第3部.次世代へ 3-47.仙人との関わり
淳一は碧の気持ちが落ち着くまでじっと待った。暫くの間、溢れる涙をそのままにして物思いにふけっていた碧であったが、気を取り直してハンカチで目を拭い、淳一の方を向いた。
「それでは聖滝さん、父がどのようなことを話していたのかについてお聞かせいただきますでしょうか?」
「はい、分かりました。私が初めて仙人とここでお会いしたのは、1990年10月でした。今から28年も前のことになりますね」
「そんなに前から父をご存知だったのですか……」
碧は改めて自分が父と離れていた時間の長さを感じた様子であった。
「私の母がアルツハイマー型の認知症になり、この近くにあって認知症の対応でとても有名であったK老人病院へ入院させてもらうにはどうしたら良いのか、病院に話を訊きに来た時のことでした。私たち家族は簡単に入院させてもらえると考えていたのですが、現実はそんな甘いものではなく、入院待ちをしている患者さんたちが沢山いて、母がいつ入院できるかなんて想像もつかないことが現実であることを思い知らされたのです。その帰り道、落ち込んだ気分のまま、たまたま寄ったのがこの食堂だったのです。仙人はちょうどあなたが座っている席で一人静かに赤ワインを味わわれていました」
店主は淳一の言葉に続けて言った。
「仙人はこの店に来られると必ずその席を使われていました」
「そうだったのですか。父はいつもここに座っていたのですね……」
碧は自分の座っていた椅子から立ち上がって数歩横に歩き、しげしげと椅子とカウンターを眺めた後、何度か頷いてから座り直した。
「その時は、仙人にワインをご馳走になり、ワインについての話を楽しくさせていただいてつくばに戻っただけでした。しかし、その次にここでお会いした時からは、私の悩みや物事への取り組み方に関して沢山のアドバイス、と言うか、物事に対する基本的な考え方を教えていただいたのです。例えば、私の母のような認知症患者を抱えた家族の置かれている状況の捉え方について、本当に参考になる話を沢山していただきました。
仙人は私の業務上の課題や取り組み方についても、沢山のアドバイスを行なってくれました。その時は、一つひとつの出来事についての対処法だと思っていたのですが、最近になって仙人の言葉を噛みしめてみると、全てのアドバイスは仙人の俯瞰的な物事の見方から発していたと思えるようになりました」
「そうだったのですか……。父は私たちには一切そのようなアドバイスはしてくれなかったので、ちょっと信じられないような気が致します。でも、私たちに対する言葉を頭の中で考えていたとしても、口には出せずに飲み込んでいたのかもしれませんね……」
碧はしんみりとした口調でそう言うと、しばらくの間目を瞑った。
「母の病気は良くなることはありませんでしたが、進行が遅く、それなりに安定した日々が続いていましたし、私の研究の方も仙人からアドバイスをいただいたお蔭もあって、まあ何とか順調に推移していくようになりました。そんな状況下で仙人と話したことは、世の中の人たちが執りがちな行動についての受け止め方に関するものが多かったように思います。2006年くらいになると、地球温暖化や生物の大量絶滅など地球規模の話が中心になってきました。
私や妹たちは、父がずっと元気で母の面倒を看てくれるものと勝手に思っていましたが、頼みの父は2005年9月に母を残して先立ってしまったのです。その後、母も2008年の正月に亡くなりました。それからはこの食堂に来ることが少なくなってしまい、仙人と会う機会も減ってしまいました。
両親が亡くなった直後は私もいろいろと忙しくしていましたが、母の三回忌を無事済ませると、両親に関して一区切りが付けられたように思えましたので、しばらくご無沙汰していたこの食堂に来て、仙人に報告とお礼を言わなければならないという気持ちが強くなりました。私は本当に久しぶりにここに来て、仙人の隣に座って美味しい赤ワインを楽しんだのです。その時、2010年の元旦に初日の出を拝みに大岳山に登ることを仙人から提案されたのです。私はまだ初日の出登山をした経験がなかったので、喜んでお供することにしました」
「そうでしたか。父がそんな提案をしたのですか……。私たちには一度もそういう誘いをしてくれたことはありませんでしたが……。それで、初日の出を拝むことができたのですか?」
「はい、とても素晴らしい初日の出でした。私たちを含めた登山者たちは表現し切れない程の感動を味わったのです」
淳一はそこまで話した後、しばらく沈黙した。あの時の情景を思い出すかのように。
「初日の出が一段落した時、仙人が話し始めました。『このような光景を目の当たりにすると、私はこの地球という惑星に生まれてきて本当に良かったと思うのです。この地球上で『奇跡的に』と言っても過言ではない状況で生命が生まれ、少しずつ進化を遂げた結果として、今我々人間という生物が存在しているのです。よくぞこの地球で生命が誕生したとは思えませんか?』と。
そして、その年の3月、私は仙人と最後の話をする機会が持てたのです。その時、仙人は自分の全精力を使い果たすようにして、私のために著名な大学教授の最終講演のような素晴らしい話をしてくれたのです」
淳一はそこまで話すと目を瞑って静かになった。仙人の最も大切な概念の全てを漏らすことなく仙人の娘である碧に伝えるべく。




