番外編六 雨の音
「ごちそうさま。」おいしかった、と言って小暮冴は箸を置いた。
「都ちゃん、料理の手際よくなったんじゃない?」
「ていうか、冴さん、普通にここで食べてくよね。」
ほとんど空になった大皿料理に、夕食担当の都は呆れ気味。
「ぼくらまでついでに、ごめんね。」
慌てて都は首を振る。
「栄一郎さんはお店の戦力だから気にしないでください。笙子先生にはすみません、だけど。」
「構わないよ。」宮原笙子はにっこり笑う。
「栄一郎くんの迎えを口実にエミリアに会えるし、冴さんがいると遠慮なく呑めるからね。」
そう言って、まだ焼酎の残るグラスを持ち上げる。
週末の夕食時。早瀬家のダイニングテーブルは、総勢六名のちょっとした宴会状態。
「それに竜杜くん不在だと、どうしたって早瀬さんとの打ち合わせが閉店後になるんだもの。時間的に仕方ないでしょ。」
「それはそうだけど……」
都は唇を尖らせる。
早瀬竜杜と結婚し、早瀬家の母屋で暮らし始めて数ヶ月。やっと日々の生活に馴れたと思ったのも束の間、週末ごとに冴と夕食を共にしているせいで、家を出た気がせず、なんだか出鼻をくじかれた気分。
とはいえ、彼女は目前に迫った喫茶店フリューゲルの改装工事の設計と監理担当なのだから、言い分はごもっとも。
「で、都ちゃんの旦那はいつ戻るの?」
「明日の夜、戻るわ。」とエミリア。
不在の竜杜と入れ替わりにこちらの家で過ごすこと、すでに三週間。立ち居振る舞いもすっかり日本的になり、今も当然のように急須で皆の分のお茶を淹れている。
「カズトがこちらの用事にかかりきりな分、どうしてもあの子の負担が増えてしまって、ミヤコには悪いと思ってるわ。」
大丈夫です、と都は言った。
「銀竜経由で連絡あるし、最初から予定してたことだし。」
ただし、当初予定の二週間が三週間になった、という愚痴は飲み込む。
「そうはいっても、そろそろ戻ってくんないと困るのよね。仮店舗への引越しは竜杜くん主導だから。あ、都ちゃんは手出しちゃダメよ。」
「大学、これから前期試験だもんな。」
「だからお店のほうも手伝いしなくていい、って言ってるんだけどね。」
宮原夫妻に言われて、都は曖昧に頷く。
「試験終わったらすぐ向こうに行くんだし、体力温存しときなさい。それに都ちゃん、小さいときから今の季節に体調崩すのよね。見張る人がいないと、根詰めてそうだし。」
「見張りって……」
「竜杜くんに決まってるでしょ。今日だって疲れた顔してるし。」
「そんなこと……」
「辛いときは辛いってちゃんと言いなさいよ。変なところで我慢強いんだから。」
もーっ、とむくれる都に宮原栄一郎が笑う。
「見透かされてるね。でも、冴さんに同意かな。」
「そうそう。時には立ち止まるのも必要なんだよ。」
「笙子先生にまで言われちゃった。」
その日の夜、勉強部屋に引き篭もった都は、傍らを浮遊する小さな竜に話しかけた。
小さな竜……銀竜のコギンは都の膝の上に降りると「くぁ」と鳴く。
「うん、みんな気遣ってくれてるのはわかってるよ。」
だからこそ余計、早く一人前になりたい願望が先行してしまう。
「ぎゃお!」
「コギンまで言うかなぁ。でもレポートは終わらせないと。週明け提出だし、もうちょっとだし。」
ね、と金色の瞳に言い聞かせる。
コギンは膝の上から床に滑空すると、そのまま足元の籠に入って丸まった。
足の先で突くと、応えるように鉤爪がちょいちょいと引っかく。そんな遊びを少しだけ繰り返すと、都は机の上に広げた本に目を落とした。やっと本を読み終え要点をメモして区切りがついたのは、とうに日付が変ったあと。
「さすがにだるい……じゃなくて眠い、かな。」
大きく欠伸。
ふと見れば、コギンもすやすや眠っている。
夢でも見ているのか、時折手足がピクリと動くのが可愛らしい。
都は籠のままコギンを抱き上げると、一旦廊下に出て隣の部屋に向かう。
「勉強部屋」と呼んでいるのはもともと竜杜が使っていた部屋で、彼が使っていた古いライティングデスクを都が使い、書棚にはそのまま竜杜の本が並んでいる。二人の書斎のような場所。
その隣の、長らく使っていなかった部屋が今は寝室になっている。
「がんばってるつもりはないんだけど……」
コギンの入った籠を足元に置いて呟く。
この家で暮らし始めると同時に新学期が始まった。早々に迎えたゴールデンウィークには、都の亡き父親の親友がドイツから形見を携えてやってきた。そしてやっと生活が軌道に乗った頃、竜杜がラグレス家へ戻って行った。しばらくぶりだったのでやや長めの滞在なのは最初から承知済み……だったが、二週間から三週間に延長になると、さすがに一人の時間をもてあますようになる。
もちろん、契約という力に支えられて互いに息災でいることは感じるし、銀竜を通して声は送られてくる。業務的に滞りはない。
それに以前の冴との暮らしと違って義理の両親がいて、冴も年中やってきて、店の外に出ればご近所が誰かしら声をかけてくる。賑やかなことこの上ないのに、なぜか時間が余ってしまうのだ。
「一人のときって、なにしてたっけ……」
うーんと考えながら広いベッドにぽすん、と横になる。
そういえば、今日は銀竜経由のメッセージがなかったことに気づく。
どうしようかと思ったが、体と脳は限界らしい。
