1.200年前の忘れ物 中編
イナーネとスラファトによる戦闘は熾烈を極めていた。
スラファトは砂をサッカーボール大まで圧縮して錐状にした槍のようなものを高速回転させて亜音速で射出してくる。
しかもそれの弾幕だ。
イナーネは少しずつ前進するがやや顔を引き攣らせながら自身に降りかかる弾を落としている。
ラストチェインはイナーネに待機を命じられ、遠くからこの戦いを見守らされていた。
(さて……どうするか)
イナーネは足に狙いを定めて初撃を入れたが、まるで鋼鉄の塊にでもぶち当たったかのような有り得ない手応えを得た事を思い出す。
混獣は基本的に大きいほど全身が硬くなりやすい。
自重を支える為に肉体には相応の強度が求められるのだ。
しかしそれにしたって硬過ぎる……まさか聖剣ミュアロパティで斬りつけて傷すらつかないとは想像もしていなかったのだ。
オマケにイナーネはちゃんと関節を狙った。
眼球まで届きそうにない以上突ける中では最大の急所だった筈だ。
(想定はしていたが、やはり普通に倒させちゃくれないよな)
「ミュアロパティ…… “表” 解禁だ」
『わ、分かった!』
聖剣にはそれぞれ特殊な機能が宿っている。
使える力は聖剣によって異なり、中にはその一本で国家すら揺るがす程の絶大な力を持ったものもある。
……ミュアロパティはまさにそれであり、普段は表の能力と裏の能力の2つを封印している。
イナーネは大きく息を吐くと左手を横に突き出した。
……そして、瞬く間もなくイナーネの左手にはミュアロパティとは別の剣が握られた。
「あれは……あの “聖剣” は?!」
真っ先にソレの正体を把握したのはラストチェインだった。
かつて200年前に命を落としたある勇者と共に数々の戦況をひっくり返した蒼き聖剣……セレスティス。
しかし、その聖剣は本物ではない。
突如呼び出されたセレスティスに自我は無く、ただそこに “聖剣としての機能を持った剣” として存在していた。
イナーネは少し前にその口で勇者はある人物を除いて2本以上の聖剣を持たない事を語った。
しかし、イナーネは自らの能力によってその発言に真っ向から矛盾した戦い方が可能なのである。
記憶の物質化 それこそが、最強の聖剣ミュアロパティが持つ機能である。
「ハイト、セレスティス…………お前らを使わせて貰うぞ」
イナーネは静かにそう呟くと2本の聖剣を軽く投げて逆の手に持ち替えた。
その瞬間、イナーネの戦い方が大きく変化した。
力任せの中にも技術を感じられた修羅のような戦い方から一転して素早く、緻密で繊細な動きが混じるようになった。
そして、イナーネの輪郭がミュアロパティのようにブレるようになった。
(何あの動き……まるでハイトが半分だけ憑依したみたい)
ラストチェインはイナーネの戦い方をよく知っていた筈だ。
だが、現在イナーネが繰り広げている別次元の戦いにおいて
その片鱗を見せた瞬間は全く無かった。
亜音速にもなる殺意の雨を傘の一もなく変幻自在の剣で突き抜けていくその姿は、何処か人間としてのブレーキが外れた危うさすら感じられた。
ラストチェインは不意に一瞬だけ自身の手元を見た。
……震えている。
(そうか……私、怖いんだ。
あの戦い方が危うくて、今にもイナがバラバラになっちゃいそうで……怖い)
ラストチェインの心を冷ややかなものがさっと撫でて行った。
……だが、イナーネは先程知り合ったばかりの “偶々知り合いと瓜二つ” な聖剣の事など構う暇がなく
並の子供なら涙も忘れて飛ぶように逃げそうなくらい恐ろしい表情と殺意を亀へ剥き出しにしながら再び足を斬りつける体勢に入った。
