第3部.次世代へ 3-48.DNAの継承
「仙人の言わんとするところを理解するためには、概略だけでも地球と生物について確認しておく必要があります」
碧は真剣な表情で頷いた。淳一はバッグからメモ帳を取り出し、時折それを見て確認しながら話を進めた。碧は途中分かり難い所では質問しながら話を理解しようとしてくれたので、淳一も可能な限り平易な言葉を用いるように努めた。
宇宙と太陽系の年齢と今後の見通し、地球形成の経緯と構造、地球で起こった大きな出来事、地球の生物についての大きな出来事、生物の進化に関する考え方、哺乳動物の多様化が進んだ流れの中での猿類の出現と人類の誕生、さらに、現生人類の出現と現在の人類の状況について、淳一は仙人から説明された内容をほぼそのまま碧に話した。
淳一は本題への序章ともいえる話を何とか終えて、一息付いた。店主が出していてくれたコーヒーを旨そうに啜ってからいよいよ本題へと移っていった。
「今、ごく簡単ではありましたけれど、地球や宇宙と生命についてまとめたように、地球の上で誕生し分化し進化してきた生命体の一つである人類は、地球上での四十億年もの生命の大きな流れの中で育まれてきたものです。今この地球上で生きている現生人類は、たった20万年前くらいに現れたと言われているのです。
生命の遺伝情報はDNAとして親から子へ、子から孫へと受け継がれていきます。このDNAがいわば生命体の設計図のようになって、これを基に生命体構築に関わる情報が読み取られ、その後の修飾を受けて、いろいろな生命体を形作る構成要素を作り上げていくということが明らかにされています。想像を絶する長さの地球と生命に関する流れの中の最下流に存在している現生人類は、その遺伝情報であるDNAを前の世代から受け継ぎ、次の世代へと引き渡していく『DNAの継承者』であるということになる、と仙人は考えられたのです。
私達人間が『DNAの継承者』であるということを俯瞰的な視点で考えてみると、『我々はDNAを継承中なのだ』ということでもあるのです。つまり、『現生人類のDNAをその時々を生きてきた人類全体で継承してきている、ということを今生きている人たちがしっかりと認識し、自分たちの行動を意義あるものとし、次の世代にそのDNAを引き渡していかなければならない』と仙人は言われたのです。
例えば、自分は独立して存在していて他の誰とも関連などないように感じることがあるかもしれません。しかし、自分は両親からのDNAを受け継いで初めてその存在が可能になっているわけで、自分がこの世の中に忽然と現れたりすることはあり得ないのです。その両親はその親に、その親はまたその親に、というふうにどんどん家系図を遡ってゆくことになります。最終的には恐らく現生人類の元祖に辿り着くはずです。
従って、近視眼的に考えれば、自分自身は両親のDNAを受け継いでこの世に生まれてきたわけですが、非常に長い時間軸で物事を眺めてみると、今この地球に生きている私達人類は皆同じDNAをその起源に持っていると考えられます。そして私達現代に生を受けている者は、次の世代にこのDNAを託して自分達は死んでゆくことになります。つまり、現代に生きるということは、人類のDNAを前の世代から受け継ぎ、次の世代に引き渡してゆくわけで、『我々はDNAを継承中なのだ』ということになるわけです。だから、自分独りで存在しているなどということは全くあり得ないのです。そして今生きている人たち全員が現生人類のDNAの継承者になっていて、それを次の世代に託していくことを宿命づけられているのだと考えられるのです。
そう考えると、今この地球上で生きている世代全体でしっかりと現生人類のDNAを守り、次世代に引き渡していかなければならないのです。そして、『次世代に引き渡すからには、次の世代の世の中、広く言えば地球や宇宙が、将来の世代にとってより良い環境や状況になっているように動くべきだ』と仙人は考えられたのです。
自分が世の中から認められるような地位に就きたいとか、お金持ちになって贅沢三昧をしたいとかという欲望は、野生の感情としては当然のことなのかもしれませんが、我々には知性があり、知性でそんな欲望を抑えることが可能なはずです。『広い視点で見た将来の我々のDNAの継承者にとって良い環境や状況でDNAのバトンを渡すためには、知性を働かせることが肝要なのだ』と仙人は考えられていたのです。確かに人類も動物です。それは、自分が生きるために動物であれ植物であれ他の生物の命を奪って自分自身の命を繋いでいるということを意味します。自分が生きるということは、他の生物の命を奪うことを避けては通れない、ということになります。我々の知性でできることは、『限度を考え、その上で行動する』ということではないかと言われたのです。どこまでならやっても構わないのか、どこまでやったらダメなのかを、これまでの地球と生命の長い歴史を踏まえた上でよく考えて行動することではないのかと考えられていたのです」
碧は目に涙を浮かべて聞いていたが、まだ感想を口にできる状態ではないような表情をしていた。店主の原島は、あまりに壮大な話だったのか瞳孔が開いたまま固まってしまったような顔付きであった。
「幸いなことに、最近のDNAに関する研究の進歩には著しいものがあります。少し前に人間のDNAの全遺伝情報は核酸レベルで解明されました。驚くべきことは、人間を構成するための設計図に該当する部分のDNAは全てのDNAのうち、たった2パーセントのみで構成されていて、残りの98パーセントのDNAの役割はこれまで分からなかったので、遺伝子のゴミだとさえ言われていたのです。しかし、ごく最近の研究で、これら残りのDNAは人間の存在にとって必要な情報を沢山保有していることが明らかにされてきました。例えば、人間の顔形を決めている情報もこの残りのDNAの中にあることが分かってきているのだそうです。『だから親子で鼻の形が似ているんだな』なんて納得してしまう部分もあります。
仙人はこのことが明らかにされる何年も前から既に気付かれていたようで、『単細胞生物の時代からずっとずっと蓄積されてきた数々の遺伝情報がこのDNAの残りの部分に存在していて、著しい環境変化などに遭遇した時、その中の一部が人類存続に役立ってくれるのではないか』と大いに期待されていました。本当に仙人の洞察力は素晴らしいと思います。
それから、仙人はこうも言われていました。『長い間家族として生活してきた人たちには、当事者しか理解できない貴重な思い出が沢山あるのです。家族が何らかの理由で別れなければならない事態に遭遇した時、あの時はこういうことがあった、この時はこうだった、というふうに、家族で積み重ねてきた経験は、他の人には共有することができない、家族だけの記憶として数え切れない程沢山存在していることに気付くのです。私は家族と離れて暮らしているうちに、遅ればせながらこのことに気付いたという状況なのです。そして、「覆水は盆には返らず」なのです』と。仙人のこの言葉は、お嬢さんが感じている疑問を解く鍵になるかもしれません」
「そうかもしれませんね。後でよく考えてみます」
碧は少し合点がいったような表情で応えた。
「そして、『あと50億年程度で赤色巨星化した太陽によって加熱されて蒸発してしまう、と考えられている太陽系の中の地球に生きているかもしれない我々の遥かに遠い子孫、すなわち、地球や太陽系の変化に対応するために現生人類のDNAを少しずつ変化させることによって環境に適応しながら生き残ってくれているかもしれない我々のDNAの継承者たちが、宇宙に存在している新たな天体に生活の場を見出し、太陽系が消滅した後も見事にそのDNAを継承させ続けてくれることを心から祈りたい』と仙人は言っておられたのです」
淳一の長い話が終わると、『食堂大丹波川』には静かではあるものの一種の充足感に満ちた空気が漂った。




