第3部.次世代へ 3-43.後見終了と遺産相続
チヨの葬儀が終わってからも、淳一は参列者への香典返しの手配や四十九日の準備など対応すべきことが沢山あって忙しくしていたが、チヨの成年後見にも区切りを付けておきたかった。家庭裁判所に電話して訊いてみると、直ぐに後見終了に関する必要書類を送ると言ってくれた。
それから間もなくして家庭裁判所家事部後見監督係である書記官から『後見事務の終了について』という書類が送られてきた。主な指示事項は次の3点であった。
1つ目は、チヨの財産について管理計算を行ない、保管していた金銭や動産・不動産を相続人に引き渡すこと。
2つ目は、2008年3月2日までに、同封されていた管理計算の書式に記入して家庭裁判所に報告し、被後見人が死亡した場合は、それが記載された戸籍謄本または死亡診断書のコピーを添付すること。
3つ目は、成年後見登記終了について同封されていた書式に記入し、法務局後見登録課に窓口提出するか書留郵便で郵送すること。
但し書きに、『相続人への引き渡しとは遺産分割の終了を意味するものではない』との記載もあったので淳一はほっとした。
父健次の時と同じように兄妹三人で仕事を分担して必要書類を整えていくことにした。先ずはチヨの財産管理の書類作成から取り掛かった。淳一はK老人病院への支払いを急いで済ませ、直ぐに管理計算報告書をまとめ上げた。
その翌日はチヨの四十九日の法要を健次と同じ寺で行なった後、裕子に役所から取っておいてもらった死亡診断書のコピーを添えて家庭裁判所に書類を郵送することができた。さらにその日のうちに、成年後見登記終了申請の書式に記入し、チヨの除籍謄本を添付して法務局後見登録課に書留郵便で送った。
この年の2月下旬、K老人病院から退院後アンケートの依頼状が届いた。淳一はフォーマットに従って、診療、看護・介護、入院費用、家族への連絡や対応などについて十分に満足している旨の回答を記入した後、意見または感想欄に以下の言葉を綴った。
『10年半もの長きに渡り、手厚い看護・介護を行なっていただいたことに対して心から御礼申し上げます。K老人病院に入院できた直後に面会した時の驚きは今でも忘れることはできません。入院前はかなりきつい顔だった母が、まだ何日も経っていないのに温和でにこやかな表情になっていたことです。そして、それが10年間ずっと続いたことです。アルツハイマー患者も瞬間的には自分の置かれている状況が分かるのだと思います。その記憶が続かないだけだと思っています。でも、感情はそれよりも少し長く維持されるように思えてなりません。母がずっと温和な表情で過ごすことができたのもK老人病院の皆様のご対応の賜物と考えております。この病院は本当に素晴らしい病院であると思います。本当に有難うございました』
記入を終えた淳一は、もし由美子がチヨと同じような病状になった場合、自分は父健次が行なったような対応を取ることができるかどうか考えてみた。一番の問題は病院への支払いができないかもしれない、ということであった。チヨが入院していた10年間に入院費用は随分と上がってしまった。『このまま上昇し続けるのであれば、そのうち自分たちのような普通の生活者には家族を入院させることができなくなるのではないか』と心配になった。
3月に入って裕子からメールが来た。細かな連絡事項以外に墓石の横に刻字することに関しての記載があった。
『Y石材店から、墓誌に刻む戒名などの確認の手紙が届きました。間違いは無かったので、昨日了解の旨を電話で伝えました。先日依頼した時、お母さんの年齢は位牌の裏に書いてあった「行年85歳」と頼んでいました。でも、改めて確認の為の用紙を見ていたら、「満83歳なのに85歳でいいのかな?」と心配になってしまいました。石材店への電話の時にちょっと訊いてみたら、同じ様に思う人が何人もいるらしくて、説明してくれました。行年とは、この世に生まれてからの修行年数のことで、数え年で計算するのだそうです。それで、新年になると1歳増えるので、誕生日前の人は満年齢に2歳足した年齢になってしまうようです』
行年に限らず、その地方で育まれてきた昔からの風習や習慣などは、普段全く気にかけないで生活しているだけに、淳一たちには詳しくは分からないことが多かった。この種のことは叔母たちなど多くの先輩に教えてもらいながら何とか対応していった。
淳一は、ここ数年間ずっと懸案事項であった健次の遺産相続を、チヨのそれと一緒に行なうことできちんと終わらせる覚悟を決めた。チヨの成年後見も終了できたので、淳一、真理、裕子の三人の間で了解し合うことさえできれば、もう家庭裁判所の意向を気にする必要はなくなった。税理士に依頼すれば簡単に済みそうであったが、自分たちの経済面や関係性を知られてしまうことに抵抗感があったため、三人で協力してやろうということになった。
2008年5月になって淳一が作成した両親の遺産相続の基本的な考え方を妹たちにメールで提案し、合意することができた。その骨子は、父健次が亡くなった時に取り決めたものを基本とした。
『土地と家などの不動産は裕子が相続する。現金や預貯金は多額ではないので、裕子が家を守るために必要な額以外は、主に淳一と真理とで相続する。さらに、預貯金の一部は淳一名義の貯金として確保し、今後必要になる健次とチヨの法事などの費用に充てる』
基本的な了解は得られたものの、遺産分割協議書を完成し実際に分割を行なうには、この時点の三人には想像もできないくらい沢山の事務処理をこなさなければならなかった。
