。どうせ一度は死にかけた命だ」
再び目を開けたとき、男の瞳から戸惑いは消えていた。
代わりに宿ったのは、死よりも深い闇を呑み込むような、鋭い決意。
「いいだろう。その契約、引き受けた。……俺の魂に、二度目がないというのなら、今度こそ使い切ってやる」