そして、イナーネは獣とも人とも取れない憎悪と殺意の咆哮と共に二振りの剣を回転しながら振り抜いた。
振り抜かれた刃は先程までとは違い、凄惨な音を立てながら肉を断った。
巨体にしてみれば些細な傷だが、余程この亀は自身の硬さに自信があったのだろう。
亀は鼓膜が破れそうなくらい凄まじい悲鳴をあげると大袈裟に後退した。
「何が “漠海のスラファト” だよ変な名前で呼ばれやがって……
お前らはデカ過ぎるってだけで厄介なんだよ。
人間サイズなら今ので致命傷だってのに……」
返り血を頭から被って全身が真っ赤に染まったイナーネは追撃の手を緩める事なく攻撃を続けた。
イナーネの攻撃は全てが有効打に変わっていたのだ。
これは、聖剣セレスティスが持っていた機能が大きく関係している。
聖剣セレスティスの機能は 軟化 だ。
言葉にすると単純だが、軟化にも大きく分けて2種類ある。
脆くする軟化と強くする軟化だ。
かつて、セレスティスを振るった勇者ハイトは
自身を水のように柔らかくして戦場を軽やかに駆け、敵陣を豆腐のように切り崩して回った。
そして遂にハイトはその命と引き換えにして単身でとある戦場の盤面をひっくり返して見せた。
イナーネは自身に “ハイトの記憶” を纏い “聖剣セレスティス” の記憶を振るっている。
これによってセレスティスの機能を無駄なく発揮して硬い亀の皮膚を紙でも切るように扱う事を可能としていた。
(それにしても……砂を操る能力。
当たり前だが、フィールドが砂漠だと厄介極まり無いな。
手数がとんでもなく多い)
「傷を入れられるまで舐めプし過ぎだろ。
そんなんだからお前は今日俺に殺されるんだよ」
先程までワンパターンだった攻撃は見る影もなく変貌した。
大質量の津波攻撃、地面から拘束する砂の縄、回転する槍の雨とは別に上空に巻き上げられた砂の雲から落ちる針の雨、砂に潜って攻撃を回避及び地中から攻撃、変則的な地形変更と単純な質量攻撃。
2秒遅れるか10cmズレるだけで瞬く間に砂の餌食にされそうな全方角から来る攻撃の嵐。
(なるほどな……確かにこれは勇者サタとの相性が悪過ぎる。
他の奴らから全力で戦闘への参加を止められたとは聞いてたが、頷ける部分しかない)
視界の9割が砂を占めるような空間でイナーネは余計なことを考えながら顔色ひとつ変えずに全ての攻撃を対処していた。
ミュアロパティの機能 “記憶の物質化” には致命的なリスクはあれどその機能自体に弱点らしい弱点は存在しない。
聖剣ミュアロパティはイナーネが記憶している出来事、物、生物……あらゆるものを実在させ、再現する事が可能であり
また、物質化した記憶は一種類につき最大100まで複製出来る。
イナーネは自身に纏う人物の記憶とは別に、自身から放出されて独立して動く輪郭 “動作の記憶” を用いる事で
同時に50手もの攻撃動作を可能にしていた。
更に亜音速の攻撃に対処出来るようにイナーネは“脳の記憶” を自身の脳に何重にも被せ、五感と思考速度を常人の100倍にまで強化、加速させていた。
「馬鹿イナ…………なんて無茶な戦い方してんのよッ」
ラストチェインにはイナーネの人間離れした芸当のカラクリが理解できていた。
聖剣にも様々な種類があるのだが、イナーネが持つ聖剣ミュアロパティには正気の人間では到底扱い切れないような致命的なリスクが存在している。
まず、機能の特性上ミュアロパティを振るう度に脳へ甚大な負荷がかかる。
彼女のテスターとして多少適正のある囚人共が20人ほどその剣を振ったが、2回振り下ろした辺りで大体の者が酩酊状態になり
目、鼻、耳から血を吹き出して倒れた。