インターネットを検索して遺産相続に必要となる書類を確認し、文書のフォーマットをダウンロードすることから始めた。
先ず必要となるのは、両親それぞれに関する遺産目録の作成であった。それらの遺産は、土地、建物、現金預貯金等に分けてまとめなければならなかった。チヨは不動産を保有していなかったので現金預貯金等だけで済んだ。とにかく漏れなく全ての遺産を見つけ出し、整理しリスト化しなければならないので、父の分を含めて再度徹底的に調べることにした。普段見たことがない父母の現金や通帳を求めて、タンスの引き出しや小さな金庫の中などを隅から隅まで探す作業はなかなか大変であった。
健次が亡くなった直後に金庫の中身を調べていた時、健次名義の株券が出てきていた。額としては大したものではなく、健次が勤務していた会社の持株会か何かに入っていて買い貯めたもののようであった。株券に関しては、翌年の2009年1月から上場企業の株券が一斉に電子化されることが取り沙汰されていた。株主としての権利は証券会社などの口座で電子的に管理されるようになり、自宅などで保管している株券は紙くず同然になってしまうという真偽の程が定かではない情報もあったので、手続きを急いだ。
もう一つの大変な作業は遺産分割協議書の作成であって、これも両親それぞれについてまとめ上げなければならなかった。文字や数字などを間違うと文書自体が作成し直しになるとの情報があったので、一字一句しっかりと確認しながら作成を進めた。必要部数は相続人の数である3部であったが、押印の仕方が拙いと無効になるとのことだったので、念のため1部余計に作成し、全員の押印が成功したら、種々の手続きが完了するまでは淳一が予備の文書を保管し、全てが完了した時点で廃棄することにした。
また、分割内容については三人の合意が形成されていたので、それぞれが相続することになる遺産の名義変更の方法などの調査も並行して各自で行なった。不動産、銀行、信用金庫、生命保険など、それぞれ独自の名義変更手続きがあって、手抜かりがないよう注意しながら進めていった。
ある銀行では、分割協議書、相続人全員の戸籍謄本と印鑑証明書を添付することまで要求された。生命保険や簡易保険などの受け取り手続きもそれぞれの会社について調べてから、一つずつ対応していった。
株券は真理が相続することになり、担当銀行の事務センターに電話で確認したところ、配当金に関しても遺産分割協議書に記載した方が良いとのことであり、『健次が保有していた株の未払い配当金全て』のようにまとめて記載すべきとのアドバイスまで受けた。これを受けて、一度は出来上がったと思っていた健次の遺産相続に関する協議書3部と予備文書は作り直した上で再度三人の署名押印を行なうことになった。
7月中旬から8月上旬にかけて三人はかなり精力的に動き、ようやく8月20日に三人が集合し、皆でいくつかの銀行などの相続手続きを完了させることができた。残ったのは裕子の相続分である家と土地などに関する不動産の相続手続きだけになった。
裕子が法務局の相談窓口で訊いたところ、申請に必要な書類と記入方法等を丁寧に教えてもらえた。これまで大変な思いをしていくつかの申請手続きを何とかやってきた経験が不動産の相続でも大いに参考になり、随分とスムーズに申請できた。
9月になってから法務局への申請も無事完了し、しばらくしてから『登記識別情報』を受け取ることができた。裕子は真理とともに法務局に行ったのであったが、これまで通り『権利書』を受け取るものと思っていた。ちょうどこの頃、新しい法律ができ、『登記識別情報』が発行されるようになった。
不動産の手続きについて淳一は裕子に任せきりでいたので、裕子からのメールを読んで戸惑った。勤めていた会社を定年退職した際、退職金で家のローンの残り全部を支払い、銀行の推薦する専門家に依頼して家の登記を済ませたばかりだったが、『登記識別情報』に関しては全く知らず、権利書を受け取っていたからである。
しかし、とにもかくにもこれで両親からの遺産相続を兄妹で協力して完遂させることができたので、三人は心から安堵した。母チヨの死去から8カ月、父健次が亡くなってからは実に3年も経過していた。
一周忌を行うのは命日より少し早くても良いが遅れるものではないと言われていたので、2008年12月14日に実施した。健次の時と同様、父母の兄弟姉妹と子供達だけの小人数で集まり、午前中に寺で法要を行ない、参列者全員で墓参りをした後、近くの割烹店でお斎を行なった。
翌年の正月2日、チヨの命日にK老人病院から立派な生花が丁寧な挨拶状と共に淳一の家に届いた。全く予期していなかったため、淳一は驚くとともにK老人病院の暖かさに感銘を受けた。
このままいただき放しにはできないと思い、妹たちと相談し、真理と裕子は手土産を持ってK老人病院を訪れて心からお礼を述べ、淳一は礼状を出した。
『このたびは、故 母聖滝チヨの一周忌に際し大変豪華な生花をお贈りくださいまして、本当に有難うございました。早速、母の遺影の前に飾らせていただきました。
お蔭様で12月14日、菩提寺に於きまして母の一周忌の法要を執り行なった後、父母の兄弟姉妹や子供たちで、若かりし頃の母の写真を見ながら思い出を語り合いました。
振り返ってみますと、10年以上もの長期に亘りK老人病院の皆様には本当にお世話になりました。家族にはなかなかできないような暖かな介護をしていただけたと感謝の気持ちで一杯です。本当に有難うございました。
K老人病院では私たちの母のような方が次々に来られ、皆様は母と同じように暖かくお包みくださるため大変お忙しいと思いますが、どうかご自愛ください』




