第5話 エララ・ナイトヴェイルという女の子
ナイトヴェイルさんは、約束の時間より少し遅れてやって来た。
彼女を迎えた後、俺たちは冷えないように暖かいカーペットの上へ座り、それぞれが持ち寄った夕食を食べながら、一緒に本を読むことにした。
事前に聞いていた通り、彼女が持ってきたのはアルカディア王国でそれなりに有名な冒険ファンタジー小説だった。
王都の図書館から借りてきたらしい。
タイトルは――
『天空の騎士と永遠の竜の伝説』
表紙には、銀髪の騎士が白い雲海の上を巨大な竜に乗って飛ぶ姿が描かれている。
「これはまた……」
俺は思わず呆然と表紙を見つめた。
表紙を見ただけでも、いかにも安っぽいファンタジー小説という雰囲気がこれでもかというほど伝わってくる。
「ナイトヴェイルさん、こういう本が好きなの?」
「別にそうでもないよ」
彼女は首を横に振った。
「普段はミステリーとか、未解決事件を扱った捜査ものを読むことのほうが多いかな」
「じゃあ、どうしてこれを選んだの?」
しかも、その本はどう見ても最近発売されたばかりの新刊だ。
値段だって安くはないはずだ。
「うーん、せっかくの機会だから」
ナイトヴェイルさんは小さく微笑む。
「難しい本を読むより、こういう作品を一緒に読んで感想を言い合うほうが楽しそうだと思って」
本当に――。
今目の前にいるナイトヴェイルさんは、学院で見ている彼女とはまるで別人のようだった。
クラスではいつもヴァレンハルトさんたちのグループのまとめ役。
真面目で。
頭が良くて。
魔法の才能にも恵まれていて。
どんな時でも冷静に見える。
けれど、今のナイトヴェイルさんは――。
「はははっ! 見てよ、この部分!」
ナイトヴェイルさんは一ページを指差した。
「黒竜に乗った騎士が、剣を一振りしただけで山と海と空をまとめて真っ二つにしたんだって」
「もう無茶苦茶だよ、それ」
「でしょ?」
ナイトヴェイルさんは楽しそうに笑う。
「そんなに強いなら、この物語って一話で終わるんじゃないかな?」
やはり予想していた通りだった。
本の内容は、信じがたいほど大げさな展開ばかりで埋め尽くされている。
それなのに――。
カーペットの上に座り、茹でたジャガイモを食べながら、その妙な文章に笑っているナイトヴェイルさんを見ていると。
まるで別人のように思えてしまう。
「どうしたの、ハルトくん?」
彼女は俺の方をちらりと見た。
「こんな壮大すぎる物語の展開にはついていけない?」
「まあ……そんなところかな」
俺は小さく笑った。
「でも、話は少し変だけど、作者は本気で書いているみたいだね」
「その通り」
ナイトヴェイルさんは頷く。
「この人は、この馬鹿げた話を心の底から信じて書いているんだと思う」
クラスメイトたちの前で穏やかに微笑むナイトヴェイルさん。
そして今こうして、時々床を叩きながら笑っているナイトヴェイルさん。
もしかすると――。
その両方の姿を知っているのは、俺だけなのかもしれない。
だからだろうか。
ふと、一つの疑問が頭に浮かんだ。
「あ、そうだ」
その時だった。
ナイトヴェイルさんが先に口を開いた。
「一つ言っておきたいんだけど」
「私、リラやアルカディアのクラスメイトたちと一緒にいるのが嫌なわけじゃないからね」
「むしろ好きだよ」
「だからこそ、いつもみんなと一緒にいるんだし」
「……どうして急にそんな話を?」
「ん?」
ナイトヴェイルさんは少しだけ首を傾げた。
「だって、さっきからずっと何か聞きたそうな顔で私のこと見てるから」
どうやら気付かれていたらしい。
正直、ここで聞いていいのかまだ迷っていたのだが。
「いや……」
俺は軽く頭を掻く。
「学院にいる時のナイトヴェイルさんと、今ここにいるナイトヴェイルさんって、すごく違うから」
「ただの役割分担だよ」
ナイトヴェイルさんは気楽そうに答えた。
「みんな、すぐリラのペースに流されちゃうから」
「私まで同じことをしていたら、きっと収拾がつかなくなるし」
確かにその通りだった。
普段はヴァレンハルトさんが冗談を言う。
すると周りのみんなもそれに乗っかる。