流石に本来の持ち主である勇者がそんな事になるような杜撰な設計はされていないものの
過去の彼は100回ほど剣を振り回した辺りで気絶していた。
そんなただでさえ振り回すだけでも凄まじく消耗する剣だが、問題はそっちではない。
彼が当たり前のように物質化し武器として全く躊躇なく扱っているアレらは……
物質化した記憶は、砕ければ消滅してしまうのだ。
砕けた記憶はあらゆる手段を用いても回復させる事は出来ず、損傷する前に物質化を解かなくては確実にその記憶は失われる。
……更に、複製された記憶が砕けた場合は全く関係ない記憶が変わりに消滅する。
この前提情報を知った上でこの戦闘を見てみると如何に悲惨かよく理解できるだろう……
記憶の物質化とは、過去に彼が体験した最強を具現化させる力であり
代替不可能なものを武器とする諸刃の剣だったのだ。
「酷い……酷いよ……こんなの」
ラストチェインは壮絶な死闘から目を背けて涙を浮かべていた。
“彼女” が知る彼から大きく乖離していた理由が
記憶にはじまり、あらゆるものを支払うような闘いを繰り返したせいだと悟ったのだ。
戦闘は激しさを保ちながら膠着していた。
お互いに攻め手に欠けていたせいだ。
イナーネは疲れる事がない為その気になればこのまま何週間も飲まず食わず、寝ずで闘うことも出来たが
戦闘自体を長引かせる事には肯定的ではなかった。
(だるい)
面倒くさそうな表情を浮かべながら軽々と亀の攻撃を凌ぎ、直接攻撃してきた隙を逃さず攻撃を加えていく。
この繰り返しだ。
幾らイナーネとは言えこの状況が2時間も続けば飽きてくる。
「126……」
亀に126撃目を浴びせた直後、亀はこの2時間で見せた事のない動きを見せた。
凄まじい悲鳴をあげながら今まで以上に後退し、攻撃を止めたのだ。
(……なんだ?)
亀はじっとこちらの様子を観察している。
膠着状態が解けて戦闘に静寂が訪れた事に少し苛立ちを覚えたイナーネは迷わず突撃を開始した。
(意図は分からないがここで攻めないといつまで経っても終わらん。
手を止めてる時間が惜しい)
イナーネは30秒程で亀との距離を残り2割まで詰めて行った。
そして、数秒後に首へ斬りかかろうと大ジャンプの準備をしようとした時
イナーネは違和感に気付いて足を止めた。
(何だ……? コイツ、何を見ている?)
亀はイナーネを見ていなかったのだ。
ふと、イナーネは亀の視線を一瞬だけ追うと
形相を変えて引き返し始めた。
「おい、おいおいおいおいおいおいおい!!!!!」
亀が見ていたのは……ラストチェインだった。
イナーネが引き返し始めた数秒後、ラストチェインへ向けて5本の槍が飛んだ。
「ふっざけんなぁああああああ!!!!!!」
イナーネは限界を超えて走った。
しかしそれではまだ足りない……亜音速にまで達している槍は無情にもイナーネを一瞬で追い抜いて行った。
イナーネは高速化した思考の中で最善案を組み立てて一か八かの行動に出る事にした。
足を軟化させ、本来なら足がぐちゃぐちゃになる程のエネルギーを足に集めて飛ぶように走り出したのだ。
更に暴風の記憶を追い風として纏い、軽量化の機能を持った聖剣とその鞘の記憶を腰に差して体重をも操作した。
一瞬だけ音速の領域に足を踏み入れたイナーネは衝撃波を発しながらギリギリで槍を追い抜くとラストチェインを背にして立ち塞がった。
(クソッ……!! ろくに対策してる時間が無ぇ!!)
イナーネは全身をゴムのように軟化させると手足を広げてラストチェインの肉壁になった。
そして、5本の槍がイナーネを襲った。
(まずい……勢いが!!!)