横になったまま、あっという間に眠りに落ちた。
「まぁ。」と、エミリアが声を上げた。
「どうしたんだい?」
糊の効いたワイシャツにベストの喫茶店店長のユニフォームに着替えていた早瀬が首をかしげる。
すでに店の前は掃き掃除も終え、そろそろバイトの栄一郎もやって来る頃。そんな時間に、妻は銀竜と向かい合っていた。
「ミヤコ、頭が痛いんですって。」
「風邪かい?」
早瀬の問いに、コギンはふるふる首を振る。
「熱はない、か。それで?」
「ぎゃう!」
「そう。昼まで休むのね。」
こくこくとコギンは頷く。
「ずっと忙しかったから、疲れたのかな。」
「きゅう~」
「コギンのせいではないわ。」
エミリアはコギンの頭をなでる。
「でも今日はミヤコの傍にいてあげて。」
「きみも母屋にいてくれるかい?雨が降りはじめたから、庭仕事はできないだろう。」
そうね、とエミリアは頷く。
「何かあったら言うんだよ。」
「ええ。電話、使えるもの。」
「毎晩、宮原と長電話してるんだもん。」そりゃそうだろう、と早瀬は苦笑した。
「コギン、伝えてくれたんだ。」
メッセンジャーの役目を果たしたコギンは、両手で抱えてきたペットボトルを主人である都に渡す。
ありがとう、と撫でるとコギンは金色の瞳を細めた。
「油断したか……天気のせいかな。」
冴が言うとおり、小さい頃は雨の多い季節に必ず学校を休んだものだ。ここ数年はそんなことも忘れていたが、この家に住むようになって再び湿度や気温に敏感になった。だから目覚めて、雨に呼応するような頭痛にあっさり降参したのだ。
小さな手が都の額にぴたぴた触れる。
「コギンの手……気持ちいい……」
「うきゅきゅ。」
「少し休めば大丈夫だから……」
常備してある市販役薬を水で流し込む。
今日が休日でよかった。
授業はなるべく休みたくない。
「みんなの言う通りかな……」
自分では無理をしてるつもりも、がんばってる自覚もなかったが、もてあました時間を埋めるように動いた分、疲労が溜まっていたらしい。
「立ち止まるのも必要」と言った笙子の言葉を思い出す。
「今日は立ち止まる日。」
自分自身に言い聞かせて目を閉じる。
どれくらい経ったか。
水の音に、都はうっすら目を覚ます。
(雨?)
軒を伝う雨音はマンションでは聞こえなかった。
最初は気になったが、今では心地よいBGM。
もそもそと起き上がろうとする。
が、何かに絡め取られて起き上がれない。
「ふえ?」と声を出して首をめぐらせる。
と……
「あ……悪い……」
唸るような声。
「眠ってた……」
薄掛けの上から都を押さえていた腕が外される。
少し伸びた黒髪を無造作にかきあげると、呆けてる都を覗き込む。
漆黒色の瞳が真っ直ぐ見据え、大きな掌が都の額に触れる。
「熱は……なさそうだな。頭痛はまだ辛いか?」
都は首を振る。
「他に具合悪いところは……」
「りゅーと?」
「まさか忘れたのか?」
「そうじゃないけど……いつ……?」
「店開ける直前。」
滑り込みで帰宅し、そのまま庭伝いに母屋に戻ったのだと早瀬竜杜は説明した。都が不調だと聞いて、起さないように添い寝していたらしい。
「なんで……」
「そりゃあ……」
言いかけた竜杜の言葉を、しかし都は言わせなかった。
都は竜杜の首に抱きついた。自分でもどうしたのかと思うほど、ぎゅっとしがみつく。
そんな都の身体を竜杜は抱きとめ、背を撫でる。
「……遅くなった。」
「すっごく……遅い。」
竜杜の肩に顔を押し付けたまま、都は言う。
今まで、そんな風に彼を責めたことはなかった。けれど今日はワガママがほとばしる。
不調のせいなのか、1週間の延長のせいなのかわからない。
ただただ、彼に寄り添いたかった。
彼の温もりを享受したかった。
そんな都の身体を、竜杜は抱きしめる。
「言い訳はしない。でも……言い分は言わせてもらう。」
「言い分?」
都は身体を引いた。
うん、と竜杜は頷く。そして言った。
「都に、一分一秒でも早く会いたかった。」
「だったら、一言……」
「そんな暇なかった。」
恐らく夜明けと共に竜を繰って門を目指したのは想像に難くない。
なにより「会いたかった」という気持ちは充分都に伝わっている。
それは都の気持ちもまた、竜杜に伝わっている証。
竜杜は都を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、こめかみに軽くキスをする。
「……そういうの、ずるい……」
「そういう男と一緒になったんだ。」
「わかってる。」
目を閉じて唇を重ねる。離れていた時間を埋めるように、互いの存在を確かめるように。
優しく、長く、激しく。
たったそれだけで、霧が晴れるようにだるさが消えていく。
何度目かのキスの後、都は竜杜を見上げた。
「お帰りなさい……その、今更だけど。」
漆黒色の瞳が微笑む。
都を抱きしめると、耳元で囁いた。
「ただいま。」
そして、
「愛してる。」
と。
本文中、竜杜くんは一度も甘い言葉を言ってません。なので、一度、ちゃんと台詞で言わせたいと思ってました。そんな願望を形にしたラストエピソード、愉しんでいただけたら幸いです。
これにて、アルラの門、完結です。
長い間お付き合いいただき、ありがとうございました(^^