そして最後には、ナイトヴェイルさんの鋭い一言が飛んできて、その場が落ち着く。
アルカナクラスでは、いつもそんな流れになっていた。
もし場をまとめる人がいなければ。
最初は盛り上がっていた会話も、やがてどこへ向かっているのか分からなくなってしまうだろう。
少なくとも、これまで遠くからクラスで一番人気のグループを見てきた俺はそう感じていた。
「本当はね」
ナイトヴェイルさんは開いたままの本へ視線を落とした。
「私はこういう時間がすごく好きなんだ」
「他の人にどう思われるかは別として」
「それに、いつも難しい顔をしているより、笑っているほうがいいでしょう?」
「でも――」
俺は少しだけ言葉に迷った。
「ナイトヴェイルさんも、少し無理してるんじゃない?」
「うん」
今度は否定することなく、あっさりと頷いた。
開いたままの本へ視線を向けながら、ストローでフィゾラを一口飲む。
そして先ほどよりも少し静かな声で続けた。
「さっきも言ったけど」
「私はリラやアルカナクラスのみんなと話したり遊んだりするのが本当に好きなんだ」
「でも時々――」
「少し疲れちゃうこともある」
ナイトヴェイルさんは小さく微笑んだ。
「今の空気を読んで」
「次にどんな話題を出せばいいか考えて」
「場の雰囲気が悪くならないように気を付けて」
「そういうことを続けていると――」
「たまにふと思うんだ」
「私は今、一体何をしているんだろうって」
いつもどんな状況でも落ち着いて見えるナイトヴェイルさん。
そんな彼女にも、きっと彼女なりの負担があるのだろう。
だからこそ、休める場所を求めているのかもしれない。
何も考えなくていい場所。
ありのままの自分でいられる場所を。
「だからね――」
ナイトヴェイルさんは不意にこちらを向いた。
「実は結構感謝してるんだよ、ハルトくんには」
「え?」
「人が多すぎる場所にいると疲れちゃうことはある」
「でも、一人でいるのが平気なタイプってわけでもないんだ」
「それは俺も同じだよ」
俺はすぐにそう答えた。
「確かに、一人でいることには慣れてるよ」
「でも、だからといって孤独を愛する一匹狼になりたいわけじゃない」
俺たちの状況は違う。
それでも、本を読んだり魔法の勉強をしたりしながら一人で過ごしていると、時々ふと空虚な気持ちになることがある。
そして突然、こう思うのだ。
――俺は一体、何をしているんだろう。
そう考えた瞬間、気分が沈んでしまうこともある。
「それなら――」
ナイトヴェイルさんは少しだけ微笑んだ。
「私たち、案外似ているのかもしれないね」
「たぶんね」
「まあ、今の私たちを見れば……」
そう言って彼女は、俺たちの前に置かれた小さなテーブルを指差した。
「こんな質素な茹でジャガイモを食べながら」
「この変な小説を読んで」
「その内容に笑ってるんだから」
「最初から分かりきっていたことかもしれないね」
「それもそうだね」
まだ一緒に過ごした回数はそれほど多くない。
それでも俺は、少しずつ彼女のことが分かるようになってきた気がしていた。
普段の彼女は、周囲をまとめる落ち着いた存在だ。
けれど、その役割から離れれば。
肩の力を抜くこともできる。
少しくらい行儀の悪いことだってする。
冗談だって言う。
大きな声で笑うことだってある。
ごく普通の同年代の少女と同じように。
そして気が付けば――。
俺は彼女に親しみを感じるようになっていた。
「ナイトヴェイルさん」
「ん?」
「次に読む本なんだけど――」
「今度は俺が選んでもいい?」
ナイトヴェイルさんはすっと目を細めた。
「まさか――」
『実は農民だった俺が天空王国の王位継承者だった件』
「とかじゃないよね?」
「……しばらくの間は、こういう変な物語から距離を置いたほうがいいんじゃないかな」
そんなことを言いながら。
俺たちは次にいつ会うかをのんびり話し合い、だらだらとした時間を過ごしていた。
そして気が付けば――。
週末の時間は驚くほどあっという間に過ぎ去っていく。
ちなみに――。
あの本、なんだかんだで結構面白かった。