回転する槍の威力は生身で受けるには絶望的な貫通力を有しており、軟化している肉体をブチブチと嫌な音を立てながら掘り進めてきた。
しかしイナーネは負けじとその場から一歩も動かず、身体に触れている槍に脆くなる軟化をかけ続ける。
次第に槍にはヒビが入り、回転が収まってきた。
……が、それと同時にイナーネが纏っている記憶にもヒビが入る。
「止まれぇえええええ!!!!!」
鎧も服も巻き込んで飛び散り、全身5箇所に大穴が開いた男が血だらけになりながらラストチェインの前に立っていた。
ラストチェインは血相を変えたまま両手を口に当てて硬直しており、目からは大粒の涙が止まらず流れ続けている。
しかし、そんな痛々しい様子でありながらイナーネは何も感じていないのか
叫び声どころか顔色ひとつ変えていない。
左腕、右肩、右腹部、左膝、右足に風穴が開いたイナーネは今までに無い程に強い殺気を放ったまま亀を睨んでいた。
(……ダメだ。 “青い剣” が出ねぇ)
イナーネは先程まで握っていた剣とその持ち主の名と記憶をを失ってしまった。
イナーネにとっても彼らはそう浅くもない間柄だったと言うのに、だ。
「い、イナ……それ……」
「こんなもん擦り傷だ、すぐ治る」
覇気のない小さな声で発されたラストチェインの言葉に無機質な返答を重ねた。
……現に、信じられない速度で穴が塞がっていき
10秒も満たない時間で通常の勇者なら死を待つ程度の傷が完治した。
ラストチェインはそんな異質な光景を見ても驚愕はしていなかった。
ただ、イナーネが痛覚すらも失い勇者としての機能がこれ程までに強化されている現実に絶望していた。
聖剣に特殊な機能があるように、勇者にもそれぞれ特殊な機能がある。
イナーネのそれは……様々な小説やアニメで “適応” と呼ばれるものだった。
イナーネは負傷と攻撃に適応した事であり得ない再生力を実現し、半裸のまま無傷の肌を晒した。
「なぁ、おい」
直後、イナーネから信じられない程の圧が放たれる。
亀は本能で危険を察知して後退した。
「お前……誰を狙ってやがる」
この時、イナーネの中にあった “ナニカ” がプツリと音を立てて切れてしまった。
イナーネは何故かミュアロパティを鞘に差し、両手を自由な状態にした。
……とは言え、この状態でも聖剣の機能を扱う事は出来るのだが
勇者にとって戦場で聖剣を引っ込める行いは自殺にも近いものだった。
「ミュアロパティ……………… “裏” だ」
『…………ほ、本当につ、使ってくれるの?』
「やれ」
ミュアロパティは命令に従って即座にここまで封印してきた “裏の機能” を解放した。
イナーネの足元から全身を覆うように禍々しいエネルギーが立ち昇る。
先程までとは様子が異なるイナーネを様子を見てラストチェインは困惑した。
(裏……? 裏って何?)
ラストチェインが知る限り、ミュアロパティの機能にそんなものは無かった。
いや、そもそも聖剣にそんな機能があると言う話すら聞いた事が無かった。
だが実際に目の前では見た事がない光景が広がっている。
……何よりも、既に大きな代償を払う戦い方をしているのに
こんな状況になるまで頑なに使わなかった “裏” と言うものに対して嫌な予感しかしなかった。
直後、エネルギーが脈を打ったかと思えば一気にイナーネの掌の中へと消えて行った。
そして、イナーネは右手を前へ突き出した。
先程消えて行ったエネルギーはドス黒い球体となって握られていた。
黒い球体は次第にヒビ割れていき、内側から一瞬だけ白い光を放って爆発した。
「……剣?」
一瞬前まで球体が握られていた右手にはいつの間にか剣が握られていた。
……しかし、明らかにその剣の様子は尋常では無かった。
その剣は物質としてそこに在る筈なのに実在感がない。
ただ “剣” だと認識できるナニカ……とでも言った方が正確だろう。
色も、形も定まらないソレはその場にいる全ての生き物に対して
この世のものではない事を瞬時に理解させた。
記憶とは何も実際に起きた体験だけで構成されるものではない。
自身の思考や願望といったものも記憶には含まれている。
……誰しもが考えた事があるだろう。
もし、僕が考えた最強の力があれば…………。
記憶の物質化 “裏” は、それを実現する力だ。
イナーネ自身の願望、思考、視聴した動画……そう言った形なき空想を無理矢理手繰り寄せ
たったの1分間だけ現出させる事が出来る。
イナーネはその剣としか認識する事の出来ない物体を両手で振り上げ、その場で力強く振り抜いた。
そして、あの巨大な亀の3倍はあろうかと言う超巨大な斬撃が放たれる。
斬撃は亀にとって右肩とでも呼ぶべき部位を完璧に捉えており、呆気なくその巨体を正面から両断してしまった。
聖剣の斬れ味は決して悪くない……と言うより、これでもそれぞれが圧倒的な斬れ味を誇る武器として名高い。
刃こぼれせず折れない刃を持ち、手入れも研磨も必要無い。
剣や刀で聖剣と打ち合えば1発で綺麗にへし斬れてしまう。
そう言うものですら傷一つつけられなかった亀が、まるで豆腐でも斬るみたいに甲羅ごと2つに分かれたのだ。
イナーネは振り下ろした刃をそのままにして大きく息を吐いた。
そこには1つの感情を除き、全てが排除された死神が立ち尽くしていた。
「……殺す、殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
純粋な殺意の塊となって顕現した名もない剣は、ただ目の前にいる命を否定する為に生まれ落ちて来た。
イナーネはドス黒いエネルギーを纏いながら砂漠を割る勢いで亀の方へ跳んだ。
その様子を見て亀は悲鳴を上げ、砂へと逃げようとするが……
亀に残された左側の足があっという間に全て切断されてしまった。
パニックになった亀は滅茶苦茶に前方へ攻撃を放ち続けたが、そんなものがあの剣を手にしたイナーネに通じる訳もなく
全てが一瞬で斬り伏せられていく。
地面に顔を擦りながらもがく亀の大きな目に映った最後の光景は
この世に絶望し、枯れ果てた筈の男が見せた怒りだった。
目は血とも白目とも分からない程まで怒りで赤黒く充血し、全身の血管は今にも爆裂しそうなまでに浮き出ていた。
そこに理性ある人の姿などは無く
ただのひと睨みで亀は戦意を失い、恐怖に飲み込まれた。
次の瞬間、81の斬撃が亀を襲った。
最初の一撃で亀は頭から2つに分かれて即死したが、イナーネは全く手を止めず怒りの形を亀の肉片に刻み続けた。
『い、イナーネ?! ど、どど、どうしちゃったの?!』
ミュアロパティですら何が起きているのか把握出来ていなかった。
……それもその筈だ。
これは、イナーネが200年振りに見せた本物の殺意だったのだから。
凄まじい力を発揮した剣も1分と言う非常に短い寿命を迎え、静かに砕け散った。
血と肉で元の色が分からなくなるまで染まり上がった勇者は自らの手から溢れて消えていく破片を冷静にただ見つめていた。
(あーあ……やっちまった。
面倒だから今は使いたくなかったんだけどな)
イナーネは手から零れ落ちるソレを見て失っても拾うことが出来ない無力感にも似た感情を覚えていた。
聖剣ミュアロパティが持つ裏の機能には、表の機能とは全く違う代償が伴う。
裏の機能によって失う対価は、他者が持つイナーネという人物に関する記憶だ。
本来なら存在しないものや、限定的な感覚でしか得たことのない情報を物質化する行いは桁違いのエネルギーが必要であり、生涯の記憶全てを支払っても精算しきれない。
そこで、かつてミュアロパティはイナーネに提案した。
全ての存在から忘れられていく代わりとして、真の万能を得られる……と。
……とは言え、勇者サタと言う規格外だけは彼を忘れずにいられているのだが
それはまた別の話になる。
彼の行いは誰も記憶できない。
……それは、目の前で彼の闘いを見届けたものですら例外ではない。
イナーネはシャワーの記憶を物質化するとそれを大量に複製して自分に向けた。
何処にも繋がらない筈のパイプからシャワーへ水が伝い、噴き出した。
僅か5秒ほどで血を洗い流したイナーネは記憶を使った手品とでも言うべきか、一瞬で身体全体を乾かし
装備を元通りのボロ雑巾が服の体を成している状態に戻してしまった。
イナーネはラストチェインの元へ歩み寄ると目前で止まった。
そして、膝を折ると目線をラストチェインまで合わせ
何事も無かったかのような表情で言い放った。
「はじめまして」
イナーネはラストチェインの表情も見ないまま右手をゆっくりと差し出した。
「俺はイナーn」
パァン!!!!!
イナーネが2度目の自己紹介をしようとしたその時、それを遮るものがあった。
ラストチェインがイナーネの左頬を引っ叩いていた。
当然、イナーネには聖剣の平手打ちなど効く筈もない。
痛覚すら失った男にこの一打は全く無意味なものになる筈だった。
しかし、そうはならなかった。
イナーネは痛烈な一撃を頬に受けて一歩後退した。
思わず呆気に取られたイナーネはここで初めてラストチェインの表情を確認する事になる。
酷く崩れた表情で大粒の涙を流していた。
その表情には何処か、イナーネとは違う誰かに向いた怒りと無力感、そう言ったものが混ざり合った
子供が取るものではない辛そうなものだった。
「何が “はじめまして” よ……ふざけないで」
「…………ごめん」
イナーネはラストチェインに確認しなくてはならない事が幾つもあった。
しかし、自然と口から出た言葉はそのどれにも該当しない
純粋な謝罪だった。
200年前、最強の勇者が死んだ。
自在に斬撃を操作する聖剣を持ち、聖剣を手にしている間だけ “無敵” になる機能を持っていた勇者は
“紅の勇者” の二つ名で世界中にその名声を轟かせ、攻略不可能とされた難所を打ち崩した偉業だけでも100は下らなかった。
彼女の名は、ヘリオ。
現代最強と謳われる勇者サタの妹であり、イナーネの妻だった女性だ。
考えてみればすぐに分かる事だった。
“無敵” の機能を持つ勇者が聖剣になれば、聖剣としての機能もまた “無敵” になる。
ただし、無敵と言っても完全なものじゃ無いのだろう。
ヘリオはかつて、自身の無敵には大きく分けて2種類あるのだと説明した。
ひとつは肉体的無敵。
これは単純に攻撃力、防御力、敏捷性と言った肉体に関係するものを全て計測不可能なまでに高めると言う代物だ。
そしてもう一つが精神的無敵。
精神や記憶に干渉される事を無効化する事ができる。
恐らくだが、ラストチェインの機能は常時精神的無敵のみが適応されており
聖剣化した時に自身と勇者に肉体的無敵を付与出来るものじゃないだろうか。
(はっきり言って破格の性能だ。
……正直、記憶からあらゆるものを呼び出せるミュアロパティと比べても同等かそれ以上の聖剣と言っても良い。
……しかし、所詮は聖剣だ。
聖剣ならば一度見てしまえばミュアロパティの能力で記憶から呼び出せてしまう。
……いや、万が一ラストチェインの機能が必要になったとしてもやはりそれだけは避けたい)
イナーネは頭を抱えていた。
ラストチェインの機能が如何に強いかは誰よりも知っている自信があった。
しかし、しかしだ。
200年も想い続け、重い鎖となって彼を縛り付けている妻をそっくりそのまま縮めただけの見た目をした聖剣を、武器だと割り切って使える筈がない。
イナーネにとってそれは耐え難い苦痛であり、最も忌むべき行いだった。
「い、イナーネ……ま、待って……」
「…………」
3人の帰路は重い沈黙の中にミュアロパティの弱々しい悲痛な訴えが混じるばかりであり、2人とも彼女の叫びには耳も貸さずにどんどん歩いていく。
そんな様子を見たミュアロパティは嬉しそうに口角を上げながら息とフォームを乱して追っていた。
「イナ……あのね…………」
「何も喋るな」
突然、ラストチェインが何かを決意して口を開いた。
しかし、イナーネはラストチェインの言葉を遮ると
驚いた様子を見せつつ口を閉ざした。
「何も喋らなくて良い。
……お前が考えそうな事だ」
「そっか……」
イナーネは、ラストチェインが何を言おうとしたのか察していた。
……そして、それをラストチェインの口から聞きたくないとも思っていた。
「い、イナーネ……待って……ぜぇ……はぁ……」
疲弊する声がひとつ響く砂漠に、日が落ちる。
砂漠に影が落ちたからだろうか……ほんの一瞬だけミュアロパティの顔に憎悪にも似た陰が落ちた。




